「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       (付録)わが大君に召されなば(2)今沢栄三郎

2013-04-17 09:09:48 | Weblog
ファイホーンの港から上海へ、北上する輸送船に身を委ねたのが昭和15年12月、冬の上海は昭和の初め、築地小劇場ででみた山本安英や友田恭介、滝沢修の演じた「吼えろ支那」の舞台と異なって、日本兵のカーキ色の服と軍靴の響きに惰眠の夢を破られていた。私の初陣は浙東作戦であった。作戦地は上海、南京の穀倉地帯である浙江省の寧波、温州の都市周辺を掃討し、補給路を断つことであった。(中略)
作戦要務令によると、防疫給水部の任務は無菌無毒の浄水を供給し、戦力の維持増進に務めるというのである。濾水器はクリークの濁水でも飲料水となる魔法の新兵器であった。作戦中の任務はリトマス試験紙による毒物検出を成し、戦闘後の駐屯では、各部隊に飲料水を搬送し、マラリアおよび水系伝染病予防対策とか保健所的な役割を果たしていた。と(中略)
寧波は人口50万足らずの都市だが。わが国とは奈良朝時代から長崎を経由した文化交流が多く、長崎県寧波と呼ばれるほどで、宋、元の時代には禅僧の留学地で、また、日本の八幡船の入港地であったとも言われている。日中の混血児も多かったらしい。ここへの進攻にに当たっては第五師団松井大九郎中将から「略奪、暴行は絶対に許さず。現地に入ってからは、武器をもって勝つではなく、日本人の道徳倫理、皇軍精神を遺憾なく発揮して勝利を得、治安に当たるべし」という厳しい命令が出ていたもので、街の秩序は守られ、一般市民もそのまま生活している。さまざまの商店も平常通り店開きをしており、それなりに活気をみせていた。

      貴重な私家本、戦時下「ブルネイ県知事」の記録

2013-04-17 06:39:30 | Weblog
戦争中英領ボルネオのミリ州ブルネイ県の知事だった玉木政治氏(故人)の私家本「亡き妻に捧ぐ南方3年」を友人から借りて今読んでいる。昭和18年3月、陸軍司政官として英領ボルネオに赴任、敗戦後の21年3月、大竹港に復員するまでの3年間、内地で夫の帰国を待つ夫人との間の手紙の交換を中心に当時の戦地の記録を綴ったものである。

戦争が終わってまだ10年もたたない昭和29年に出版されたもので、A4版の藁半紙に謄写印刷された本だ。夫人との往復書簡は戦時下のため表現に制限はあるが、戦後すぐ玉木氏が復員してからすぐ書いた現地での体験は、司政官の目を通じて見たものだけに面白い。ブルネイは戦後独立、今や産油国として世界でも有数な「お金持国」だが、玉木氏が県知事として赴任していた昭和19年―20年は、連合軍の反撃で空襲も始まり戦時色が強まってきたが、そんな中でも玉木氏らとサルタンとの交友などがも描かれていて面白い。

サルタンは空襲が始まって住んでいたイスタナ(宮殿)から疎開したが、それまでは玉木氏を招き、ご馳走したり、逆に知事事務所を訪れお好きな日本酒を所望されたりしている。知事は宣撫工作を兼ねてブルネイとミリ州各地を旅行しているが戦争が激化した20年までの現地は、全く平和で、玉木氏らは住民のロングハウスに宿泊、鰐のゲテ物料理の御相伴に預かたたりしている。しかし、連合軍が上陸してからの山中への逃避行は戦争の悲惨さそのものだ。

戦時下のブルネイの事を日本人の目で見た記録は多分ブルネイにはないと思う。僕は時間をみて玉木氏の私家本を英訳して完成次第、玉木家の了解をえてブルネイ政府に献上する予定にしている。