「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             ”灌仏会(花祭り)とクリスマス

2013-04-08 06:52:47 | Weblog
今年は季節の歩みが早い。東京ではもう染井吉野は葉桜となり散り始めている。今日は4月8日、お釈迦様の誕生日である灌仏会、お花祭りである。あまり信仰心がないほうだが、昨日近くの古刹の前を通ったら門前にお花祭りが13日(土)に延期になったと立て看板が出ていた。平日だと参拝客が集まりにくいという理由からだろうが、キリスト様の誕生日のクリスマスが延期されたというのを聞いたことはない。

戦前昭和の頃は東京でもお花祭りは盛大で、子供たちは近くのお寺へ行き甘茶をご馳走になるのが楽しみだった。また、普段なじみのない閻魔像を見て、大人たちから”嘘をつくと、エンマさんから舌を抜かれるぞ”と言われて子供心に感じるものがあった気がする。戦後、東京ではこういった仏事を通してのお寺さんと地元や檀家との結びつきがが薄れてきたようだ。文部科学省の資料によると、日本の仏教徒の数は9600万人で、ほとんどの日本人は仏教徒なのだが、今日がお釈迦様の誕生日であるの知っている人は果たして何人いるだろうか。

年々、東京ではクリスマスの行事が盛んである。僕の家のまわりもクリスマスを祝う?電飾が花盛りである。しかし、クリスマスが平日だからといって延期になったというのは聞いたことがない。多分キリスト教徒ではなくともクリスマスの行事が華やかで、仏教徒である日本人にも信仰に関係なく魅力を感ずるものがあるのだろう。古刹の門前のお花祭りの延期を告げる立看板には、お花祭りの当日、昔ながらのお稚児行列と同時にスリランカ.カレーが参拝客に振る舞われるとあった。僕はこれは好いアイディアだと思った。仏教ゆかりのインド、スリランカのカレーを食べて御釈迦様を偲べれば功徳である。


               慰霊碑の再建と歴史認識    

2013-04-07 05:30:18 | Weblog
「インドネシア人の口からHI氏という名前が語られる時には特別な思いが込められている。その思いとは尊敬であり、憧れであり感動そして愛情である」-と最新の(財)日本インドネシア協会機関誌「月刊インドネシア」3月号に書いてある。しかし、歴史認識の問題だが、一人の日本人の僕からみれば尊敬に値する人物とは思えない。

古い話で恐縮だが、平成12年(2001年)、僕は偶然にもジャカルタ市内のタマン.プラサスティ博物館の園内の芝生に「廣安挺身隊員慰霊碑が放置されてるのを見つけた。どこの部隊かも判らず、どこで戦死されたのかも判明しない。帰国した僕は慰霊碑の由来を調べ、出来れば再建したいと有志に呼びかけた。当然、慰霊碑のあるジャカルタの邦人組織、ジャパン.クラブにも協力をお願いしたが、碑を調査した結果として、慰霊碑の”保存状態”はよいし、再建の必要はないという回答だった。この時のジャパン.クラブの事実上の交渉相手がHI氏であった。

慰霊碑は在ジャカルタの旧日本兵残留組織を初め、当時の(財)日本インドネシア協会林田由紀夫会長、インドネシア独立宣言起草に関与した西嶋重忠氏(いずれも故人)など約70人の募金協力を得て、約1年がかりでプラサスティ博物館によって再建された。募金総額は約70万円だったが、Hi氏のの提言を入れ、40万円だけ博物館に寄付し、残りで「南方各地慰霊碑一覧」という冊子を700部つくり関係筋に配布した。博物館から平成13年慰霊碑が再建されたと連絡があり、僕も東京から自費で参加したが、日本大使館からもジャパン.クラブからも一人の参加もなかった。

当時、僕はこの大使館とジャパン.クラブの冷たい対応をある雑誌に書いた。歴史認識の問題だが、僕は慰霊碑再建の話し合いの過程で、彼らは頭から日本軍は侵略者だという意識があり、慰霊碑再建もその延長線上にあるとみているように感じた。冗談ではない。先の戦争で約10万人の日本人がこの地で亡くなっている。この時の雑誌のコピーを(財)インドネシア協会にも配布した。協会の機関誌責任者も、この経緯を知っているはずである。それなのに HI氏への あまりの”よいしょ”原稿である。今の日本とインドネシアとの友好な関係は10万人の英霊の犠牲の上にあるといっても過言ではない。(写真右は放置されていた碑、左は再建された慰霊碑)

              マレー語とタガログ語

2013-04-06 06:08:16 | Weblog
マレーシア国歌「わが祖国」の元歌とされる「月の灯り」(Terang Bulan)の起源がミンダナオ(フィリピン)ではないかという音顧値針(小ブログ.子メンテ―ター)説から思いだしたのはマレー語(インドネシア語、マレーシア語)とタガログ語(ピリピノ語)との類似性だ。ご存知のようにインドネシア語とマレーシア語とは語源が植民地時代の言葉、オランダ語、英語によってそれぞれ違う程度で、文法的にはほとんど同じだ。ところが、マレー語とタガログ語ともかなりの単語が同じなのだ。

数年前の事だが、在京のインドネシア人から自分の故郷はモルッカ諸島のテルナテだが、同じ地名がフィリピンにもあると聞いた。”へえ、そうか”と不思議に思ったが、地図をみれば不思議でもなんでもない。そんなに遠くはない。戦争初期、スラウェシ島のメナドに海軍の落下傘部隊が日本で初めて降下したが、この部隊もミンダナオ島のダバオから発進している。

JICA(国際協力事業団)の研修の仕事で大勢のフィリピン人と知り合い、彼らが使うタガログ語に興味をもったことがある。本格的に勉強したわけではないが、かなり単語がマレー語と似ている。例えば1から9までの数字でも(カッコ内はマレ―語)1=isad(satu),4=apat(empat),5=lima(lima)。身体の部分でも顔muka(muka)目mata(mata)耳talinga(telinga)といった具合。

Terang bulanの歌詞の中に出てくる鰐は両方の言語ともbuayaで同じ、月はbuwan(bulan)で発音がにている。西欧諸国がこの地域に来る前の大昔、国境などなかった時代には、人々は自由に小舟に乗って往来していた名残なのかもしれない。

            ”唐土の鳥”H7N9が渡らぬ前に

2013-04-05 06:36:25 | Weblog
中国の鳥インフルエンザH7N9型で感染した患者がこれまでに14人確認され、うち6人が死亡した。昨年、インドネシアを中心に猛威を振るったH5N1型でも年間の死者は10人である。今回のH7N9型がいかに強毒性であるかが判る。日本の厚生省は全国110か所の検疫所へ予防のビラを配り、わが国への上陸阻止に懸命だ。、

1月7日の正月七草がゆの時に”唐土の鳥と日本の鳥が渡らぬ前に”と歌いながらお粥をつくる習慣の所がある。わが家でも母親が健在だった頃は包丁で調子をとって歌っていた。江戸時代からの習慣だそうだが、歌の文句の”日本の鳥が”は”日本の土地”だという解釈がある。つまい唐土の鳥が病気(風邪)を日本に運んでくる前に七草がゆを食べて栄養をつけようというのだ。

中国について、あまり悪口を書きたくないが、どうもPM2.5をはじめ環境や衛生観念に乏しいようだ、現地からの報道では上海市内を流れる河川で死んだ豚1万匹が発見されたという。上海は高層ビルが林立する近代都市だと思っていた。日本では信じられないことである。

H7N9型が上海の農産物卸市場で売られていたハトから検出されたとう報道がある。日本人あまりハトは食べないが通に言わせると絶品だそうだ。ニワトリと同じように農家で飼育されており、一部は同じハト料理を食べるフランスなどへも輸出されている。日本のフランス.レストランでハト料理を出しているが大丈夫だろうか。

”唐土の鳥”ならぬH7N8型対策として政府は4月中にも「新型インフルエンザ対策特別措置法」を策定しわが国へ流入を防ぐ。今のところ、人から人への感染はないが、もしも人への感染が始まって猛威を振るえば大変なことになる。七草を食べる程度では防げない。

             認知症の友人と成年後見人

2013-04-04 07:02:03 | Weblog
一昨日、誕生日が来ると93歳の友人から電話がかかってきて、介護のお世話になっている女性から紹介の”弁護士”から10万円支払えと言われた[ママ)が、どうすればよいかと相談を受けた。10万円という大金であり、とっさに僕の頭をよぎったのは新手の”振り込め”詐欺ではないかということだった。友人は生涯独身で、一人でのマンション住まいだ。僕は冗談ではなく、警察に届けようと思ったが、福祉関係の女性が中に入っているというので区役所の高齢者係に相談した。

すぐに区の包括支援センターの女性から電話を頂き事情が判った。友人は高齢からくる軽い認知症になっており「成年後見人」が必要な状態になっていた。数か月前から、友人に説明しており、後見人の司法書士も内定、話し合っていた。しかし、いざ契約の段になって友人は10万円にひっかったのだろう。このお金は家庭裁判所への供託金なのだが、高齢の友人には理解できていない。

昨日、僕は老妻を伴い友人宅を訪ね、区の包括支援センターの担当と成年後見センターの相談員にお越し願い友人に改めて「成年後見制度」を説明してもらった。僕もこの制度があることは薄々知っていたが勉強になった。友人は軽い認知症だが、まだ判断力はある。しかし、病気が進んで全くの寝たきり人間になってしまうと、福祉サイドでは後見人がいないと手続上でも支障をきたしてしまうらしい。かりに彼が有料老人ホームに入居したいと言っても後見人がないと難しいとのこと。

友人は戦時中、復員までの5年間も南方の戦地にいて、大学を出た時には32歳であった。就職難の時代苦学しながら勉学を続けて大学院を卒業大学の先生にまでなった。その彼がしみじみと僕ら夫婦に言った。「長生きしても難しい世の中です」高齢化時代、考えさせられる問題だ。

 マレーシア国歌「わが祖国」再考 元歌はフィリッピン?

2013-04-03 06:29:13 | Weblog
マレーシア国歌「Negalaku」(わが祖国)は1890年、当時英国の植民地だったペラ首長国の第28代サルタンだったイドリス,シャー一世が、首長国国歌として制定、これが1957年、マレーシア独立のさい数ある候補のなかから国歌に採用された。ところが、このメロディは、戦前マレーシアだけでなく、インドネシアを含む広くマレー世界で歌われていた「Toerang Bulan」(月の灯り)が元歌だというのが定説になっている。

「Toerang Bulan」については、すでに小ブログ「マレーシア国歌の起源はシャンソンか」(2012年3月14日)で触れたが、その起源に関してはシャンソン説など諸説紛々あって定かではない。ところが、小ブログを見た秋田在住の「音顧値針」氏からコメントを頂き”起源はフィリッピン.ミンダナオ島ではないか”と指摘があった。「音顧値針」氏は南方音楽の一つであるクロンチョンの権威で、中でもその一つである「Toerang Bulan」についての造詣が深い。わざわざマレーシアのペラ州の首都クアラカンサーの博物館まで行き調べられている。

昨日僕は「音顧値針」氏と東京のインドネシア料理店「せでるはな」で会いお話を聞いたが、クアラカンサ―の博物館には1904年ミンダナオで録音した「Toerang Bulan」の元歌が残っており、これがCDに収められているという。「音顧値針」氏によると「Toerang Bulan 」はミンダナオからセレベス(スラウェシ)-セラム、アンボン―フロレス―ジャワ―スマトラ(いずれもインドネシア)を経てぺナン―ぺラ(マレーシア)に渡ってきたのではないかと推測している。

「Toerang Buulan」は大東亜戦争で南方に従軍した日本軍兵士によって広く愛好され、銃後の日本でも昭和18年、灰田勝彦が歌ってレコード化されている。当時小学生だった僕は、母校の吹奏楽団が「Toerang Bulan」を東京の日比谷野外音楽堂で演奏したのを聞いている。

(「音顧値針」氏から昭和12年に「toerang Bulan 」を歌ったインドネシア人女性歌手、Miss Roekjaが98歳の高齢で中部ジャワで健在なことを知った。氏は今月中旬、商用をかねてソロへ出かけMiss Roekjaと再会する予定のこと。僕は数年前知人から頂いたMiss RoekjaのSP盤から録音したテープを氏に託した。ブログが取り持つ縁かいなである)

         東南アジア観光客の増加とハラール食

2013-04-02 06:27:18 | Weblog
産経新聞に”イスラム食に熱い視線”という記事が載っていた。敬虔なイスラム教徒は日常ハラール(halal)という教徒に許された食材を使用した料理しか食べない。このハラール食材を使った京懐石の老舗の料理店や東京大学の学生食堂などが紹介されていた。僕は日本人の中では早くからイスラム圏を旅行したり滞在して仕事をしていたが、、恥ずかしながらハラールを知ったのは30年ほど前だ。

1966年から66年インドネシアに滞在し、それに先立つ62年にはドバイなど中近東8か国を歴訪したが、まったくハラールについての知識がなかった。ハラールを知ったのは83年、JICA(国際協力事業団)の仕事でマレーシアからの”ルック.イースト”研修員の面倒を見たときが初めてだ。仙台の焼肉店に招待したが一向に食べない。当時の僕のイスラム知識は豚肉以外なら問題はないという程度であった、

一昨年の東日本大震災以後、中国からの訪日観光客が尖閣問題もあって激減しているという。それに代って数はまだ少ないが東南アジア(タイ、シンガポール、マレーシア、インドネシア、フィリッピン)5か国の観光客が増えている。例えばタイから前年比47.6%、マレーシアからは35.2%といった具合だ。

この増加にともない、東南アジアにも多いイスラム教徒用のハラールに注目が集まり、ハラールの認証を受けた食材を使った日本料理も出回ってきた。ハラールの認証を受けるための特別な養鶏場や味噌工場まであるそうだ。日本人にとってイスラムは、これまで遠い存在だったが、やっと近い存在になってきた。ハラールだけでなく、ついでに初歩的な教義について知っても満更損ではないかも。

            ゴルフ日本ツアーのアジア進出

2013-04-01 07:04:35 | Weblog
「インドネシアプロ選手権」というこれまであまり名前を聞いたことがないゴルフ大会がジャカルタ郊外のエメラルダ.コースで4日間にわたって開催されらた。ここ数年経済成長著しいインドネシアである。ついに国際的なゴルフ選手権まで開催することになったのかと驚いたが、タイトル.スポンサーはたしかにジャカルタ特別州の文化観光局だが、実質はJGTO(日本ゴルフツアー)が主催する選手権なのだ。

現役時代、万年ブービー候補だった僕はあまりゴルフについて語る資格はないのだが、この選手権は今年から「タイ.オープン」と並んで季節的には国内でできない3月、JGTOが主催してアジアに進出した公式試合なのだ。大会で獲得した選手権賞金はJGTOのランキングにも影響するとあって、今年の「インドネシア選手権」には有名選手を交えて60名もの日本選手が参加した。

ジャカルタで発行している日本語新聞「じゃかるた新聞」によると、JGTOが主催する日本の国内ツアーは昨年に比べて2試合減り、この分がタイ、インドネシアに振り分けられた。その背景としてはプロゴルフのスポンサー企業が最近、グローバル化してきて国内市場だけでなく進出著しいアジア市場に魅力を感じてきたからだという。

この傾向はゴルフだけではなくサッカーのJ-リーグにもあるようだ。膨大なサッカー人口を持つ東南アジアに狙いをさだめ無償で指導者を現地のユース.チームに派遣、将来の選手の育成にもつとめと共にJチームの知名度を向上させたい意向だという。企業だけではないのだ。スポーツの世界でも海外進出が始まったのだろうか。半世紀前のジャカルタでは、現地の人はゴルフどころではなかった。しかし、今は月収1000万ルピア(約10万円)の中間層でもゴルフに興味を持ってきたという。時代は確実に変わってきているのだ。