「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       (号外)わが大君に召されなば(1)-(2)今沢栄三郎

2013-04-14 16:48:40 | Weblog
佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」に胸を躍らせ同じ「少年賛歌」や山中峯太郎の「敵中横断三百里」や吉川英治の「神州天馬峡」そして賀川豊彦の「死線を越えて」に感激したり、また姉の千代子の書棚から、いわゆる円本の新潮社版世界文学全集を読み続けるなどして、少年らしい正義感が次第に育てられていったようだ。
築地小劇場という新劇のメッカが三原橋を渡って左へ回った所にあった。昭和5年頃であっただろうか。友田恭助(昭和12年、上海事変に応召されてウースン.クリークで戦死)や若かりし日の山本安英、田村秋子のきびきびした演技に魅了されたことを覚えている。顎紐をかけた警官が二十数名、通路を固め舞台を背に観客に向かって監視している中で物々しい観劇である。反抗を示すようなセリフを一句でも発するなら直ちに中止で俳優は検挙されるのである。
藤盛誠吉の「何が彼女をそうさせたのか」と村山知義の演出だったか「吼えろ支那」問のが、その時の出し物であった。新興キネマの鈴木重吉監督の高津慶子演ずる映画「何が彼女をそうさせたのか」に熱をあげていた私は芝居も見たくなり、やみくもに築地に足が向かったのである。結果的には映画の方が迫真力があったように感じた。むしろ、私にとって、添え物だった「吼えろ支那」には全く共鳴してしまった。劇中では阿片戦争を背景に上海の労働者が階級的ナショナリズムる過程が盛り上がり最高潮に達してくると握りしめた拳からの汗の感触は青春の回想につながっている。
その影響もあったのであろうか。私は心理的に”眠れる獅子”であるである支那が英米のしっこうから目覚めて奮起し、アジアの仲間となって私たちと語りあえたらという知識位しかもっていなかった。中国人人が中華思想の哲学を根底にした五千年の歴史に誇りを持つ民族であることは知っていなかった。そして昭和6年9月18日勃発した満州事変を契機に国内革新のならぬまま対支強硬という歴史の方向が位置づけられ、アジアの解放に聖戦の意義を徹しつつ、日本人全体が荒天の海へ日本丸に運命を倶にした時代へ突入したのである。

     (号外)わが大君に召されなば(1)の(1)今沢栄三郎

2013-04-14 14:19:26 | Weblog
今年3月99歳の白寿を迎えられた元東南アジア文化友好協会事務局長の今沢栄三郎さんから以前雑誌に掲載された「わが大君に召されなば」のコピーを頂戴した。大正3年生まれの今沢さんが大東亜戦争に従軍した昭和15年から21年の復員まで6年間の体験に基づき、大正1ケタ世代の戦争観を綴られたものだ。僕は一挙に読まさせていただいたが、是非これを僕だけでなく、多くの方に読んで頂きたいと思い、今沢さんの許可を得て老人タイムス号外として掲載することにした。(今沢さん軍歴 昭和9年徴兵検査第二乙、15年教育召集後、第五師団第二給水部隊に配属、そのまま仏印(ベトナム)から中国大陸を転戦、大東亜戦争勃発時、タイのシンゴラに上陸マレー,シンガポール作戦に従軍、そのあと豪北地区のケイ諸島、アンボンに移動、敗戦時はセラム島で迎え21年復員した。
             
               「わが大君に召されなば」 (1-1)
私は大正3年(1914年)3月28日、東京芝の三田で生まれた。その年の3月26日には松井須磨子が帝劇で「カチューシャ」を歌って評判になっている。1月22日には日本海軍高官による独逸のシーメンス会社との贈賄事件が発覚している。7月28日には第一次世界大戦が勃発し内外の政治社会を揺るがす大変な幕開けの年であった。戦勝の余勢をかって独逸の租借地であった青島を占領、翌年にはいわゆる「対支二十一か条約という満州および山東半島に対する利権を求め、排日侮日の気運を醸す要因となった。そして大正デモクラシーのさきがけ「白樺派」の芽生えの中で、躍進する新日本は近代化の道をひた走っていた。
白金尋常小学校に入学してまもなく尼港事件の映画を小学校近くのお寺で教師に引率されてみたが、ロシアという大国が日本人を虐殺したという残酷な記憶が幼い頭脳の底にへばりついている。このシベリア出兵がどうしても理解できないでいたが、このごろ鈴木貞一(元陸軍中将企画院総裁)が「史」48号(現代史懇話会)に記述した手記によって当時の背景を知ることが出来た。「私はシベリア出兵がどんな目的で行われたか知らない。アメリカがチェコスロバキア援助のため出兵するというのでアメリカに先をこされてはいかぬと日本も出兵したのであろう。シベリア出兵には私も反対であった。当時のロシア班長は橋本虎之助で、私はロシア班の下に「なんのために出兵するのか」訊ねてみた。目的は満州にあるので、長春から北の鉄道を日本のものにして満州における日本の地位を確立するにあるという。二十一か条約が反古になかけていた時なので、そんなことを考えたのかも知れなかった。(中略)大正7年8月12日シベリア出兵が行われ、同じ年の11月11日に世界大戦が休戦となった。翌大正8年9月27日にはシベリアの撤兵が開始され、大正9年3月13日には尼港事件が起こった。当時参謀総長の上原勇作に呼ばれ「ご苦労様だが、土肥原(賢二)と一緒に尼港に行ってくれ」と言われた。尼港事件の時、支那の訪韓がバルチザンと一緒になって日本人に発砲事件の真相を調査に行けというのである。その時分は日支親善ということがやかましく言われ、その反面、排日を恐れ、この事件を不問に付そうという意見もあった。「日支親善ということは悪いことは悪い、正しいことは正しいとして、その上に立脚しなければならぬ」と主張した」
シベリア出兵の年に起きた米騒動事件の記憶は私にはどうしても思い出せない。
大正12年9月1日の関東大震災で朝鮮人が日本人を殺しにくるちう噂が口から口へ伝えられ、母親に連れられて自宅前にあった海軍墓地薬缶だけ持って墓石の陰に息を潜めていた者である。この年の押しせまった12月27日に起きた灘波大輔の摂政官狙撃の虎の門事件や澎湃たる社会主義運動に醸し出される大人の世界でもある市民生活漏れてくる「シャカイシュギ」という新しい言葉を幼友達同士で議論したものである。
(続く)

    アウンサン将軍(スーチーさんの父)と”百人斬り”野田毅少佐

2013-04-14 06:42:05 | Weblog
ミャンマー民族運動の指導者で最大野党、国民民主連盟(NND)党首アウンサン.スーチーさんが政府の招きで来日している。スーチーさんの父親アウンサン将軍はミャンマーでは”独立の父”として知られているが、昭和15年から16年にかけて、当時宗主国であった英国から追われ、日本の諜報機関「南機関」の庇護の下、日本名「面田紋二」の名前を使い亡命生活している。

アウンサン将軍の亡命先の一つ浜松市は「南機関」の長であった鈴木敬司陸軍大佐の故郷の地である関係もあって、浜名湖の東岸、大草山には日本とミャンマーの友好顕彰碑「日緬永遠の友好」の碑が昭和49年に関係者によって建てられている。僕らの世代には、ミャンマーより緬甸(ビルマ)の旧名のほうが懐かしいが「日緬」はこれから来ている。

大東亜共栄圏時代、小学生であった僕らは、今よりビルマはもっと近い国だった。スーチーさんの来日を機会に当時の出来事をネットで”渉猟”していたら意外の関係を知った。南京攻略戦の際、新聞の誤報”百人斬り”に巻き込まれ、戦後の連合軍裁判で死刑にされた野田毅少佐が「南機関」の一員としてビルマ独立義勇軍の参謀として軍の指導に当たっていた。もちろん、アウンサン将軍とも面識があった。

戦後、野田少佐は処刑寸前の獄中で”私のビルマ時代の秘史はもう秘められる必要はない。すでにビルマは独立しているのだから”と前置きして”ビルマ時代の諸兄にとろしく”と書き残している。”百人斬り”は、当時の新聞が面白おかしく戦意の向上のため書いたものである。これに巻き込まれて獄死した野田少佐はまったく無念だったに違いない。しかし、獄中でビルマの独立を知り出来れば当時の秘史を後世に伝えたい気持ちもあったのかもしれない。