「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

  (付録)わが大君に召されなば(最終章)今沢栄三郎

2013-04-29 11:53:12 | Weblog
私たち兵隊は「大日本帝国憲法」の「日本臣民は......兵役の義務を有す」(第二十条)による天皇に対する臣民の義務として軍服を着用した誇りをもっている。だから防人として「国を守るため戦場に赴いた」と信じている。「神聖にして侵すべからず」天皇が宣した「正義の戦い」に臣民として「一旦緩急あらば義勇公に奉ず」(教育勅語)の大御心をわが心に銘じていたのであった。(中略)
今、国家があるから戦争があるんだ、と考える人もいる。ある面で間違いないが、それなら国家が亡くなれば平和に暮らせるかというと、人間の歴史を見ると、全くその逆で、国家を亡くした国民ほどみじめなのものはない。国家があるから民族が不幸になるのではなくて、国家を亡くしたときに民族は不幸になる。
戦後の日本人の中で、軍備は人間にとって最大の悪だといい、軍備を止めてそのカネで、国民の福祉を向上しろという世論づくりをしている。しかし、これも日本の国家が安全で経済も繫栄しているという前提があって初めていえることであって国家を失っては福祉もなにもないのえはなかろうか。(中略)
昭和時代は、明治、大正からいい意味の恩恵を受けたが、明治の日露戦争は勝利を得たが、日本国民を思いあがらせ、ある意味では精神的に強さを失ったのではなかろうか。大正7年、第一次世界大戦が終わると、その反動的な不景気が民心を動揺させた。大正9年のパニック、12年の関東大震災、昭和2年の金融大恐慌があったのを無視し、臭いものに蓋をするような政策ばかり、浜口、井上の財政緊縮、海軍軍縮、官吏減俸きわめて急激なデフレ政策を断行し、たまたま昭和4年の世界恐慌と重なって日本は不景気のどん底に落ちた。これこそ大東亜戦争の根本原因と私なりに考えている。(後略)

          豪州日本人収容所での昭和17年の天長節

2013-04-29 06:30:35 | Weblog
昨年2月、小ブログが書いた「蘭印から連行された戦時中の豪州の日本人収容所」についてシンガポール在住の方から、戦前ジャワのスマランにいた祖父の足跡を調べている、と「コメント」欄に連絡があった。僕は早やとちりして、この方の祖父も戦争勃発とともに蘭印政府によって逮捕され、豪州のアデライト近くの砂漠地帯にあるラブダイ(Loveday)の収容所にいた方だと思った。早速、当時のことを記録した「抑留日記」(古池三八勝著 平成11年私家本)を読み返してみたが、同じ戦前の横浜正金銀行勤務なのに、この方の祖父の名前は出てこない。そのはずであった。祖父の方は戦争が始まる前に日本に帰国されていた方なのだ。

読み返した古池さん(故人)の「抑留日記」によると、当時(昭和17年6月)ラブダイには、蘭印、カレドニアなどから連行された男子のみ992人が収容されていた。「日記」には昭和21年帰国するまでの収容所の生活が、メモの形だが克明に記されている。

今日は「昭和の日」、戦前は昭和天皇の誕生日で「天長節」といった。僕ら昭和1ケタ世代は色々と想い出がある日だが、ラブダイの収容所でも昭和17年の天長節を次のように祝った。「天長節の式典挙行。先ず聖寿の萬歳を寿ぎ、次いで皇軍兵士に感謝と武運長久を祈願、君が代斉唱、奉祝歌。団長の式辞、最後に万歳を三唱して閉会。今日の食事。朝食に菓子、リンゴ、昼食にもリンゴと食卓を賑わせた。幸い天候にも恵まれ、朝8時から運動会。盛会裏に25種目の競技を終了」とある。

昭和17年7月、収容者992人のうち241人が日英交換協定の基づき帰国できたが、古池さんは不幸にもその選にもれ敗戦まで抑留された。しかし、日記の記述によれば、食事、衣服などの待遇は好かったようで、空腹と空襲の内地よりは幸せだったかもしれない。