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川路と篠原国幹

2011年02月23日 | 川路利良

川路利良は日本の近代警察制度の基礎を造った人物として高く評価されています。
しかし故郷・鹿児島では「西郷さんに弓を引いた」という理由で、長年評価が分かれていた
と聞きます。

西南戦争で西郷軍と戦うこととなった川路ですが、もちろんはじめから敵対していたわけで
はありません。
川路にとり、西郷隆盛は世に出るきっかけを与えてくれた恩人ですし、桐野利秋・村田新八
・篠原国幹といった西郷軍の指導者たちも戊辰戦争では共に戦った戦友です。

戊辰戦争研究の基本資料とされる『戊辰役戦史』には「兵具隊(隊長は川路)の動きはきわめて
勇猛であって、最強といわれた薩軍の一番隊から六番隊までの本隊と比べてもいささかも
見劣りしないほどであった」と記されています。
川路の兵具隊と比較された一番隊から六番隊ですが、隊長は桐野利秋・村田新八・篠原国幹
・川村純義・野津鎮雄・野津道貫が務めていました。
司馬遼太郎の歴史小説『翔ぶが如く』には桐野利秋が川路の対照的存在として登場し、二人
の対話の場面などはとても魅力的に描かれています。
しかし残念ながら川路と桐野の交流を伝える史料は見つかっていないようです。
ただ川路と篠原国幹の間に交流があったことは、川路の漢詩集である「龍泉遺稿」からうかがい
知ることができます。

篠原は天保七年(1837)生まれなので、川路の二歳年下になります。
和漢学を好み、剣術や馬術も極めた文武両道の士であったといいます。
鳥羽伏見の戦から始まる戊辰戦争では各地を転戦し、勇猛の名を馳せます。
戊辰戦争で活躍した篠原は、川路と同じく賞典禄八石を賜っています。
明治二年(1869)には鹿児島常備隊の大隊長を任ぜられ、同四年には陸軍大佐を任ぜられてい
ます。
寡黙なところや、漢学の素養が深かったところは川路と共通しています。
薩人は寡黙が多いといいますが、川路も篠原も特に寡黙だったといいます。

明治六年(1873)十月に西郷が下野すると、篠原も翌月に陸軍少将の職をなげうって鹿児島へ
帰郷してしまいます。
「私情においては誠に忍びがたいが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。
大義の前には私情を捨てて、あくまで警察のために献身する」と言い政府に残った川路とは
相反する道を選んだわけですが、川路は篠原との別れに際し
「送篠原君国幹帰郷(篠原君国幹の郷に帰るを送る)」
と題する漢詩をつくっています。

無奈河梁別涙紛、高樓絲竹不堪聞。
憶君明日函関路、回指江門入白雲。

河に架けた橋の上で、暇ごいをするのに、涙がとめどなく流れるのを、どうしようもなく、
(君の送別の宴の開かれているこの)高殿で、耳にはいる音楽に私の気持は堪えられない。
君が明日には、箱根の関をこえて、故郷へ旅立つことを思いやる。ここ別れの場所で、私は
頭をめぐらして、江戸にむかい、君はこれから先の箱根路にかかる白雲の中へ入る。

別れから三年四ヵ月後の明治十年二月、「政府に尋問の筋これあり」として西郷軍は挙兵し
ます。
篠原は西郷軍の一番大隊長として鹿児島を出発しますが、三月四日、肥後の吉次峠で陣頭に
立って指揮しているところを狙撃され戦死しています。

篠原の墓は鹿児島県鹿児島市上竜尾町の南洲墓地にあります。
中央に西郷隆盛、その左に桐野利秋、右に篠原国幹の墓があります。
私はこれまでに三度南洲墓地を訪れていますが、いずれも休日であったためかボランティア
で墓地案内をされている方が何人もいらっしゃいました。
私も案内をお願いしたことがありますが、西郷軍の面々について逸話を交えながら二時間近く
熱く語ってくださいました。
「彼らが生きていれば…」
何度もそう繰り返していたのを憶えています。


※写真は篠原国幹の墓