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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

フィリッピンの新大統領は”トランプ”か

2016-05-11 05:51:24 | 2012・1・1
フィリッピンの新大統領にロドリゴ.ドウテル氏(71)が当選した。マスメディアは、その過激な発言から米国の共和党大統領候補トランプ氏になぞらえているが、果たしてそんな人物なのだろうかー。英語版wikepediaを読むと、ドウテル氏はルソン島生まれ、ミンダナオ島育ちで検事出身で、過去6期20年間にわたってミンダナオ最大の都市ダバオの市長を勤めている。市長在任中の最大の評価は、かって治安が悪かったダバオをアジアでも有数な安全な都市にしたことである。しかし、一方では犯罪撲滅のため”犯罪者は殺せ”といった”暴言”を吐き人権団体から批判を浴びている。 

僕は昔、1950年―70年代、新聞社の外信部に勤務してイスラム圏を担当していたが、当時フィリッピンではMILF(モロ解放戦線)のテロがミンダナオ全域で日常化していて、危険だから行くなと言われていた。MILFのテロは,その後日本政府の仲介もあって、政府間で和平協定が成立、今は日本人のミンダナオ渡航は自由に行けるが、この治安確立にはドウテル市長の功績もあったと指摘する向きもある。

戦前、ダバオには2万人もの日本人がいた。現在フィリッピン全域の在留邦人は18,870人であるから、いかに多くの日本人が生活していたかが判る。当時、ダバオはマニラ麻の生産地で、日本人の多くはこれに従事していた。現在、ダバオ市内には当時の日本人の記録を残す小さな博物館もある。多分、ドウテル新大統領もご存知のはずである。

ドウテル氏は1945年3月生まれで、戦争を知らない世代である。日本について、どのように認識されているか知らない。偶然だが、インドネシアのウィドド大統領もスラカルタ(ソロ)市長である。とかく、日本の外交は地方政治家とのパイプがないと言われている。6月の大統領就任式には中国を意識して大物政治家を派遣したほうがよい。

昭和20年5月 躑躅(つつじ)の記憶

2016-05-10 05:43:21 | 2012・1・1

自宅近くの目黒通りに面した歩道脇の躑躅(つつじ)の花が満開だ(写真)。毎日、足の訓練を兼ねて駅前のスーパーまで買物へ行く途中、歩道の鉄柵に腰を掛けて一服(死語に近くなってしまったが)して、この躑躅を眺めることにしている。躑躅には戦争中の苦い思い出はあるがー。

敗戦の年、昭和20年5月は異常気象であった。亡父の残した日記によると、”初夏近いというのにこの寒さ”(11日)”気温上がらず、この季節なのにまだ冬シャツ、綿入れ”(13日)とある。中学3年だった僕は、動員先の軍需工場が4月15日の京浜空襲で焼け、”動員浪人”として学校近くの疎開建物の取り壊しに従事していたが、雨の日が多く、家でブラブラしている日が多かった。

そんな日々の中で、東京の山の手大空襲があった。23日深夜、わが家の近くにも焼夷弾が雨のように投下され、燃えた破片の一つが家の裏の崖にも落ちてきた。父母と一緒に火叩きに水をつけ、懸命に消したことが鮮明な記憶にある。今思えば、崖には躑躅が植えられていたはずなのだが、僕の記憶には全くない。71年経って、焼夷弾が落ちた躑躅畑は、コンクリートの塀に変容し,躑躅の花は一本もない。

ロシアとの談判 破裂させないように

2016-05-09 05:36:59 | 2012・1・1
戦前、僕がまだ子供だった頃、少女たちの間で”いちれつ談判破裂して日露戦争始まった”で始まるまりつき唄があった。日露戦争は明治37年(1904年)~38年だから、当時はまだ戦争が終わって40年ほどだったのだが、遠い昔の出来事のように感じた。”平和条約締結後、ソ連(当時)は歯舞、色丹群等を日本側に引き渡す”旨明記した日ソ共同宣言が発表になったのは昭和31年(1956年)、今年で60周年になるが、つい最近のように錯覚するのは不思議である。しかし、60年は長い歳月である。同じ年起きた「スエズ戦争」や「ハンガリ動乱」を想起すれば判る。世界は大きく変化したにも関わらず、日露(ソ}関係はまったく動いていない。

先日、ロシアの保養地ソチで行われた。安倍晋三総理とプーチン大統領との間の首脳会談で”懸案の北方領土問題について新たな発想に基づくアプローチを進める”で終わった。新たな発想とは何か、日ソ共同宣言後60年、そのつど、その当時の首脳が、新たな発想で解決を試みたが、僕の記憶に残っているのは、鈴木宗男担当大臣が、現地に”ムネオ.ハウス”を建てたぐらいで、問題解決には役立っていない

安倍総理はソチ会談に当たってロシアの極東地域のエネルギー開発を軸にした経済産業協力案を提示したが、申し訳ないが、ロシアがこれでもって領土問題解決に応じてくるとは思えない。過去に一方的に日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、参戦してきた例がある。したたかな談判相手である。さりとて談判を破裂させてはならない。”新たな発想”は会談を引き延ばすためのお茶濁しにすぎないが,破裂させないよりは良い。時期を待つより仕方がない。

「トト姉ちゃん」と戦前昭和の時代

2016-05-08 05:08:56 | 2012・1・1
NHKテレビの朝の連続テレビの「トト姉ちゃん」が人気のようだ。老妻が毎朝見ているので、つられててみたら戦前昭和の東京の木場を舞台に話が展開されている。何でも、戦後大ヒットした雑誌「暮らしの手帖」を創刊した三姉妹の自伝をドラマ化したものだとのこと。馬齢のためだろうか、話の筋にはついてけないが、何故かドラマの大道具、小道具などに郷愁を感じる。

三姉妹の割烹着姿がなつかしい。戦前から戦中、戦後も昭和30年代頃までだろうか、都会では、女性の烹着姿がめだった。とくに僕ら戦中小学生だった世代には、「愛国婦人会」の襷がけで割烹着の女性が駅頭で”千人針”の協力を呼びかけていた姿が今でも目に残っている。戦後もまだスーパーなど便利なものがなかった頃は、家庭の主婦は割烹着に竹編みの買物袋を提げて買物に出かけていた。昭和31年、結婚したまだういういしかった老妻もそうだった。

その「トト姉ちゃん」の一場面の、目立たない通行人役の一人が今風のリュックを背負っていた。ここ数年、リュックが流行っているようで、僕ら老人でも時たまリュック姿を見かける。しかし、僕の記憶では戦前、リュックは登山者か、遠足の子供しぐらいしか使わなっ気がする。例外は戦争中の買い出しで、亡くなった母親が箪笥から古い帯心を持ち出し、手動ミシンでリュックを作りヤミ米の買い出しに出かけていた。

戦後長い間、リュックは忘れられていたが、1970年ごろ、バックパックと名前を変えて復活してきた。最近、杖のお世話に成り始めた僕もリュックを使うが、若者とは違い、忘れ物が多くなった僕には、なんでも中に突っ込める「頭侘袋」の方が便利なようだ。

89歳 元気な秘訣は「蕎麦屋酒」

2016-05-07 05:53:24 | 2012・1・1
東京では江戸の昔から昼間、蕎麦屋で酒を飲むのを「蕎麦屋酒」と粋な飲み方とされている。長屋の大家のご隠居さんなどが、昼過ぎ,客の一段落した蕎麦屋へ出かけ一人でちょっぴり酒を楽しむことから来ている。半世紀も前、まだ若造だった僕は、妙に粋がって夜勤明け、神田まで出かけ「蕎麦屋酒」を試みたが、たしかに当時ご隠居さんとみられるお年寄りが一人御酒を召されていた風景があった。

連休の一日、その昔仕事上で知り合った40年来の友人から電話があり、横浜駅ビル階下にある飲食街の蕎麦屋を指定してきた。1年ぶり再会だったが、大学時代ラグビー選手だった彼は89歳にも拘らず元気だったが、さすがに腰を痛めて杖のお世話にはなっていた。現役時代、大手の広告代理店に勤務していた彼は食通で、特に蕎麦については精通している。、、

二人は若い時には”斗酒なお辞せぬ”大酒のみだったが、やはり、歳月には勝てない。二人とも「蕎麦屋酒」のご隠居さんになっていた。ビールで軽く乾杯した後、昔、二人が昔勤務していた福島県の地酒「奥の松」の一合ビンをそれぞれ注文、イタワサ、卵焼きを相手に、チビリチビリ。そして最後にかけそばで〆にした。

蕎麦は長寿によいと聞く。長生きしている友人の中にも蕎麦好きが多い。医学的に正しいかどうかは別にして、老人になれば若い時と比べて食は細くなり、あまり”あぶらっこい”ものを身体が受け付けなくなる。二人は1時間ほど、昔の話をし、現況を語り合ったが、二人の共通点は、まだ酒は飲んでいるが、薬はあまり飲んでいないことだ。

ヘイトされても仕方がない韓国人のマナー

2016-05-06 05:54:47 | 2012・1・1
戦前の双葉山時代から相撲を見ている僕だが、前から気になっていたのは、今場所関脇に昇進した琴勇輝の土俵上の最後の仕切りで「ほうっ」咳払いする仕草だったが、夏場所限りでこれを止めるときいて、ほ―っとした。大相撲の所作には古くからの神事に由来しているのものが多い。”塵(ちり)をきる”所作とか”塩をまく”行為など、その一つだが,琴勇輝の「ほうっ」の動物的な雄叫びはあまりにも神事にはほど遠い。

先日、埼玉スタジアムで行われたサッカーのアジア.チャンピン.リーグの浦和レーズと韓国の浦項との試合の後、両チームの選手がいり乱れて乱闘寸前になったのをテレビ画面で見た。原因は韓国の選手がピッチの上に自分たちの使ったテーピングを投げ捨て、これを浦和の選手が注意したことからであった。韓国では当たり前の行為なのかもしれないが、日本人からみれば、スポーツマン.シップにもとる汚い態度だ。

特定の人種や民族に対する差別的な言論が街頭でたびたび繰り返されていることに対して、これを取り締まる法案「ヘイト.スピーチ取締り法」案が今国会で与野党一致で可決される見通しだ。確かに一部の日本人の特定の人種民族(主として韓国.朝鮮人)に対するスピーチは過激すぎる。原則論から言えば僕も法案に賛成である。しかし、一方では何故、特定の外国人にだけ日本人が嫌悪するのか、その深因がわかれば、今回のサッカー選手のような行為はしないはずである。ヘイトされる原因も相手側にもある。

(注釈)が必用になった「背くらべ」と「鯉登り」

2016-05-05 05:17:08 | 2012・1・1
孫まで成長して周囲に子供がいなくなったためなのだろうか、今の子供たちが将来大人になった時、想い出として「こどもの日」が残るのかどうか疑問に思うことがある。戦前、「こどもの日」が男の子の「端午の節句」だった時、東京ではは3月3日の女の子の「桃の節句」と同じように、鍾馗(しょうき)様などの勇ましい武家人形を雛壇に飾る家が多かったように思うが、今はどうなのだろうか、あまり聞いたことがない。同じような風習が童謡「鯉登り」や「背比くらべ」にも歌われているが、姿を消しつつあったたり、子供には意味が解らなくなり、(注釈)が必用になってきた。

♯ 「背くらべ」(作詞海野厚 作曲中山晋平 大正12年)
「柱の傷はおととしの5月5日の背くらべ ちまき食べ食べにいさんが計ってくれあた背の丈
昨日くらべりゃ何のこと 羽織の紐(ひも)の丈」
♯ 「鯉登り」(小学校唱歌 作曲弘田龍太郎 大正13年)
「甍(いらか)の波と雲の波 重なる雲の中空に 橘(たちばな)かおる朝風に高く泳げや鯉登り」

昭和30年代、僕は東京の木造平屋建ての家に住んでいたが、床の間もあり柱もあって、5月5日に子供の背丈を計り傷をつけた記憶がある。が、今の家には柱もないし、畳の間は絨毯がかぶせられている。羽織の紐といって普段着物を着たことがないし、その丈が何センチあるのか80老の僕でさえ知らない(男性の大人で平均25.5センチ)。甍といっても都会では瓦家のが少なくなり、とても波状態ではない。橘の木を見たことさえない。

東京タワーの見える地に使わなくなった鯉のぼりを集めた名所が登場した。こんな名所でも作らない限り、鯉登りは将来消えて行くかもしれない。こういった季節の行事は年々変わっていくのは当たり前だが、年寄りには寂しい気持ちもする。

清正公(せいしょうこう)様の大祭と”地震の加藤”

2016-05-04 05:19:36 | 2012・1・1
5月4日と5日は東京.白金の清正公(せいしょうこう)様の年に1回の大祭である。清正公様は正式には日蓮宗最正山覚林寺という日蓮上人が生まれた房州小湊の誕生寺の末寺だが、江戸時代から境内にある加藤清正の像を祀ったお堂が市民の間で”せいしょうこう”さんの愛称で親しまれている。とくに大祭には季節の菖蒲の名にかけた”勝負”の勝ち守りが売られ、江戸っ子の人気を集めている。

勝ち守りは加藤清正の勝負運の強さと”人生の苦難に打ち勝つ”という意味を込めているが、今年は先月來続いている熊本大地震もあってか大祭の人出は例年より多い感じだ。熊本城は幸い倒壊は免れたが、重要文化財の長塀が崩れたり被害が出ている。それにいまだに数万人の人が避難生活を送っている。僕も熊本の人たちが苦難に打ち勝って復興されることを願って参詣してきた。

地震といえば”地震の加藤”という言葉がある。ちょうど400年前の1596年の慶長伏見の大地震の際、石田三成の諫言で清正が豊臣秀吉から閉門中だったのにもかかわらず、、地震直後いち早く城へ駆けつけ秀吉を救出したという故事に題材をとった歌舞伎の狂言から来ている。真偽のほどは解からないが、清正は熊本城築城の際、伏見での経験を生かしたとも言われている。

ここ数年、僕も入院が続いている。あまり縁起にはこだわらないのだが、”病魔に打ち勝つ”ため,菖蒲の勝ち守りを一体求めて帰宅した。

ダイエー碑文谷店への挽歌

2016-05-03 06:00:04 | 2012・1・1

近所のダイエー碑文谷店が5月5日で閉店し”イオンの店に生まれ変わる”そうで、あと幾日セールの広告が毎日、新聞に折り込まれてくる。早速、老妻が娘と一緒に名残を惜しんで買物に出かけてきたが、思ったほどの人出ではなかったそうだ。ダイエー碑文谷店は昭和50年(1975年)、ダイエー.グループの「巨艦店」としてオープンした。地上7階、地下1階の大型店で、駅から遠い、こんな辺鄙(へんぴ)な場所で果たして商売になるかと当時話題になった。

わが家は昭和47年、僕の札幌転勤でオープン時は知らないが、56年10年ぶりに帰京すると、オープン時の危惧をよそに店が繁盛しているのに驚いた。店のあたりは、私鉄の駅からも遠くて開発が遅れ、戦時中は高射砲陣地があった地、昭和30年代でもまだ竹林や田畑まであった。建物も当時、ブームだったボーリング場として設計されたものだった。

開店して41年、その間、日本の経済はバブルがあって、やがてそれがはじけ、長いデフレ期から脱却できない。一時は日本の小売り業界を席捲したダイエー.グループの碑文谷店は「巨艦」であり、米国から農務長官も視察にくるほど、グループの象徴でもあった。まさか、その「巨艦」が、他の企業に乗っ取られるとは想像もしていなかった。挽歌を送りたいがその言葉もない。

銃後21歳で逝った姉の死に想う

2016-05-02 06:50:42 | 2012・1・1
一人だけの姉弟だった姉が昭和19年5月2日、21歳の若さで早逝して72年になる。姉は戦争中、若者たちが戦場へ駆り出された人出不足の銃後の社会で、働きすぎが原因で肺結核で倒れ、僅か5か月の病床で不帰の客となった。姉は戦争には直接関係がない、生命保険会社に勤務していたが、戦死者が多くなった時世を反映してか毎日、夜7時過ぎまで夜勤が続き、その過労が引き金になってしまった。

昭和19年という年は”大東亜戦争が益々過酷の度を極めてきた年”(亡父の日記)で、戦場だけではなく銃後の社会も峻烈であった。食糧も衣類もなくなり、すべて弱い者にしわ寄せが来た。そんな中での姉の病床生活であった。亡母は看護の傍ら、姉に少しでも栄養があるものをとヤミの卵や牛乳を買い出しに歩いた。中学1年だった僕も毎日、高熱の姉のために1貫5百目(約6㌔)の氷を買いに行った。近くの医師も連日、往診にきてくれたが、当時は結核の特効薬はなかった。

姉ばかりではない。この年8月Ⅰ日には54歳の叔母も鬼籍を異にしている。叔母は夫に先立たれ、二人の息子を戦場に送り独り暮らしだったが、その心労と栄養不足から急死した。亡父の日記を見ると、わが家ばかりではない。毎月のように亡父は知り合い、友人の葬儀に参加している。そして定年後区役所に勤務していたが、その仕事は出征兵士を見送るのと、英霊を出迎える式に参列することであった。

大型連休の真ん中、テレビの画面を見ると、高速道路は行楽客で渋滞。空港は国外旅行客で満員。景気が悪いといっても、あの時代を体験した世代にとってはお今は好い時代である。