幕末掃苔屋 公式ブログ

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川路大警視の道 比志島から鶴丸城まで②

2011年02月08日 | 川路利良

つづきです

比志島を訪れるのは今回で二回目です。前回訪れた時は長伝寺墓地にある川路家の墓を調査
しました。
一本道なので、迷う心配はありません。
道の左側には田んぼが広がり、右側には山がそびえています。
車はポツポツ通りますが、人はほとんど見かけません。のどかな農村です。
皆与志小学校を通過しました。川路が自費で創設した明命黌を前身としているため、校章は
川路家の家紋である六つ丁字とのことです。

いつも旅ではショルダーバッグを使っていますが、片方の肩に負担が集中しないようにと考え、
今回はデイパックにしました。
たくさん歩くことがわかっていたため、そんなことにも気を回しました。
しかしよく考えれば、川路は二尺七寸四分の愛刀を左腰に帯びて歩いたはずなので、やはり
ショルダーバッグにしておけばよかったかなと思いました。

道は山へと入って行きます。
けっこう急な下り坂で、早足で歩いているとひざがカクカクしてきました。

途中、困ったことが一つだけありました。
それはトイレに行きたくなったことです。
小の方です。
しかしいくら山道を歩いてもトイレは見当たりません。
最悪の場合、少し道からそれて用を足すことも考えました。
これがただのピクニックであればそうしたかもしれません。
しかし「私は今、川路大警視の道踏破の途中なのだ」という思いがそれを止めさせました。
明治初年の警視庁では、往来で用を足す市民の悪癖をなくすために随分苦労したと聞きます。
往来で用を足している者を見かけると駆けつけて注意したため、警視官は「小便木刀」という
あだ名をつけられたそうです。
「川路大警視の道踏破の途中でそんなことはできない」
そう思い我慢しました。
公衆トイレに出会えたのはずいぶん先でしたが、大変ありがたく感じました。

山を下ると河頭の交差点があり、そこからは川沿いの道を進みます。
相変わらず人とはほとんどすれ違いませんが、車の量はけっこう増えました。
花野口の交差点を過ぎると「鶴田義行像」という看板を目にしました
「だれだろう。歴史上の人物なのかな?」と思い看板に従って少し横道に入ると、とても立派な
顕彰碑と体操選手のような銅像がありました。
顕彰碑には
「苦しいうちはダメ 鍛錬不足の証拠 
 苦しさに慣れ平気になって 本当の苦しさ探求が始まる」
という言葉が刻まれています。
解説によると、鶴田義行氏はここ伊敷町の出身で、第9回アムステルダム五輪と第10回ロサ
ンゼルス五輪に出場し、200メートル平泳ぎで金メダルを獲得した方だということです。
日本人では初の五輪連覇者だそうで、銅像の胸にはたしかにメダルがあります。
顕彰碑を眺めていると後ろから「ありがとうございます」と声をかけられました。振り向くと
車窓から女性が顔を出しています。

その女性から「鶴田義行は私の叔父なのです。この碑のためにわざわざきてくださったので
すか?」と聞かれたので「いや、通りがかりのものです。とても立派な石碑と像ですね」と
答えました。
「元々は顕彰碑だけ建てるつもりでした。しかしこの碑ができたことが新聞に載ると、新聞
を見た当時89歳の方から『実は鶴田氏の銅像があるのだが』という連絡をいただいたのです。
そこで顕彰碑と銅像を並べることにしたのです」と教えてくださいました。
「新聞がきっかけで叔父様の銅像と顕彰碑が出会ったのですね!銅像を作られたのはどのよ
うな方なのですか?」とお聞きすると、「学校の校長先生をされていた方です。今は九十代
半ばですが、若い頃に叔父にお会いになったそうです」と教えてくださいました。
このとき、私の中でピーン!とくるものがありました。
「もしやその方は肥後精一先生ではありませんか?」
「そうです!ご存知なのですか?」

肥後精一先生は「明治のプランナー大警視川路利良」「大警視川路利良随想」「現代語訳付
 龍泉遺稿」「川路利良に学ぶ」などの著書を持つ川路利良研究の第一人者で、現在川路を
研究している人で肥後先生を知らない人はいないでしょう。
私も電話や手紙で何度かご指導いただき、十年ほど前には桜島の肥後先生をお訪ねしたこと
もあります。
肥後先生は平成二年に鹿児島県横川町に川路の銅像を建てたので、その話をお聞きしたこと
があります。その時に、「川路の他にも郷土の英雄の銅像を作った」と聞いていたことを思
い出し、「それがこの鶴田義行氏の銅像か」と合点がいきました。
そんなことをお話しすると、
「そうでしたか!東京からいらしたのですね。よろしければどうぞうちにあがってください。
お茶を入れますので」とおっしゃってくださいました。
「川路大警視の道」踏破の途中ですが、せっかくのご縁ですし、じっくりお話もお聞きした
かったので、お言葉に甘えることにしました。

声をかけてくださった女性は真竹由子さんとおっしゃり、鶴田氏の姪にあたる方でした。
真竹さんのお宅では、鶴田氏の写真や当時の新聞の切抜きや表彰状など貴重な資料をたくさん
見せていただきました。
珈琲とさねん餅をごちそうになりながら、鶴田氏の思い出やエピソードをいろいろと聞
かせていただくことができました。
若い頃の鶴田氏が、家の近くの川から桜島まで泳ぎスイカを盗んで腰にゆわえて帰ってきた
とのエピソードには驚かされました。
鶴田氏と肥後先生の関係についても詳しく教えてくださいました。肥後先生は若い頃、当時
愛媛にいらっしゃった鶴田氏を訪ね、家に泊めてもらったことがあるそうです。
その数十年後、肥後先生は郷土の英雄を顕彰したいという思いから、鶴田氏の銅像を建立し
たのだそうです。

真竹さんに肥後先生の現状をお聞きすると、数年前から体調を崩されていて、直接連絡が取
れないでいるとのことでした。真竹さんはその場で肥後先生の知人に連絡を取ってくださり、
先生の近況を教えてくださいました。
真竹さんから色々とお話をうかがっていると、真竹さんのご主人が犬の散歩からお戻りにな
りました。犬はとても人懐っこく、犬好きの私にはたまりませんでした。
名前はチェストというそうです。日置市にあるチェスト館の前に捨てられていたのでそう名
付けたそうです。鹿児島の犬にはぴったりの名前だと思いました。
真竹さんご夫妻とすっかり話し込んでしまい、結局1時間45分もお宅に上がりこんでしまい
ました。

これから鶴丸城まで歩くと言うと、「車でお送りしますよ」と言ってくださいました。しかし
川路大警視の道は歩かねば意味がないので、主旨をお伝えし丁重にお断りし、連絡先を交換
してからお別れしました。真竹さんご夫妻とチェストくんは家の外まで出てきて見送ってく
ださいました。
心に残る旅の思い出ができました。本当にありがとうございました。

つづく

※写真は鶴田義行氏の顕彰碑と銅像