「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         (付録)わが大君に召されなば(8)今沢栄三郎

2013-04-27 15:05:17 | Weblog
(前略)8月15日の敗戦から半年後、昭和20年12月31日前に、オランダ軍からセラム島西端のホアマル半島のアリアテ地区に移動を命じられたのは、その年の12月に入ってからであろうか。敗戦といっても無傷に等しかった第5師団は、命令系統が確立されていたので、極めてスムーズに行動した。
移動は事前に察知していたので、マカリキでの自活態勢にあった農場で収穫する作物をビタミン補給用に重点を置き野菜を漬物にするため樽30個ほどを調達した。ホアマル半島で自活できるまでを3か月と見て、100人足らずであったが糧秣の備蓄と栄養補給源の確保につとめた。日獨伊三国同盟と南進論の挫折は神意であったのであろうか。南方諸民族のためのアジア聖戦の夢破れて、敗戦の悲しみが残っているマカリキのカンポン(村)を離れる日がきた。アタップ葺きの兵舎であったが、塵一つ残さぬように清掃した。(中略)
アリアテでは、敗戦下での捕虜としての生活が始まったが、あらかじめ収容所の建物があったわけではない。命令は占領軍から通達されていたが、各部隊は自主的に海岸線に沿って兵舎をつくり自活自営のを営む作業を整えた。(中略)
オランダ軍も豪州軍の監視のない長閑な捕虜生活へ闖入してきたのが朝鮮の人々である。ある朝、将校宿舎で荒らしく罵声がするので、駆けつけてみると、将校たちが部外者の男どおに囲まれて陳謝している姿が見えた。何事かと前後の様子を探ってみると理不尽な出来事であった。将校たちが作っている野菜畑を朝鮮の兵補が無断で奪っていくので、咎めたところ、開き直って日本は負けて、朝鮮は独立したのだから、このくらいの事は当たり前の事だという。真面目に作っている自分の所有物を暴力でもぎ取られても、力のないものは無力であることを目の前でみせつけられたものである。私どもの抗議を先任将校は、たしなめて、これでいいおだと自らをお律していた。

   「主権回復の日」と皇居前血のメーデイのあった時代

2013-04-27 06:17:58 | Weblog
4月28日は「主権回復の日」で、政府主催の式典が天皇皇后両陛下列席の下で行われる。61年前の昭和27年4月28日、サンフランシスコ条約が発効し、わが国が7年ぶりに連合軍の占領から解放され、主権を回復、つまり独立を回復した記念日である。

61年前、僕は大学4年生であったが何故かこの日について、あまり記憶がない。国もこれといったお祝い行事はしなかったような気がするが。むしろ3日目に起きた皇居前のいわゆる”血のメーデイ”事件の方が鮮明な記憶にある。僕は当時、政治にはあまり関心がなかったノンポリ学生で、メーデイには参加していなかったが、学友たちの中には大勢参加しており、警察に検挙されたものは大学から退学、休学処分にあった。その名前が掲示板に張り出されたのが昨日のように思い出される。

沖縄出身のM君も休学処分にあった一人である。M君はそれほど政治活動に熱心ではなかったが、デモに参加していた。今考えると、日本に主権が戻ってきたにもかかわらず、沖縄が除外されたことに対する抗議の気持ちがあったに違いない。まったく偶然だが10年近く前、僕は仕事で沖縄へ出かけた時、那覇のホテルのロビーでM君と再会した。久しぶりで色々昔話をした際、このメーデイ事件のことになったが、M君はまったく若気の至りと苦笑していた

今日の「主権回復の日」に対して沖縄では”屈辱の日”だという世論が高まっているという。しかし、61年前の情勢を考えれば政府が沖縄、小笠原の返還を後回しにしたのはやむをえなかった。全く沖縄の本土をあきらめたわけではない。20年と時間はかかったが、昭和47年、沖縄の本土復帰はなっている。今さら、沖縄が「主権回復の日」を”屈辱の日”だとし、県知事が式典をボイコットするのは、日本人としてその感情が解らない。