「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       (号外)わが大君にめされなば(1)-(3)今沢栄三郎

2013-04-15 06:45:02 | Weblog
私がいわゆる赤紙と称せられる令状を受けたのは、勤め先の自動車経済同盟[タクシー自動車の組合)から帰宅した時だった。友人の出征を送ったことは度々あったが、まさか自分自身がその立場になるとは…・母から手渡されたその内容は昭和15年7月1日に世田谷にあった陸軍第一病院へ入営すべしという教育召集であった。
7月といえば、夏も真っ盛りであった。汗をよくかき、洗濯も浴したが、無我夢中の訓練でいつのまにかインキンになっていた。痒さに我慢できず班付きに申し出た。班付きというのは初年兵教育のため班にいる教育係で、学業あるいは軍隊教練の指導をする選抜された優秀な古兵でである。幸いにインキン仲間が多数いたので、班長室に連れていかれ、一名づつ順番に恥も外聞もなく、フンドシを脱ぎ、いやおうなしに患部にサルチル酸をつけられ飛び上がってしまった。
衛生兵教育は3か月だったが、最初の1か月は歩兵操典、軍隊内務令や作戦要務令など一般の兵科と軍事教練であった。その間、新聞、雑誌など読ませて貰えない。もちろん、ラジオも聴いていない。各個教練から分隊、小隊の訓練といわゆる典範令の学習のつめこみ教育と精神教育が目的なのだろう。「陸海軍人に賜りたる勅語」は聖典であり丸暗記するために必死だった。
厠に入っても暗証した。勿体ないクサイ話である。それは、なぜか、3か月の教育終了後、日曜日の外出が目標なのであった。暗誦できないと外出させてくれないというのだから、それこそ一生懸命であった。
夜の点呼のとき学課の復習で覚えの悪い兵隊に質問が集中し傍観者として笑い顔でもしたら、あとの祭りで連帯責任で全員(教育班)にビンタが飛んでくる。初年兵教育は最低のものを標準にして共同の行動が要求されているからである。
朝起きてから就寝時まで、誰かの目で見られているようで、全く隙のない、おそらく私は目は異様に鋭くなっていたと思う。各班には3名位づつ班付きがいて、1班から5班までの中で、他の班つきからも監視され、息の詰まるような生活の連続で身も心も鍛えられていった。、このままで、一般の社会生活に入って行ったならば、不可能なことはないのではないかととい自信が湧いてくるから不思議なものだ。

    前に進まぬ民主党、ゼロ増五減の合意はなかったのか

2013-04-15 05:41:02 | Weblog
昨日の朝NHKテレビ番組の”徹底討論どうする選挙制度改革 格差是正 抜本改革をみた。あいもかわらぬNHKの政党への平等格差配慮からか、与党自民公明二党の二人のほか野党からは七人も参加していた。案の定、各党がそれぞれの党利党略を勝手に述べあい、司会者もついにたまりかねて”前へ進みましょう”とい発言する状態であった。

選挙制度改革について詳しくはないが、素人なりの判断では昨年解散前の民主自民公明の三党間でゼロ増五減を基本にした合意ができていたと思っていた。しかし、昨日の討論を聞いていると民主党の岡田克己議員は、自公が今国会に提出するゼロ増五減案には反対で、新たに自党だけの案をつくりたいという。反対ならば、さっさと公表しておればよいのに、与党時代と全く変わらぬ”前に進まぬ”党体質だ。

たしかに自公のゼロ増五減では抜本的な改革にはならない。しかし、とりあえず最大格差が2.43から1.99に縮小する。東京、大阪など各地の高裁で現在の格差の下での選挙は憲法に違反するとの判決が出ている。恐らく早ければ、最高裁でも同じ判決がでることは間違いない。このような状況下で、各党を満足させる改革案など至難である。野党の中には現行の小選挙区を廃止して比例代表だけにせよ、という極論まである。

民主党はかっての野党時代の”なんでも反対”に先祖がえりしたのであろうか。もともとゼロ増五減は民主党が持ち出した案である。ここは抜本的改革は後にして、自公案を中心に審議すべきである。”緊急避難”であっても、これが政治を前に進めるというものだ。

       (号外)わが大君に召されなば(1)-(2)今沢栄三郎

2013-04-14 16:48:40 | Weblog
佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」に胸を躍らせ同じ「少年賛歌」や山中峯太郎の「敵中横断三百里」や吉川英治の「神州天馬峡」そして賀川豊彦の「死線を越えて」に感激したり、また姉の千代子の書棚から、いわゆる円本の新潮社版世界文学全集を読み続けるなどして、少年らしい正義感が次第に育てられていったようだ。
築地小劇場という新劇のメッカが三原橋を渡って左へ回った所にあった。昭和5年頃であっただろうか。友田恭助(昭和12年、上海事変に応召されてウースン.クリークで戦死)や若かりし日の山本安英、田村秋子のきびきびした演技に魅了されたことを覚えている。顎紐をかけた警官が二十数名、通路を固め舞台を背に観客に向かって監視している中で物々しい観劇である。反抗を示すようなセリフを一句でも発するなら直ちに中止で俳優は検挙されるのである。
藤盛誠吉の「何が彼女をそうさせたのか」と村山知義の演出だったか「吼えろ支那」問のが、その時の出し物であった。新興キネマの鈴木重吉監督の高津慶子演ずる映画「何が彼女をそうさせたのか」に熱をあげていた私は芝居も見たくなり、やみくもに築地に足が向かったのである。結果的には映画の方が迫真力があったように感じた。むしろ、私にとって、添え物だった「吼えろ支那」には全く共鳴してしまった。劇中では阿片戦争を背景に上海の労働者が階級的ナショナリズムる過程が盛り上がり最高潮に達してくると握りしめた拳からの汗の感触は青春の回想につながっている。
その影響もあったのであろうか。私は心理的に”眠れる獅子”であるである支那が英米のしっこうから目覚めて奮起し、アジアの仲間となって私たちと語りあえたらという知識位しかもっていなかった。中国人人が中華思想の哲学を根底にした五千年の歴史に誇りを持つ民族であることは知っていなかった。そして昭和6年9月18日勃発した満州事変を契機に国内革新のならぬまま対支強硬という歴史の方向が位置づけられ、アジアの解放に聖戦の意義を徹しつつ、日本人全体が荒天の海へ日本丸に運命を倶にした時代へ突入したのである。

     (号外)わが大君に召されなば(1)の(1)今沢栄三郎

2013-04-14 14:19:26 | Weblog
今年3月99歳の白寿を迎えられた元東南アジア文化友好協会事務局長の今沢栄三郎さんから以前雑誌に掲載された「わが大君に召されなば」のコピーを頂戴した。大正3年生まれの今沢さんが大東亜戦争に従軍した昭和15年から21年の復員まで6年間の体験に基づき、大正1ケタ世代の戦争観を綴られたものだ。僕は一挙に読まさせていただいたが、是非これを僕だけでなく、多くの方に読んで頂きたいと思い、今沢さんの許可を得て老人タイムス号外として掲載することにした。(今沢さん軍歴 昭和9年徴兵検査第二乙、15年教育召集後、第五師団第二給水部隊に配属、そのまま仏印(ベトナム)から中国大陸を転戦、大東亜戦争勃発時、タイのシンゴラに上陸マレー,シンガポール作戦に従軍、そのあと豪北地区のケイ諸島、アンボンに移動、敗戦時はセラム島で迎え21年復員した。
             
               「わが大君に召されなば」 (1-1)
私は大正3年(1914年)3月28日、東京芝の三田で生まれた。その年の3月26日には松井須磨子が帝劇で「カチューシャ」を歌って評判になっている。1月22日には日本海軍高官による独逸のシーメンス会社との贈賄事件が発覚している。7月28日には第一次世界大戦が勃発し内外の政治社会を揺るがす大変な幕開けの年であった。戦勝の余勢をかって独逸の租借地であった青島を占領、翌年にはいわゆる「対支二十一か条約という満州および山東半島に対する利権を求め、排日侮日の気運を醸す要因となった。そして大正デモクラシーのさきがけ「白樺派」の芽生えの中で、躍進する新日本は近代化の道をひた走っていた。
白金尋常小学校に入学してまもなく尼港事件の映画を小学校近くのお寺で教師に引率されてみたが、ロシアという大国が日本人を虐殺したという残酷な記憶が幼い頭脳の底にへばりついている。このシベリア出兵がどうしても理解できないでいたが、このごろ鈴木貞一(元陸軍中将企画院総裁)が「史」48号(現代史懇話会)に記述した手記によって当時の背景を知ることが出来た。「私はシベリア出兵がどんな目的で行われたか知らない。アメリカがチェコスロバキア援助のため出兵するというのでアメリカに先をこされてはいかぬと日本も出兵したのであろう。シベリア出兵には私も反対であった。当時のロシア班長は橋本虎之助で、私はロシア班の下に「なんのために出兵するのか」訊ねてみた。目的は満州にあるので、長春から北の鉄道を日本のものにして満州における日本の地位を確立するにあるという。二十一か条約が反古になかけていた時なので、そんなことを考えたのかも知れなかった。(中略)大正7年8月12日シベリア出兵が行われ、同じ年の11月11日に世界大戦が休戦となった。翌大正8年9月27日にはシベリアの撤兵が開始され、大正9年3月13日には尼港事件が起こった。当時参謀総長の上原勇作に呼ばれ「ご苦労様だが、土肥原(賢二)と一緒に尼港に行ってくれ」と言われた。尼港事件の時、支那の訪韓がバルチザンと一緒になって日本人に発砲事件の真相を調査に行けというのである。その時分は日支親善ということがやかましく言われ、その反面、排日を恐れ、この事件を不問に付そうという意見もあった。「日支親善ということは悪いことは悪い、正しいことは正しいとして、その上に立脚しなければならぬ」と主張した」
シベリア出兵の年に起きた米騒動事件の記憶は私にはどうしても思い出せない。
大正12年9月1日の関東大震災で朝鮮人が日本人を殺しにくるちう噂が口から口へ伝えられ、母親に連れられて自宅前にあった海軍墓地薬缶だけ持って墓石の陰に息を潜めていた者である。この年の押しせまった12月27日に起きた灘波大輔の摂政官狙撃の虎の門事件や澎湃たる社会主義運動に醸し出される大人の世界でもある市民生活漏れてくる「シャカイシュギ」という新しい言葉を幼友達同士で議論したものである。
(続く)

    アウンサン将軍(スーチーさんの父)と”百人斬り”野田毅少佐

2013-04-14 06:42:05 | Weblog
ミャンマー民族運動の指導者で最大野党、国民民主連盟(NND)党首アウンサン.スーチーさんが政府の招きで来日している。スーチーさんの父親アウンサン将軍はミャンマーでは”独立の父”として知られているが、昭和15年から16年にかけて、当時宗主国であった英国から追われ、日本の諜報機関「南機関」の庇護の下、日本名「面田紋二」の名前を使い亡命生活している。

アウンサン将軍の亡命先の一つ浜松市は「南機関」の長であった鈴木敬司陸軍大佐の故郷の地である関係もあって、浜名湖の東岸、大草山には日本とミャンマーの友好顕彰碑「日緬永遠の友好」の碑が昭和49年に関係者によって建てられている。僕らの世代には、ミャンマーより緬甸(ビルマ)の旧名のほうが懐かしいが「日緬」はこれから来ている。

大東亜共栄圏時代、小学生であった僕らは、今よりビルマはもっと近い国だった。スーチーさんの来日を機会に当時の出来事をネットで”渉猟”していたら意外の関係を知った。南京攻略戦の際、新聞の誤報”百人斬り”に巻き込まれ、戦後の連合軍裁判で死刑にされた野田毅少佐が「南機関」の一員としてビルマ独立義勇軍の参謀として軍の指導に当たっていた。もちろん、アウンサン将軍とも面識があった。

戦後、野田少佐は処刑寸前の獄中で”私のビルマ時代の秘史はもう秘められる必要はない。すでにビルマは独立しているのだから”と前置きして”ビルマ時代の諸兄にとろしく”と書き残している。”百人斬り”は、当時の新聞が面白おかしく戦意の向上のため書いたものである。これに巻き込まれて獄死した野田少佐はまったく無念だったに違いない。しかし、獄中でビルマの独立を知り出来れば当時の秘史を後世に伝えたい気持ちもあったのかもしれない。

          老人医療の高騰は医療機関にも責任

2013-04-13 07:45:21 | Weblog
1か月に1度、近所の民間の病院で高血圧と糖尿病、それに膝の痛みの治療を受けている。昨日も通院日なので杖をつきつきでかけたが、先月外科で痛風の疑いがあるとして採血したばかりなのに、今回は内科で採血したいよいう。小さな病院なので双方の科で連絡は取れているようだが、内科の担当医が変わったため採血したいらしい。

後期高齢者保険でも窓口負担が3割だと月に1度の診療でも支払う額は、年金生活の老人にとっては負担だ。昨日も病院への支払いは3380円、薬局への支払いは2370円、合計5755円である。医療請求書を見ると、医療費の合計点数1125点のうち半分以上の618点が採血検査料である。

医療費点数がそのまま医療機関の点数にはならないそうだが、この病院に限らず最近は頻繁に採血をする傾向がある。幸い僕の採血検査報告は先月についで糖尿病の目やすのへモグロビン値は16.7 と正常値、膝の痛みが痛風からだとして薬を飲んでいるが尿酸値も5.0と許容範囲内であった。素人でよく解らないが、正常値が毎月続いても頻繁に採血する必要はあるのだろうか。

世間の風は老人医療費の高騰は年寄りが医者にかかりすぎるからだと厳しい。確かに若い世代からみれば、病院の待合室で高齢者がたむろしている風景は、年寄りが時間をもてあまし、それほど必要もないのに医者にかかっている。これが医療費の高騰の原因のように見えるかもしれない。しかし、馬齢を重ねた体験からいうと、年をとるにしたがって、身体のいろんなところに出てくる。要は医者と相談の上だが、気休め的な治療は受けないことだ。これには医療機関もあまり儲け主義に走らないことだ。年寄りが足腰の治療にかかっている「電気治療」なんか果たして効果があるのだろうか。

  現地のインドネシア人が修復してくれたカリマンタンの慰霊碑

2013-04-12 07:39:29 | Weblog


日本インドネシア美術協会の益子恒資さん(94)から東カリマンタンバリックパパンの老朽化していた「日本人戦没者の碑」と「平和と友好の碑」の二つが現地のインドネシア人の好意で修復してくれたと知らせてくれた。(写真の上二つは「平和と友好の碑」、下二つは「日本人戦没者の碑」)。碑の修復だけでなく、墓碑に詣でる山道も写真のように舗装され、階段まで造られた。
慰霊碑はバリックパパンからサマリンダ街道を13㌔行ったカランジュアン村にある。昭和20年7月、カリマンタンに再上陸してきた豪州軍と日本軍の守備隊との間で激しい戦闘が起き、この村周辺で現地人を巻き込み約5000人が死亡している。1991年6月、この戦闘で生き残った戦友と遺族が中心となって、豪州側にも呼びかけ「平和と友好の碑」を現地に建て、合同慰霊祭が行われた。しかし、歳月の経過で慰霊碑が老朽化してきたため、益子さんが昨年、現地側に修復を依頼したところ、現地の住民が自費でこのように修復してくれた。
僕も2003年、現地を訪れているが、現地の住民は中国系の仏教徒で、バスを仕立てて各地の慰霊碑を巡拝し般若心経を唱えてくれた。しかし、従軍世代の高齢化と共に、最近は現地を訪れる日本人も少なくなっている。今年7月にも慰霊祭を行う予定しているが、94歳の益子さんは訪問できず、慰霊金を送り、こちらから手を合わせることにしている。 src="http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/22/5c3ed5a64beba60fefb4f3c599487626.jpg" border="0">

2003年の訪問時の写真

      「みんなの党」はみんなの党か お粗末な国会質問

2013-04-11 06:22:13 | Weblog
昨日の衆院予算委で「みんなの党」の山内康一議員(40)が道徳教育の教科化について質問した。僕はこれをNHKテレビの国会中継で見た。山内議員は教科化に反対のようだが、論拠がはっきりせず、前回の安倍内閣の際、文科省が全国の学校に無料配布した、副教材の「心のノート」さえ、ろくに読んでいない勉強不足。この程度の低い質問に僕はびっくりし、ため息をついた。

山内議員は大津のいじめによる自殺事件の学校が道徳教育推進校であったことに触れ”道徳を教科化するといじめがなくなるのか”とか、過去の犯罪率をみると、最近の青少凶悪犯罪は減っているではないかと、見当はずれの馬鹿な質問をしていた。これには安倍総理も下村文科相もあきれ顔だった。ネットの「山内康一のリアルタイム」のコメントをみると▽アホ▽バカ▽社民党▽幼稚▽反日ーといった具合だ。

ネット情報によると、山内議員は2005年の総選挙で自民党の公募に応じて神奈川9区から当選したが、、2009年の選挙では自民党をとびだし「みんなの党」に入党北関東比例区から当選している議員だ。彼を選んだ選挙区の有権者は多分あきれているに違いない。政治に道徳なんかないのかもしれないが、僕からみれば、こういった議員にこそ道徳教育が必要な思いがする。

「みんなの党」が4月28日の主権回復の日に賛同しているのか知らないが、山内議員はHPで反対を表明している。「みんなの党」は渡辺喜美代表と江田憲司幹事長との間で党内の人事をめぐって対立があるとの新聞報道があったが、政策には党としての統一見解がないのに違いない。山内議員のお粗末な幼稚な国会質問を見て、僕はつくづく、そう思った。

            国益を考えない公共放送NHK

2013-04-10 06:05:31 | Weblog
NHKがインターネットに無料配布しているインターネット.サイトに「日本海」を韓国側が主張する「東海」と二つ併記していたという。指摘を受けてNHKは「日本海」に単独表記し直したそうだ。これについて、NHKは意図的に行ったのでは、としているが、どうも、このところ国益を考えない”意図的”としか思えないことが目立つ。

昨日知人から日本維新の会の中山成彬議員が10日午前、衆院予算委で「南京事件」と教科書について質問するとの予告を頂いたが、その関連の中で公共放送のNHKが中山議員が前回3月8日、同じ予算委で行った”従軍慰安婦”についての質問を、意識的にyouyubeから削除していた。これは犯罪的行為だと指摘があった。

NHKの報道について、僕は前から不偏不党でない点があると思っているが、国益を考えない面もある。先日安倍晋三総理がフェイス.ブックで「メキシコは親日的な国なのに、NHKは両国の首脳会議を報道しなかった”といった意味の事を述べていたそうだ。NHKはこれを否定しているが、多分安倍総理としてはTPP交渉を迎えて大切な交渉相手の一つ、しかも親日国のメキシコ首相の来日だ。もっと派手に扱って貰いたい、と思ったに違いない。

小ブログは3月8日の衆院予算委で、民主党の辻元清美議員が、中曽根康弘元総理の戦時中の全く意味のない発言を引っ張り出してきて”従軍慰安婦”問題を質問していた、のはNHKがあたかも国会中継番組を反日の場に提したものだと批判した。不偏不党をうたっている公共放送である。ある意味では仕方がない面もあるが、中山議員の発言のyoutubeからの削除は意図的としか思えない。

             インド洋上の「太平洋戦争」

2013-04-09 05:53:00 | Weblog
「太平洋戦争」はインド洋上でもあった。71年前の昭和17年(1942年)4月、インド洋上の南雲忠一海軍中将率いる機動部隊の空母から発進したゼロ戦は4日と9日の2回、当時英国植民地であったセイロン(現在のスリランカ)首都コロンボとトリンコマリ―軍港を爆撃、英国軍機との間に激しい空中戦を展開し、軍施設や飛行場に多大な損害を与え、また英空母ハーミーズなどを撃沈させた。

「太平洋戦争」中、日本海軍のインド洋の前線基地は、スマトラ北端のインド洋に面するサバン島の第九根拠地隊であった。数年前、僕はこの根拠地隊の戦友会誌「サバン会報」の有終号を知人から頂いた。今回セイロン空襲を調べるに当たって、この有終号を再読したら「サバンの姑娘たちを送る」という原稿を目にした。姑娘(クーニャン)とは中国人娘のこと。ここではサバン島にいた慰安婦の事である。

敗戦後すぐの昭和20年9月、サバン島から日本へ復員のため第九根拠地隊はスマトラのアチェに集結した。この時サバン島にいた慰安婦90人も同行した。この原稿は慰安婦を出身地のマレーのペナンに送還するため、アチェのコタラジャ(バンダアチェ)からメダンまで慰安婦を引率、無事にメダンまで軽便鉄道に乗せて送還させた兵曹長の記録である。

当時、彼女たちに対する住民の反感もあり、厳重な警護の下、3日3晩の旅だったが、メダンの駅には出迎えの華僑が来ており、彼女たちは兵曹長らに手をふって別れていった。兵曹長氏は原稿の中で”所詮あわれな売られた”籠の鳥”だが、サバンの姑娘たちよ幸せにと心の中で念じた”と結んでいる。従軍世代の当時そのままの心境が語られており、最近言われている「性奴隷」の状態とはほど遠い。