「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        日本の近代史 ”複眼”の歴史観を!

2009-10-11 07:02:15 | Weblog
歴史ブームだそうである。歴史好きの女性のことを”歴女”と呼び、正統派の歴史
好きを指すネット用語を”歴士”という(「産経新聞」10月2日首都圏2面)。それに
触発されたわけではないが、先日、僕は66年来の”竹馬の友”に誘われて上映中
の映画「火天の城」を観にいった。織田信長の安土城建設にからむ3年にわたる城
造り棟梁の苦労を描いたものだ。題名から本格的な歴史物を勝手に期待していた
二人には、ちょっと物足りなかったが。

僕らは”歴士”ではないが、歴史好きである。しかし、考えてみると、僕らが小学校
で学んだ日本史は「国史」であった。年号表記は皇紀であって神武天皇即位から歴
史が始まっている。だから「仏教伝来」は大陸から”お一、ニ、お一、二”とやってきた
と暗記させられた。神功皇后后の三韓征伐も秀吉の朝鮮征伐も、いわゆる皇国史観
で教わっている。

今の学校では、おそらく違った観点から当時の日韓関係を捉え教えているのだろう。
僕はその意味では両国による古代、近世史の両国学者による共同研究には反対で
はないし、むしろ賛成である。

問題は明治維新以後の近代史、とくに日支事変から大東亜戦争終結までの15年間
の歴史である。戦争を多少体験している僕ら世代にとって、現在の学校で教える、この
間の歴史はあまりにも”自虐的”である。歴史は一面的に捉えてはいけない。複眼で
みなければならない。

現在の歴史ブームが、さらに広がりをみせ、学校で教えなかった、あるいは間違って教
えられた近代史にまで及び”自虐的”すぎる近代史を複眼でみることを望んでいる。

        また始まった年金からの天引き

2009-10-10 05:32:39 | Weblog
昨日、社会保険庁から 「年金振込み通知書」が届いたが、僕の「国民年金、厚生年金、
老齢基礎厚生」から「個人住民税」という名目で”一方的”に1万円近くが天引きされてい
る。僕にとっては、まったく”寝耳に水”なので、問い合わせ先の東京の区役所に電話
してみた。

電話口に出た女性の担当者によると、今年10月から一部の町村を除き、個人住民税が
”特別徴収”に変更になり65歳以上の公的年金受領者からは住民税を天引き徴収する
ことになったのだという。この変更については、すでに区の広報やHPでも知らせており、
納税通知書でも通知ずみだと叱られた。僕よりは、世事に詳しい老妻に聞いたら、やはり
初耳のようだ。一般的に75歳以上の後期高齢者になれば、区の広報やHPなんか詳しく
読まなくなってきている。

年金からの天引きは、昨年5月、後期高齢者医制度導入のさいも厚労省の事前PRの不
足から問題になり、年寄りたちが騒いで政治問題にまでなった。その”ノド元もすぎない”
うちに、また新たな天引きである。

区の女性担当者は、”天引き”ではなくて納税者の銀行などに行く手間を省いた行政側の
サービスだという。でも年金生活者にとっては、明らかに天引きだ。僕らにとっては年金は
現役時代”汗を流して”働いた一種の”ご褒美”なようなものだ。その”ご褒美”が年々介護
保険、後期高齢者保険など色々な名目で天引きされ目減りしてきている。役所にとっては
”貯金通帳”代わりで便利かもしれないが、収入が年金便りの年寄りの心情も配慮して欲し
いものだ。




          台風とダム建設の選択

2009-10-09 05:04:37 | Weblog
この10年で最強クラスという台風が列島を縦断、各地に被害をもたらしたが、幸い
亡くなった方はほとんどなかった。東京の鉄筋住宅に引きこもっていた僕は、時々
強い風の音に驚かされたが、いつ台風が通過したのかもわからなかった。

首都圏は関西、九州、四国に比べて台風の襲来が昔から少ないが、まだ戦後まも
なく、台風が欧米の女性名で呼ばれていた占領下、二つの台風、キャサリン(昭和
22年)キティ(24年)が襲い、キャサリンでは1930人、キティでも165人の方が亡くな
っている。全国的にも昭和の前半は室戸(昭和9年)枕崎(20年)伊勢湾(34年)の3
大台風で大被害が出て、そのつど2000人から3500人もの犠牲者が出ている。谷崎
潤一郎の「細雪」に書かれている関西大水害(13年)でも六甲の土石流などで690人
が亡くなっている。

幸い平成の時代になってからは、こうした大規模な人的被害の台風は少なくなった。
これは一つには治山、治水といった土木工事の長足な進歩と国民の防災意識の向
上によるものだろう。機会があって、僕は六甲や鹿児島桜島の砂防施設を見学した
ことがあるが、自然災害の多いわが国では、やはり防災施設が不可欠なことを知った。

最近、日本ではダムで代表される土木(civil engineering)工事が税金のムダ使いの
代表格にされ、悪者視されている。しかし、本来、土木は”civil"のためのものである。
頭からダムを悪者にせず、防災上必要な工事まで凍結してはならない。

       「政治」より「選挙」なのか小沢幹事長 

2009-10-08 05:09:05 | Weblog
民主党の小沢一郎幹事長が党役員人事を決めるに当って、自分は参院選で各地を
周り留守がちになるから、その間の代行として輿石東参院議員会長を指名する、と
発言していた。折から与党政府は、今年度補正予算の見直しで当初の3兆円の財源
が確保できず苦戦している。小沢氏の発言は「政府」は「政府」、「党」は「党」といった
小沢氏の「政治」を無視した彼独特の”政治ごっこ”のように僕には受け取れた。

鳩山内閣が補正予算の見直しで、ムダな事業の執行停止を行うのには大賛成だ。小
ブログで再三にわたって批判している厚労省の「海外慰霊碑整理事業」といった英霊
侮辱、戦友泣かせみたいな事業は、イの一番に執行停止頂いたと思う。これに限らず
役所には、僕ら素人がみても不要不急、従来の慣例、なれあいの事業が多い。

でも、歓迎とばかりは言っていられないようだ。民主党が先の選挙のマニフェストの目玉
に掲げていた、例えば、僕ら老人に直接関係のある「後期高齢者医療制度」の廃止はど
うなのか。新聞報道では見送りで26日召集の国会でも審議されず、先送りだという。他の
目玉「子供手当て」「生活保護母子家庭への加算復活」もなんだかうやむやになっている
印象を受ける。

民主党のマニフェストは、つまるところ政治的な”大言壮語”だったのかー移りげな国民世
論である。だんだんそう感じ始めてきている。だからこそ、小沢さんが参院選挙に向けて飛
び回るのかもしれないが。長妻厚労大臣が省内の人事評価制度を発表に当たって、”明
治維新以来”の改革と言っていたが、こういう形容詞はマスコミにまかせ、地に足をつけた
政策を頼みたい。












         ”イタ食”の流行と新野菜

2009-10-07 04:58:46 | Weblog
群馬県の嬬恋(つまごい)に家庭農園を持つ娘の友人から巨大なズッキーニを頂戴
した。長さ58㌢、重さが4・2㌔もある(写真)。さて、いかに料理して食べるものか老
妻は料理本に首っきりでレシピを探したがでてこない。趣味の絵に描きとっていたが、
彼女の料理にはあまり期待していない。どんな料理が出てくるか不安だが楽しみだ。

ズッキニーという言葉の語感から僕はイタリア原産の野菜と思ったら、原産地はメキシ
コで、イタリアでは”zuchina"といい”zuchini"という呼び方は米国やオーストラリア流
だそうだ。が、戦後ズッキーニで食べられるようになったのは、イタリア料理を通じてで
はないだろうか。ズッキニーだけではない。老人には舌をかみそうな発音のルッコラ、プ
ンタレット,バジル、エストルなどなど、イタ食流行前は日本にはなかった野菜だ。

そういえば、日本人の食べる野菜は戦後、とても豊たかになった。今やサラダには定番
のパセリ、セロリを始めオクラ、ちんげん菜など戦後の野菜だ。アスパラガスも戦前はカン
詰めの白いアスパラだけで、緑のアスパラを食べるようになったのは、せいぜいこの40
年前からだ。

ものの本によれば、日本原産の野菜といえば、ふき,せり、うど、わらびなど限られていて
キューリ、ナス、大根、人参なども元をただせば外来種だという。今やイタリア料理にはか
かせないトマトも明治の日本人は悪魔の食べ物と敬遠していたらしい。

ビニールハウスの普及や改善で、昔は年を通じて日本では栽培できなかった野菜が色々
生産できるようになった。食が豊になって幸せである。しかし、バイオテクノロジーなどで危
険な食品が食卓にのぼることだけは勘弁である。

   ”井戸掘り”の苦労  ある地方民放創始者の死

2009-10-06 04:43:18 | Weblog
昨日、郡山の福島中央テレビの社長だった今泉正顕氏の「お別れの会」に参列した。
今泉氏は同テレビ創立時の地元経営陣の一人で、40年前、僕も東京キー局から派
遣されて一緒に”生みの苦しみ”を味わった仲だ。「お別れの会」には福島県の佐藤
雄平知事、原正夫郡山市長も参列されて弔辞を読み、丹治一郎郡山商工会議所会
頭が葬儀委員長をつとめられた。会場には1500人の方が参席、それでも入れない方
がホテルロビーのテレビで故人にお別れを告げた。

今泉氏は、旧奥州街道「郡山宿」本陣の出で、40年前テレビ創立時は商工会議所の
専務理事であった。僕より4歳年上だから当時はまだ40歳を少し出たばかりの若さだ
ったが、大人の風格があった。そして、当時の流行の言葉でいえば”アイディアマン”
であった。まず、氏が社員採用にさいし、打ちだしたのは”10年定年制”であった。社
員は10年単位で契約を結び、契約が切れたらその都度契約をしなおそうというものだ。
結局、この制度は廃止になったが、開局時の社員の志気高陽には効果があった。

40年前、UHF局としてスタートした頃は、テレビの受像機は変換器(コンバーター)を取
り付けないと見えなかった。営業はCMを売るより、まず電気屋さん周りをしてコンバー
ターの普及から始まった。今泉氏の提案で開局時から始まった、福島県内を4地区に分
けて各地区の有力者をキャスターに呼んで、その地区のニュースを伝える番組はざん新
で営業面でもプラスになった。

笑顔を一杯にたたえた今泉氏の祭壇に献花する当時の”10年契約”社員もすでに第一線
から退いている。改めて井戸を掘った人の苦労を偲んだ。


            民主党 教育の再生は?

2009-10-05 04:58:03 | Weblog
毎年、秋の長雨のこの季節になると想い出すのは、敗戦の年の10月、第一京浜国道
の旧品川区役所の周辺で焼跡整理をしたことだ。戦争に負けて2か月も経っていたの
に当時中学3年生だった僕らは学校の命令で動員された。しとしと冷たい雨の降る中
で、道端に積まれた焼けトタンなどを整理していると、ジープに乗ったGI(米兵)が可哀
相と思ったのだろう。ラッキーストライク(煙草)を投げてよこした。

もうかなり昔のようにも感じられるが、安倍晋三内閣の時「教育再生会議」が持たれ若
者の社会奉仕が提言されたことがあった。僕と同世代の作家、曽野綾子さんも、これに
賛意を示されていた。が、戦争体験のないグループから”徴兵制”に通ずるものだと反対
意見が出ていた。安倍内閣の終焉と共に教育の再生も終わってしまったのか、若者の
社会奉仕を言う者もいなくなった。

鳩山内閣は今のところ新政策の予算を生み出すことで忙しくはっきりとした教育理念が何
だか判らない。聞こえてくるのは公立高校の授業料の無料化とか教員の再免許試験反対
といった特定の組合団体の声ばかりだ。

僕らが動員された焼跡整理は今考えると、反対すれば反対できたのにと思う。でも働き手
は戦地から復員してこないし、そのまま焼跡を放置するわけにはいかない、と子供心にそう
思ったのであろう。高校の授業料の無料化もよいが、感受性の強いこの時期に一定の期間
社会に関心を持たせ社会奉仕させることもムダではないと思うのだが。

       ”80の手習い” スペイン語への挑戦

2009-10-04 05:03:06 | Weblog
超高齢化社会。昔から"60の手習い”という言葉があったが、今はインターネットで
調べると”80からの手習い”の時代である。僕もそれにならって昨日から近所の高校
で開催された「スペイン語初級」公開講座で勉強を始めた。主催者の挨拶だと参加
希望者が多くて、参加者を選ぶのは、都立の高校より難関だったとのことだ。

僕らの世代は一般的に語学に弱い。戦争で英語の勉強が中断され、戦後の大學受
験も「赤尾の”マメ単"」とか「小野啓の英文解釈」といった参考書で勉強していた時
代である。だから発音は悪いしリスニングも会話も出来ない。当時学校には視聴覚
教室もなかったしLL教材などなかった。

講座は毎週土曜日の午後2時間、7週だけ、どこまで上達するか疑問だが、頭の訓練、
ボケ防止の予防にはなろう。子供や孫の若い人に混じって”ABC"から始めた。今の
語学の勉強法は、僕らの時代の読書き偏重ではばい。いきなり”Hola Buenotardes.
Yo soy ○○.Encantado"(やあ、今日は ○○です はじめまして)で始まる。それも
受講者同士が向き合い声を出して言い合う

僕の体験から語学の学習は短期集中,声を出すのが一番だ。50歳からインドネシア語
を始めて約1年,リンガフォーンで集中的に学習して一応これで生活できるまでに上達
した。スペイン語の教材にはネーティーブが発音したCDまでついている。とにかく挑戦
してみよう。出来ればスペイン語を使った旅に出たいものだ。

      2016年五輪 東京は落選したけれど

2009-10-03 04:46:13 | Weblog
2016年に開かれる夏季五輪の開催地を決める國際オリンピック委員会(IOC)総会
で、東京はリオデジャネイロ(ブラジル)に破れ落選した。後期高齢者の身であり、
果たして開催まで生きていられるかどうか判らない。前回1964年の東京五輪前の
ような興味は正直いってなかった。でも、石原慎太郎・東京都知事が"老骨にムチ
打ち”あれだけ情熱を傾け、先頭にたって働いてきたのに残念なことだ。

僕の家の近くの目黒通りや駒沢通りは、戦争で中止になった昭和15年(1940年)の
東京五輪のさい、計画され着工が始まった道路だ。その頃小学生だった僕らの世代
はベルリン五輪の記録映画「民族の祭典」を見て育っただけに、五輪への愛着がひと
しお強いのかもしれない。1964年の東京五輪前の国民あげての沸き立ちも実感して
いる。

それに引き換え、今回の五輪立候補に対しては、石原知事が"笛吹けども”の感がな
いでもなかった。4年も前に立候補しながら野党民主党は、政争に明け暮れて国家的
事業でもある東京五輪に関心を示さなかった。政権の座につき、やっと鳩山首相が
IOC開催地のコペンハーゲン入りして誘致演説をした。失礼な言い方だが、総理もやっ
と"国”の重さを実感されたのではないだろうか。

リオデジャネイロの当選は、五大陸を意味する五輪のマークからいって当然である。マ
スココミの事前の予測ではシカゴ有利という説もあったが、最下位であった。大国の
エゴが災いしたのかもしれない。東京誘致運動は大変な散財だったかもしれないが、
一つの国家的な事業をするには国民の和が必要だという教訓を学んだ。とすれば、落
選も高いものではない。

         スマトラ地震と旧日本軍防空壕

2009-10-02 05:22:44 | Weblog
またスマトラでマグニチュード(M)7・6の大地震である。幸い2005年12月の巨大
地震の時のような津浪は発生しなかったが、地すべりや家屋の倒壊で、犠牲者
は1000名を越すという報道もある。震源地は西スマトラ最大の都市,パダン西北
西約45㌔の海底である。この地域では07年3月にもM6・3とM6・1の連続地震で
大きな被害が出ていたばかりである。

このパダンから東に90㌔入った高原にブキティンギという町があり、ここに戦争中
スマトラ全域を統括する日本陸軍の第25軍司令部があった。戦争末期の昭和19
年、戦況の逼迫化に伴い、高原にある断層を利用して防空壕が掘られた。司令部
の全要員が長期間生活できるよう設計された大きな壕である。戦後30年近くたって
インドネシア政府がここを公園化しようと計画、何を間違ってか宣伝効果を狙って壕
の築造のさい、日本軍が労務者3000人を殺したと喧伝した。日本の学者、研究者
までが見事これにだまされた。

1995年、僕は戦争中パダンにあった日本語の「パダン新聞」記者だった先輩と一緒
にブキティンギを訪れ、このデマを知り、帰国後、防空壕を築造した主計大尉を探し 
あて、虐殺が作り話であるのを証明した。翌年、インドネシア政府も壕の入口にあった
虐殺の壁画を撤去した。

07年の地震でもブキティンギでは8名犠牲者が出て、以降防空壕の公開は中止され
ているという話だ。今回の地震でも多分、大きな被害が出ていると思う。防空壕は500
㌧爆弾にも耐えられるように設計されている。公園化のさい補強もされているが、果た
して半世紀以上の歳月を経て安全なのかどうか判らない。やっかいな戦争の置き土産
である。(写真は旧日本軍防空壕入口と断面図)