スラバヤから西部ニューギニアのパポに向け出発したのは昭和18年3月の初めだった。戦局不利の中で虎の子の巡洋艦を派遣してくれたことだけで途中、輸送船が撃沈されるようになっても、海軍の行為に感謝する気持ちで一杯であった。(中略)
アンボンで1日停泊した後、パポに到着した。その直後、航行中の垢を落としに水浴びしているところを敵機の来襲に見舞われた。その夜は暗闇に乗じて対岸のカソリというに退避した。パポの空襲を最小限に留めるため、第五師団の司令部はパポ飛行場に必要な防備部隊を残し、兵員の温存を図ったのである。その夜を皮切りに、パポ基地への爆撃下に私たちは息を潜める生活が始まった。この移動中、舟艇がパポを出航して1時間余り、河口の中州に座礁してしまった。満潮になるまで、いつ敵機の来襲を受けるかもしれぬ危険にさらされたものである。(中略)
昭和18年の夏の頃立ったと思う。パポ基地にしばしば飛来した敵機がミカン箱大の梱包を落としていった。宣伝ビラであったが、その一枚をそっと見せてもらった。「桐一葉」と題する墨絵の漫画であった。「桐一葉」を解するとは、相当の日本通によるものだナアト思った。その絵は桐の木の枝から落ちるひと葉に、ムッソリーニの似顔、ヒットラーの似顔、最後に東條英機首相の似顔を描いた葉が一枚、寂しく残っている図である。順々に落ちてゆく運命を風刺的に示していた。(中略)
第五師団がパオからカイマナ、そして豪州の北部のアラフラ海に浮かぶケイ諸島,タンニバル、アルー諸島の島々に部隊転出させた昭和19年夏期であった。私の部隊はケイ諸島のズラというに設置された。師団司令部のある同じケイズラ島の南端トアルで、ある日映画会があった。松竹映画の「加代とその妹」という作品であった。(中略)映画会が終わりに近くなった時、空襲警報が鳴り、私たちは防空壕へ蜘蛛の子を散らすように逃げ込んだ。敵機は爆弾を落とすだけ落とすと遠く海上へ去って行った。人員点呼で一人の死傷もないのを確かめ、20キロほど北方のズラへトラックで帰営した。(中略)
アンボンで1日停泊した後、パポに到着した。その直後、航行中の垢を落としに水浴びしているところを敵機の来襲に見舞われた。その夜は暗闇に乗じて対岸のカソリというに退避した。パポの空襲を最小限に留めるため、第五師団の司令部はパポ飛行場に必要な防備部隊を残し、兵員の温存を図ったのである。その夜を皮切りに、パポ基地への爆撃下に私たちは息を潜める生活が始まった。この移動中、舟艇がパポを出航して1時間余り、河口の中州に座礁してしまった。満潮になるまで、いつ敵機の来襲を受けるかもしれぬ危険にさらされたものである。(中略)
昭和18年の夏の頃立ったと思う。パポ基地にしばしば飛来した敵機がミカン箱大の梱包を落としていった。宣伝ビラであったが、その一枚をそっと見せてもらった。「桐一葉」と題する墨絵の漫画であった。「桐一葉」を解するとは、相当の日本通によるものだナアト思った。その絵は桐の木の枝から落ちるひと葉に、ムッソリーニの似顔、ヒットラーの似顔、最後に東條英機首相の似顔を描いた葉が一枚、寂しく残っている図である。順々に落ちてゆく運命を風刺的に示していた。(中略)
第五師団がパオからカイマナ、そして豪州の北部のアラフラ海に浮かぶケイ諸島,タンニバル、アルー諸島の島々に部隊転出させた昭和19年夏期であった。私の部隊はケイ諸島のズラというに設置された。師団司令部のある同じケイズラ島の南端トアルで、ある日映画会があった。松竹映画の「加代とその妹」という作品であった。(中略)映画会が終わりに近くなった時、空襲警報が鳴り、私たちは防空壕へ蜘蛛の子を散らすように逃げ込んだ。敵機は爆弾を落とすだけ落とすと遠く海上へ去って行った。人員点呼で一人の死傷もないのを確かめ、20キロほど北方のズラへトラックで帰営した。(中略)