孫の大学入学お祝いの会を遠縁のやっている焼肉店で催した。少し高級感のある
お店で、本格的な炭火焼、雰囲気もあって味もよかった。でも料理はあくまで焼肉
が主体、若者にはよいが、老夫婦にはちょっと!もっぱら前菜のキムチやナムルそ
れにお好み焼き風のチヂミに箸を運んだ。
こういった朝鮮(韓国)料理が日本人の間でよく食べられるようになったのは、僕の記
憶では1960年代の後半ではなかっただろうか。1955年頃、僕はかけだし記者として
上野、浅草方面の警察周りをしていた。そのころよく御徒町のバラック建ての小さな
朝鮮料理店に濁酒を飲みに出かけたが、サービスとして出てくるキムチやナムルの量
の多いことと焼肉の美味しかったことを覚えている。当時は朝鮮料理は特定の場所し
か食べられなかった。まさか今のように焼肉店がブームになるとは想像もしなかった。
戦前、植民地時代だった朝鮮から別の遠縁から毎年、お歳暮の頃、ミンタイの箱詰め
が贈られてきた。子どもの舌には辛かったが、こんな美味いものはないと思った。戦前
僕が食べた朝鮮の食品はこれだけであった。近所に朝鮮の人も沢山住んでいたが、何
を食べていたのか関心もなかった。
今やチヂミは日本のお祭りの露天でも売られている。キムチやナムルはスーパーでも扱
っている。とくにキムチにいたっては日本の伝統的な漬物、たくあんよりも売られる量が
多いという”国民食”だ。35年間の植民地時代には知られず、食べられなかったのに、食
文化とは不思議なものである。
お店で、本格的な炭火焼、雰囲気もあって味もよかった。でも料理はあくまで焼肉
が主体、若者にはよいが、老夫婦にはちょっと!もっぱら前菜のキムチやナムルそ
れにお好み焼き風のチヂミに箸を運んだ。
こういった朝鮮(韓国)料理が日本人の間でよく食べられるようになったのは、僕の記
憶では1960年代の後半ではなかっただろうか。1955年頃、僕はかけだし記者として
上野、浅草方面の警察周りをしていた。そのころよく御徒町のバラック建ての小さな
朝鮮料理店に濁酒を飲みに出かけたが、サービスとして出てくるキムチやナムルの量
の多いことと焼肉の美味しかったことを覚えている。当時は朝鮮料理は特定の場所し
か食べられなかった。まさか今のように焼肉店がブームになるとは想像もしなかった。
戦前、植民地時代だった朝鮮から別の遠縁から毎年、お歳暮の頃、ミンタイの箱詰め
が贈られてきた。子どもの舌には辛かったが、こんな美味いものはないと思った。戦前
僕が食べた朝鮮の食品はこれだけであった。近所に朝鮮の人も沢山住んでいたが、何
を食べていたのか関心もなかった。
今やチヂミは日本のお祭りの露天でも売られている。キムチやナムルはスーパーでも扱
っている。とくにキムチにいたっては日本の伝統的な漬物、たくあんよりも売られる量が
多いという”国民食”だ。35年間の植民地時代には知られず、食べられなかったのに、食
文化とは不思議なものである。