「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        真空管 トランジスタ ラジカセ

2009-10-21 05:33:28 | Weblog
昨日ラジカセが壊れてしまい、新しいのを買ってきた。時々深夜に目を覚ました時
に聽くNHKの「深夜便」には欠かせない。やはり、老人にはラジオがないと不便で
必需品だ。僕らの世代は、ラヂヲ(昔はこう書いた)というと真空管ラジオが懐かし
い。とくに終戦の日天皇陛下の"玉音”放送が聴きとりにくく,手でラジオの箱を叩
いた日のことを想い出す。

ラジオは昔は貴重品であった。一家には一台で、たいていは茶の間の箪笥の上に
置いて夕食時、一家全員で聴いたものだ。僕の個人的な想い出は、昭和28年、父
母から離れた最初の赴任地で、仕事を終えて下宿に帰る道で聞いた「笛吹童子」の
あのメロディだ。今でも耳に残っている。

ラジオが箱型からトランジスタに変わり、市場に出回ったのは昭和32年だった。ソニ
ーのその時の値段価格は13800円だった。たしか当時の大学出の初任給は10000
円ぐらいだから随分高かった。その後ラジオカセットの時代に入り、国産初の製品が
売りに出たのは昭和43年である。その頃、当時の若者の間ではラジオの深夜放送
が人気だった。”かめさん”こと亀渕昭信がニッポン放送の「オールナイトニッポン」に
出演していたのは昭和39年から48年までだった。先日自殺した加藤和彦の”帰って
きた酔っ払い”(42年)”悲しくてやりきれない"(43年)”白い色は恋人の色”(44年)も
この時代でオーバーラップしている。

あの時代、僕はすでに30代で、深夜放送は聞いたことはないが"帰ってきた酔っ払い”
などのアングラ音楽には強い印象を受けた。あれから40年、当時の若者もすでに50代
から60代。鳩山内閣閣僚の大半はこの世代である。光陰矢のごとしだ。

      自由が丘 この半世紀の変わりよう

2009-10-20 05:43:08 | Weblog
昨日、岐阜から上京した先輩を招き、在京のこれまた先輩二人と一緒に「近
衛歩兵連隊」のささやかな"戦友会”を持った。僕を除けばみな90歳という超
高齢である。会場は自由が丘駅から近い、昔住宅街だった一角のしもたやを
を改造したような日本料理店だが、流行の"隠れ家”みたいな雰囲気があって、
いつも女性客で一杯、予約をいれないと入れないほどの盛況ぶりだ。(写真)

自由が丘の変容は東京でも一、二ではないだろうか。料理店のあるあたりは戦前
は九品仏の池(今は埋め立てられてない)から小川が流れていたが今は暗渠と
なり、現在魚菜学園がある場所には、藁葺きの廃墟が戦後かなりあとの時期
まで残っていた。近くを走る大井町線の引っ込み線には黒柳徹子さんのベストセ
ラー「窓ぎわのトットちゃん」が通っていた「トモエ学園」の車両校舎もあった。

自由が丘の正面口広場のあたりは、昭和20年5月23日深夜の空襲で焼けた。戦
前は駒沢ゴルフコース(現在の駒沢公園)へ行くキャデイさんのバスが出ていたほ
ど郊外ののどかな駅だったのに、なぜB-29は、こんなところにまで焼夷弾を落とし
たのだろうか。当時、隣駅の近くに住んでいたわが家にもその破片が落ちてきた。

戦後すぐ駅前広場の近くに「南風座」という映画館が建った。またショッピングモール
のはしりともいえる「ひかり街」が東横線に沿って出来た。その頃から自由が丘は徐
々に変わってきたが、今のような”しゃれた町”になるとは想像もしなかった。戦前東
京府荏原郡衾(ふすま)村だった当時は"田舎の香水”がただよっていた田園だった
が、大変な変わりようだ。

        見えてこない鳩山内閣の老人福祉政策

2009-10-19 05:05:32 | Weblog
鳩山内閣がマニフェスト(政権公約)の目玉の一つに掲げていた「後期高齢者医療制度」
の廃止はどうなってしまったのか?先日発表になった平成22年度予算の概算要求をみる
と、マニフェスト実現のため一般会計は95兆円と過去最高の数字に膨れあがっているが、
こと、高齢者医療を含めた老人福祉をがどうなるのは見えてこない。

マスコミは老人福祉には関心がないとみえて、あまり報道しないが、断片的に伝わるとこ
ろによると「後期高齢者医療制度」は、その実施機関の各地の広域連合の反対で廃止に
踏み切れないとのこと。それよりも廃止後の財源のメドがつかないからだという。かりに廃
止されても平成22年度末で、新制度の移行は23年度からで、それも後期高齢者が期待し
ているものか、どうかもわからない。

厚労省の最近の発表によると、全国の生活保護世帯は120万人を越え、そのうち45%は65
歳以上の老人世帯である。鳩山内閣は政権公約として、今年4月に廃止になった母子家庭
への加算を復活し、さらに父子家庭にも支給する。しかし、平成18年度に廃止になったままの
70歳以上への老人加算の復活はない。

予算概算要求でみるかぎり、老人は"カヤの外”で、厄介者扱いである。少子高齢化は、年々
加速してきており、近い将来、自分たちの身にもふりかかってくるのだがー。「後期高齢者医
療制度」の廃止の公約は、まったく老人だましにすぎなかった。










   国宝指定の赤坂離宮が国会図書館だった頃

2009-10-18 05:08:11 | Weblog
迎賓館赤坂離宮が明治以降の文化財として初めて国宝に指定される。明治42年、
当時皇太子であった明宮嘉仁殿下(のちの大正天皇)のお住いとして建てられた宮
殿である。戦後一時期(昭和23年ー36年)赤坂離宮は国会図書館として利用され、
一般に公開されていた。

大學時代(昭和23年ー28年)、僕はこの国会図書館をよく利用させて貰った。ネオ
バロック式の建物は、ベルサイユ宮殿を模して造られたといわれ、地上2階、地下2
の、およそ図書館には似つかわぬものだった。たしか閲覧室は2階の天井に大きな
シャンデリアがある豪華な大広間の一つだった。玄関を入ると赤いじゅうたんが敷か
れてあったが、階段の端はほころびていた。利用者はそれほど多くなく、なぜか昼食
時になると、職員がオルゴールを鳴らせて回ってきた。

開館した昭和23年頃は、まだ離宮のある四谷駅界隈は焼跡が残っており、食料難
であった。僕が通学していた大学は6月から夏休みに入っている。外掘りの一つ真田
堀には空襲で焼けた瓦礫が運び込まれ埋め立て工事が進んでいた。今、上智大学
のグランドなどに使用されている、あの部分だ。

あれから半世紀の歳月が流れ、国会図書館は移転し、建物は外国からの賓客を迎える
ゲストハウスに変わり、エリザベス女王も宿泊、サミットの会場にも何回か使用されてい
る。離宮が国宝に指定されると知り、空腹を抱え、オルゴールを聞きながら読書した当
時がむしょうに恋しくなった。

    戦友との再会 靖国秋季例大祭(創立140年)

2009-10-17 04:53:04 | Weblog
明日18日から靖国神社の秋の例大祭が始まる。すっかり忘れていたら知合いの90歳
の先輩から、今年は靖国神社創立140年の大祭の年に当たるので、久しぶりに戦友
に会いに岐阜から上京する、と電話がかかってきた。先輩は第25軍司令部に勤務して
いた歴戦の勇士で、シンガポール上陸作戦で数多くの戦友をなくしている。
          
          ♯遺骨を抱いて(逵原実作詞 松井孝造作曲)
          一番乗りをやるんだと 力んで戦友の遺骨を抱いて今入る
          シンガポールの街の朝
          負けず嫌いの戦友のかたみの旗を取り出して、雨に汚れた
          寄せ書きを 山の頂上に立ててやる

シンガポール上陸作戦は大変な激戦であった。たった5日の戦闘だったが、日本側の
損害は死者1713名,戦傷者3387名に及び、英軍降伏後、普通なら盛大に行うはずの
入城式もなく、全軍の犠牲者の慰霊祭がしめやかに行われた。

第25軍はその後スマトラに転戦、司令部を西スマトラのブキティンギに起き、終戦まで
スマトラ全土の軍政に当たっている。僕は従軍世代ではないが、戦後第25軍司令部
の防空壕虐殺事件の虚妄調査で、先輩と知合い以降、戦友会にも出席し"戦友”同様の
お付き合いをさせて貰っている。

靖国神社に代わる国の代替慰霊施設建立のための調査費が今年度補正予算から削ら
れたそうだ。理由は多分、不要不急だからであろう、近隣諸国に"配慮”するのを目的に
した、このような施設はまったく不要である。

           "江戸”が残る町 両国

2009-10-16 05:24:46 | Weblog
昨日、両国の江戸東京博物館で開催中の「よみがえる浮世絵ーうるわしき大正新版画展」
を友人と見てきた。新版画とは江戸時代の浮世絵と同じ技法によって大正から昭和初期
に製作された木版画である。僕らがまだ幼児期だった頃の風景や人物を描いた版画もあり
なんともいえぬ不思議な気持ちに耽った。

今年は隅田川にかかる両国橋が出来て350年という記念の年に当たり、両国界隈は"江戸"
の匂いを求めて訪ねてくる観光客がいつもの年より多いらしい。「大江戸まつり」のフィナーレ
を飾って10月24日(土)25日(日)には、JR両国駅のまわりで、江戸あやつり人形、古典奇術
曲芸、ケン玉秘芸、土地ゆかりの相撲甚句などが披露される。

僕らは、少年時代の人気力士"弾丸巴潟”が開いた、ちゃんこ料理で舌づつみを打った後、
近くの回向院に参詣した。"振袖火事”で有名な明暦の大火で亡くなった10万人を回向する
ため将軍家綱が建てた古刹である。ここは大相撲発祥の地でもあり、明治42年、旧国技館
が出来るまで、勧進相撲が行われていた。境内には、それにちなんで物故した相撲取り、年
寄りなど関係者を祀った大きな「力塚」があり、その脇には相撲記者の慰霊碑まである。双
葉山時代記者をしていた僕の亡父の名前も刻まれていた。

境内の墓地には、山東京伝,竹本義太夫,鼡小僧次郎吉など歴史上の人物の墓もあるが、
なぜか墓前に花が捧げられていたのは、鳥塚、猫塚、犬塚などだ。僕らが訪れた日も、若い
女性がめだった。ペットブームのご時世である。

       食べ残し料理の持ち帰りバッグ

2009-10-15 05:03:08 | Weblog
自由が丘商店街の秋の「女神まつり」の今年のテーマは”環境への挑戦”であった。
その催しの一つとして地元のレストランで残した料理を持ち帰ってもよいですよ、と
"ドッギー・バッグ”(doggi bag)が配られた。地元とゆかりのある、ホームラン王、王
選手の娘さん、王理恵さん考案のものだそうだ。

アメリカでは、レストランで食べ残した料理を持ち帰るのは、当たり前の習慣で"ドッ
ギー・バッグ”、つまり家の飼い犬に持ち帰る、という発想で始まったということだ。
あまり、よいネーミングではないが、インドネシアでは”ナシ・ブンコス”(nasi bungk
-os)という。主に華僑経営の中華料理店だが、ブンコス(包む)と頼むと店に用意
してある油紙で手際よく包んでくれる。油ものでも、時にはスープものでもOKだ。

日本でも戦前、結婚式の披露宴が自宅や町中の料亭で催されていた頃は、食べ残し
ではないが、経木の箱に入ったご馳走がお土産として出た。御頭つきの鯛、栗キント
ン,紅白のようかん、サトイモの煮物などが定番だった。今でも地方によっては、その
名残なのだろうか、冠婚葬祭の宴に持ち帰り用に経木の折が置いてある。

自由が丘の"ドッギー・バッグ”は地元の商店街加盟レストラン限定で利用できるとの
ことだ。日本の料理は外国に比べて量は少ないが、僕ら年寄りには多すぎる。食べ残
しをただ捨てるよりは、こうしてバッグを用意してくれれば、家に帰って翌日にも食べら
れる。ECOの企画としたは良いアイデイアだ。他でも普及したらどうか。

        トラブルメーカー 前原国土交通相

2009-10-14 04:45:42 | Weblog
前原誠司国土交通相が今度は突然、羽田空港のハブ空港化を言い出した。来年10月
に同空港の第4滑走路が完成するのを機会に國際拠点空港化する方針なのだという。
どうも、この人はあまりPTOをわきまえず発言し、変に我をはるところがみられる。野党の
論客だったら解かるが、一国の政治を担う大臣である。

この発言も橋下徹大阪府知事との話し合いの中で出てきたもので、あまりにも唐突な感
じがする。民主党"得意”のマニフェストにも書いてない。前原氏の真意はよく解からな
いが、早速、関係者の間で大きな波紋が広がっている。

八ツ場ダム建設廃止を発表し、現地を視察した時の記者会見もそうである。民主党のマ
ニフェストに書いてある一本やりで、最初から地元の意見を聞く耳を持たない。昔から日本
には”ものは言いようで”という言葉がある。同じことを言うにも言いようによっては"角”がた
つ。まず白紙の状態で地元の意見を聞き、記者会見に臨むべきであった。

この記者会見で、前原大臣はダム建設廃止で地元に迷惑をかけたと、深々と頭をさげてい
た。これを見て僕は2006年2月、彼が民主党代表だった時、例のライブドアにからむニセ・メ
ール問題で謝罪したあのテレビ画面を想い出した。あの時と今度とは謝罪の内容も質も
違うが、僕には、この二つの謝罪をみて前原氏には軽率な面があるようにみれてならない。
トラブルを起こし,後になってそれが誤りと判っても一国の政治を担う大臣である。”どうもす
みません”ではすまない。発言は慎重の上にも慎重に。トラブルメーカーでは困る。

       アフガン支援は日本独自色で!

2009-10-13 05:01:54 | Weblog
岡田克也外相がアフガニスタンを訪問した。今後のわが国の対アフガン政策を
決めるに当たって外交の最高責任者が直接現地を自分の目で見るのは良いこ
とだ。2001年9月11日の同時多発テロの後、米国はテロ首謀者,アルカイーダ
のオサマ・ビン・ラーディンを匿った理由で首都カブールを爆撃、アフガンへの軍事
介入を開始した。日本も同盟国として協力,海上自衛隊によるインド洋での給油
支援のほか、アフガン復興援助に20億㌦も供出している。

僕は半世紀以上にわたって知イスラム・オブザーバーの一人として、わが国対イラ
ク、アフガン政策を見てきたが、たんに対米追従一辺倒ではないかと批判してきた。
わが国と米国との関係は承知しているが、もう少し相手がイスラム国家であること
を理解すべきではなかったかと思う。

米国のアフガン介入から、すでに8年経つが、いぜん泥沼状態である。解決の糸口
は見えず、逆に今年になってからは、タリバン側の攻勢で米兵の犠牲者は、昨年の
数を上回っている。最近になって現地の米軍司令官は兵力の増派を求め、これをめ
ぐって米国の議会が紛糾している。イスラム国家への介入は武力だけでは解決でき
ない。

アフガンの政治混乱は、元はといえば1979年ー89年のソ連(当時)の軍事介入から
はじまっている。この介入に対して、アフガン内のイスラム勢力は結集し、国内だけ
でなく、国外からもイスラム義勇兵がかけつけ徹底抗戦している。結果としてソ連は
60万人の兵力を投入しながら撤退している。

イスラム教徒対異教徒(kafir)との構図は、21世紀の現在でもある。わが国は歴史的
に構図のラチ外にあった。だからイラク、アフガン問題については、あまり一方にコミッ
トすべきではなかったし、将来もそうあるべきである。支援は日本独自色ですべきだ。





            糖尿病に健康補助食品

2009-10-12 04:50:06 | Weblog
行政が行っている無料の健康診査の結果がでた。僕も老妻も血液検査(生化学、血液学)
の表には「H」印が一つもなかった。つまり血液から見る限り、どこも悪いところはなしである。
まずは二人とも万歳だ。僕にとっては「H」印なしは、現役時代を含めて初めてだ。といっても
40年近く降圧剤を飲んでいるので引続き治療はするが、老妻は通院の必要なしで”無罪放
免”である。治療費3割負担のわが家にとっては大助かりだ。

僕は若い時からの高血圧の他、糖尿予備軍の傾向があり、今年2月の血液検査の数値は
血糖値が231(正常値70-109)、ヘモグロビン9・6(4・3-5・8)と高かった。医者の勧めで、
初めて血糖値を下げる薬を服用し始めた。でもお医者さんの話では、血糖値が下がったのは、
どうも薬の効用だけではないという。2月の検査で高かったGOT(43),GPT(50)の数値も正常
値に下がっている。 

お医者さんの言うには、薬とは別に飲んでいる健康補助食品の玄米酵素の効果もあるのでは
ないかという。僕も老妻も今年はじめ頃から、お医者さんの勧めもあって半信半疑ながら玄米酵
素をサプルメントとして飲み始めた。老妻には確かに効き目があって便秘が止まった。薬ではな
いから、飲んでも併用の害はない。糖尿との関係も、お医者さんがいうのだから効き目があるの
だろう。ちなみに玄米酵素のホームページはhttp//www.genmaikoso.co,jpまた会社のフリーダイ
ヤルは0120ー13-6789です。