「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

二つあった五月の東京山の手大空襲

2016-05-23 05:41:43 | 2012・1・1
毎年五月のこの季節になると東京の山の手大空襲を想い出す。B-29による本格的な東京への空襲は昭和19年(1944年)11月24日から20年8月15日の敗戦までの10か月間に81回を数えるが、このうち大空襲とされているのは3月10日(下町)4月13日(城北)同15日(京浜)5月23日(山の手)同25日(山の手)の5つである。しかし、戦後相当な時期まで、僕は城北空襲の事は知らなかったし、二つの5月の山の手空襲を同じ日だと混同していた。

3月10日の下町空襲時、僕は東京の五反田(品川区)に住んでいて被害に会わなかったが、遠く業火が夜空に上がるのを望見している。4月15日の京浜空襲では、動員先の六郷(大田区)の軍需工場が焼失、焼跡整理に従事している。5月23日未明の空襲時、わが家は強制疎開で引っ越した今の地(目黒区)に住んでいたが、落ちてきた焼夷弾の破片を火叩きで消火した。しかし、4月13日の城北空襲と5月25日の山の手空襲には直接かかわりがない。

亡父の日記によると、5月25日から27日まで、わが家は停電でラジオを聞けず、新聞もなかった。28日になって五社共同のタブロイド版の新聞が届き、各地の空襲の被害を知った。亡父は23日の空襲の後も渋谷駅まで歩き、地下鉄で虎の門まで出勤しているが、初めて渋谷駅から神宮にかけての惨状を目にしている。僕だけではなく、当時の都民の多くは自分の周囲の被害は知っていたが、遠くの地の事については知らなかった。この結果、僕のように二回あった山の手空襲を混同していた者も多い。