「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               慰霊碑の再建と歴史認識    

2013-04-07 05:30:18 | Weblog
「インドネシア人の口からHI氏という名前が語られる時には特別な思いが込められている。その思いとは尊敬であり、憧れであり感動そして愛情である」-と最新の(財)日本インドネシア協会機関誌「月刊インドネシア」3月号に書いてある。しかし、歴史認識の問題だが、一人の日本人の僕からみれば尊敬に値する人物とは思えない。

古い話で恐縮だが、平成12年(2001年)、僕は偶然にもジャカルタ市内のタマン.プラサスティ博物館の園内の芝生に「廣安挺身隊員慰霊碑が放置されてるのを見つけた。どこの部隊かも判らず、どこで戦死されたのかも判明しない。帰国した僕は慰霊碑の由来を調べ、出来れば再建したいと有志に呼びかけた。当然、慰霊碑のあるジャカルタの邦人組織、ジャパン.クラブにも協力をお願いしたが、碑を調査した結果として、慰霊碑の”保存状態”はよいし、再建の必要はないという回答だった。この時のジャパン.クラブの事実上の交渉相手がHI氏であった。

慰霊碑は在ジャカルタの旧日本兵残留組織を初め、当時の(財)日本インドネシア協会林田由紀夫会長、インドネシア独立宣言起草に関与した西嶋重忠氏(いずれも故人)など約70人の募金協力を得て、約1年がかりでプラサスティ博物館によって再建された。募金総額は約70万円だったが、Hi氏のの提言を入れ、40万円だけ博物館に寄付し、残りで「南方各地慰霊碑一覧」という冊子を700部つくり関係筋に配布した。博物館から平成13年慰霊碑が再建されたと連絡があり、僕も東京から自費で参加したが、日本大使館からもジャパン.クラブからも一人の参加もなかった。

当時、僕はこの大使館とジャパン.クラブの冷たい対応をある雑誌に書いた。歴史認識の問題だが、僕は慰霊碑再建の話し合いの過程で、彼らは頭から日本軍は侵略者だという意識があり、慰霊碑再建もその延長線上にあるとみているように感じた。冗談ではない。先の戦争で約10万人の日本人がこの地で亡くなっている。この時の雑誌のコピーを(財)インドネシア協会にも配布した。協会の機関誌責任者も、この経緯を知っているはずである。それなのに HI氏への あまりの”よいしょ”原稿である。今の日本とインドネシアとの友好な関係は10万人の英霊の犠牲の上にあるといっても過言ではない。(写真右は放置されていた碑、左は再建された慰霊碑)

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2 コメント

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「歴史認識」は国内問題 (Wacin)
2013-04-08 21:31:16
韓国大統領などが、繰り返し持ち出す、いわゆる「従軍慰安婦」などの「歴史認識」問題は、極東地域における国際問題と思っていたら、実は、これは国内問題のようですね。

最近の国会における社民党、共産党党首などの質問を聞いていると、あんた日本人か?と問いたくなる。国歌斉唱反対、国旗掲揚反対、などはまだ可愛いほうで、いくら政権に一撃を、と考えての発言でも、社民党党首などの発言は限界を超えている。日本を貶めて喜んでいる。裏で海外から資金が流れているのでは?と疑いたくなる。

そうした「反日議員」に高額な報酬を与えているのも問題。中山成彬衆議院議員(維新の会所属)によると、韓国との間の歴史問題は、朝日新聞が作り出し、日教組が広め、自民党がそれを許したために発生したという。その中山さん、「日教組はガン」と発言して大臣を辞任。本当のことを言うと首になる社会がおかしいように思います。外国から資金援助を受けている学者も問題です。そういうことで利益を得ている人たちが多いんですね。
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廣安部隊のご縁 (kakek)
2013-04-09 09:03:35
Wacin さん
「月曜評論」(廃刊)平成14年1月号に、このことを書いていますが、同じ日本人として信じられません。IH氏はジャワ生まれで、戦前ジャカルタの日本人学校で学んでいます。この人たちは戦前営々として築いた財産を戦争によって失った犠牲者です。したがって旧日本軍につぃてよい感情を持っていないことはわぁります。しかし、戦争による犠牲者は彼らだけではないのです。日本の若い大使館員はまったく現地の事情が判らず、彼の言うがままです。インドネシア側の善意によって再建された慰霊碑の再建式典に、在留邦人の代表として、何故参加してお礼がいえないのか。
最近は春秋のお彼岸には、代表が参拝しているようですが当然のことです。
なお、この再建に併せて作った「南方各地慰霊碑一覧」は厚労省が、我々に断りなく孫引きして使用しています。しかし、これも「廣安部隊」の碑のご縁だと思っています。なお、隊長の廣安中佐も17年秋、転戦先のマダガスカルで戦死しています。
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