ファイホーンの港から上海へ、北上する輸送船に身を委ねたのが昭和15年12月、冬の上海は昭和の初め、築地小劇場ででみた山本安英や友田恭介、滝沢修の演じた「吼えろ支那」の舞台と異なって、日本兵のカーキ色の服と軍靴の響きに惰眠の夢を破られていた。私の初陣は浙東作戦であった。作戦地は上海、南京の穀倉地帯である浙江省の寧波、温州の都市周辺を掃討し、補給路を断つことであった。(中略)
作戦要務令によると、防疫給水部の任務は無菌無毒の浄水を供給し、戦力の維持増進に務めるというのである。濾水器はクリークの濁水でも飲料水となる魔法の新兵器であった。作戦中の任務はリトマス試験紙による毒物検出を成し、戦闘後の駐屯では、各部隊に飲料水を搬送し、マラリアおよび水系伝染病予防対策とか保健所的な役割を果たしていた。と(中略)
寧波は人口50万足らずの都市だが。わが国とは奈良朝時代から長崎を経由した文化交流が多く、長崎県寧波と呼ばれるほどで、宋、元の時代には禅僧の留学地で、また、日本の八幡船の入港地であったとも言われている。日中の混血児も多かったらしい。ここへの進攻にに当たっては第五師団松井大九郎中将から「略奪、暴行は絶対に許さず。現地に入ってからは、武器をもって勝つではなく、日本人の道徳倫理、皇軍精神を遺憾なく発揮して勝利を得、治安に当たるべし」という厳しい命令が出ていたもので、街の秩序は守られ、一般市民もそのまま生活している。さまざまの商店も平常通り店開きをしており、それなりに活気をみせていた。
作戦要務令によると、防疫給水部の任務は無菌無毒の浄水を供給し、戦力の維持増進に務めるというのである。濾水器はクリークの濁水でも飲料水となる魔法の新兵器であった。作戦中の任務はリトマス試験紙による毒物検出を成し、戦闘後の駐屯では、各部隊に飲料水を搬送し、マラリアおよび水系伝染病予防対策とか保健所的な役割を果たしていた。と(中略)
寧波は人口50万足らずの都市だが。わが国とは奈良朝時代から長崎を経由した文化交流が多く、長崎県寧波と呼ばれるほどで、宋、元の時代には禅僧の留学地で、また、日本の八幡船の入港地であったとも言われている。日中の混血児も多かったらしい。ここへの進攻にに当たっては第五師団松井大九郎中将から「略奪、暴行は絶対に許さず。現地に入ってからは、武器をもって勝つではなく、日本人の道徳倫理、皇軍精神を遺憾なく発揮して勝利を得、治安に当たるべし」という厳しい命令が出ていたもので、街の秩序は守られ、一般市民もそのまま生活している。さまざまの商店も平常通り店開きをしており、それなりに活気をみせていた。