ビター☆チョコ

店じまい後も変わらずご訪問ありがとう。
新居をかまえましたので
お近くにお越しの際はお寄りくださいませ。

ハワーズ・エンド

2007-03-20 | 洋画【は】行

20世紀初頭のイギリス。 
シュレーゲル家の次女ヘレン(ヘレナ・ボナム・カーター)は
ウィルコックス家のハワーズ・エンド邸に招かれ、ウィルコックス家の次男ポールと婚約する。
しかし婚約は幻と消え、シュレーゲル家とウィルコックス家の繋がりは断たれたように思われた。
数ヵ月後のロンドン。
シュレーゲル家の長女マーガレット(エマ・トンプソン)は向かいの家に偶然にもウィルコックス家が引っ越してきたことを知り、複雑な思いにとらわれる。

ウィルコックス家のロンドンの家では病弱なウィルコックス夫人(ヴァネッサ・レッドグレープ)が、ひとりで寂しく過ごしていることが多い。
知的で活力にあふれたマーガレットは、過去のしがらみはあるものの、寂しく暮らすウィルコックス夫人を訪ね、二人の間には友情が育っていく。
ロンドンの暮らしに馴染めず、生まれ育ったハワーズ・エンド邸を懐かしむウィルコックス夫人。
しかし彼女は二度とハワーズ・エンド邸に戻ることはできなかった。
自分が一番愛したハワーズ・エンド邸を、自分が一番頼りにしたマーガレットに託すことを、書き残すのだが。。。。。

イギリスの美しい田園風景と、素朴なたたずまいのハワーズ・エンド邸に見事に咲いた青い花。
映像はどこまでも美しく格調高い。
それだからこそ、そこにかかわる人々の欲望や打算や品性が余計に浮き彫りになってしまう。

資産家で現実的なウィルコックス氏(アンソニー・ホプキンス)は妻が書き残した遺言を反故にしてしまうのだが、皮肉にもマーガレットに思いを寄せるようになってマーガレットに求婚する。
中層中流家庭で芸術に親しみ、心の豊かさに人生の喜びを見出そうとするシュレーゲル家の姉妹、
マーガレットとヘレン。
そしてこの二つの家庭に、下層階級だが知的なレナード・バスト(サミュエル・ウェスト)が絡んで、シュレーゲル家の姉妹は大きな選択を迫られることになる。

階級制度がきびしいというイギリスで、それぞれ階層が違う家庭が交差して
生まれが貧しければ、なかなか浮かび上がれない、という厳しい現実を描いてもいるのだか
どこか詩的なものを感じさせる映画。

マーガレットを演じたエマ・トンプソンは、
オールドミスで知的で、家族思いで、こういう役がはまり役だと思う。
「いつか晴れた日に」や、「ラブアクチュアリー」でも似た感じの役を演じていたのだが、
それぞれの役柄の哀しさが滲み出て、いつもじんわりさせられる。
そして、アンソニー・ホプキンス。
最近では「世界最速のインディアン」のキュートなおじいちゃん役が記憶に新しいのだが、
見かけは紳士だけど、ちょっと性格に問題あり、みたいな役がこれまたすごく似合う役者さんだと思う。

この映画はかなり前に観ていて、初めて観た時はどちらかというと退屈だった。かも。
映像の美しさだけはかなり強烈に印象に残っていたので、数年置きに何気なく観ているのだが
観るたびごとに好きになるのはなぜだろう。

意外な展開で迎える、ゆるやかなハッピーエンドは
分厚い本を1冊読み上げたような、心地よい満足感を与えてくれる。















パフューム~ある人殺しの物語~

2007-03-05 | 洋画【は】行

18世紀、パリ。
当時の都会は悪臭に満ちていた。
その悪臭に満ちた都会に、異常に嗅覚の優れた赤ん坊が生まれた。
母に産み捨てられた赤ん坊は、ジャン・バディスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)と名づけられ
まるで奴隷のように育てられる。
彼は愛を知らず、愛を求めず、ただひたすらに「永遠の香り」を求めるのだった。

フランス革命前のフランス。
知ることのない世界に、私たちは華やかな想像をしてしまう。
しかし、当時は入浴の習慣もなく、排泄物は道に投げ捨てられていたそうだ。
道を歩いていても、いつ排泄物が降ってくるか分からない状況で
その災難から淑女を守るために紳士のマントが流行し、ぬかるんだ道をドレスのすそを汚さずに歩くためにハイヒールが作られたのだそうだ。
そして、その悪臭や、体臭を消すために高貴な身分の人たちの間で香水がもてはやされたのだそうだ。

悪臭のなかには全ての生き物の生と死や、生活や、そんなものがごった煮になって混じっていたのだろう。
グルヌイユの優れた嗅覚は、その全てをかぎ分けてしまう。
彼にとって嗅覚だけが情報の全て、世間とのつながりの全てなのだ。

映像は、当時の混沌とした空気とともに、グルヌイユが感じているであろう「匂い」を伝えてくれる。
グルヌイユが鼻で感じてる世界を、私たちは目と耳で体験する。
それは、時にグロテスクで清浄で甘美で、あまりの濃厚さにめまいがするほどだ。

嗅覚だけが全てのグルヌイユにとって、自分に体臭がないというのは、自分の存在する意味がない、というのと同じことだったのだろう。
「究極の香り」を美少女の体臭に見つけてしまった彼の悲劇が始まる。

グルヌイユのとった行動は、とても人間のすることと思えない非道なものなのだが、
不思議なことに、怒りや嫌悪を感じないのだ。
あまりにも一つの道を追求しすぎてしまった男の「究極の純粋さ」への恐れと哀れみの感情が
胸の中にあふれてくるばかりだ。

『この香水の力の前に、世界はひれ伏す。
しかし、香水は彼を愛し愛される存在にする力はなかった。』

もし、彼が普通の青年だったら愛を語り合ったかもしれない少女達を
彼は「香り」にして閉じ込めてしまった。
「香り」という、はかないものに愛を求めた男は「香り」をまとって消えてしまうしかなかったのかもしれない。
人殺しの物語、というよりも
「香り」というはかないものに、愛と永遠を求めてしまった男の悲劇、のような気がした。




墨攻

2007-02-09 | 洋画【は】行

紀元前370年頃、中国は戦乱の時代だった。
10万の兵を率いた趙国の巷淹中(アン・ソンギ)が、わずか4千人の小国、梁国に責め込もうとしていた。
梁王(ワン・チーエン)は墨家に援軍を請うのだが、墨家からの援軍は来ず
降伏を決めようとしていたそのとき、ひとりの墨家、革離(アンディ・ラウ)が梁城に到着した。
革離はたった1本の矢を放っただけで趙国の先遣隊を退けてしまう。

まずは、軽く予習が必要です。
墨家とは、墨子によって興った「兼愛」「非攻」を説く思想集団だそうです。
そしてこの時代の中国が、燕、趙、梁に分裂していて、のちに秦に統一されていくのだということも
頭に入れておいたほうが、スムーズに理解できると思います。

墨家は、できるだけ犠牲者を出さずに、血を流すことなく争いを鎮めようとする集団です。
自分からは仕掛けない。
徹底的に守るのです。
でも守りに徹すれば徹するほど、攻め込んできた敵を殺すことになってしまうのです。
墨家が自分の能力を発揮すればするほど、自分たちが理想とする「兼愛」「非攻」からはかけ離れた結果になってしまうのです。

人間って悲しいもので
生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。
その二つに一つしかないとき、正義も理想も吹き飛んでしまって
ただ自分が生き残ることにしか集中できなくなってしまうのです。
そのジレンマの中で革離は悩み続けます。

人間の悲しさ、そして権力を持った人間のいやらしさ
そして観ている私の正義感のあやふやさ。
なんかそんな嫌らしい気持がどろどろと渦巻いているような時間でした。

革離の働きによって梁国が勝ってるときは、梁国の味方につき、
梁国の王様が革離のカリスマ性を疎んじて革離を追放してしまうと、とたんに梁国が憎くなります。
そんな内戦状態の梁国に、再び趙軍が攻め込んでくると
今度は「趙軍、がんばれ~」の自分がいます。
正義もなにもあったもんじゃありません。
結局、自分が思うところの正義というのは、
「その時に、誰に一番感情移入ができるのか」ということなのかもしれません。

「兼愛」「非攻」を唱えた墨家も消滅し、
2000年たった今でも、争いは世界のどこかで続いています。
頭では分かってるのです。戦争が良くないってことは。
分かっていても、なくならずに延々と続くむなしさ、
そんなむなしさが胸に残りました。

勉強不足なもので、理解するのに少しばかり時間が必要でした。
でも。。。勉強不足を棚に上げて言えば
もう少し墨家の背景とか、説明のようなものが欲しかったような気もします。
革離がなぜ墨家の反対を押し切って、単身梁国にやってきたのか。
そういう革離の心の中をもう少し見せて欲しかったような。。。
逸悦とのとってつけたような恋愛物語を削ってでも(爆)見せて欲しかったような気がします。

 



 








 


ホワイト・ライズ

2007-01-23 | 洋画【は】行

NYで仕事を成功させたマシュー(ジョシュ・ハートネット)は、かつて暮らしたシカゴに戻ってくる。
仕事で訪れたレストランの電話室で、マシューは懐かしい声を聞く。
それは2年前に突然連絡が取れなくなった、かつての恋人リサ(ダイアン・クルーガー)の声だった。
今のマシューには婚約者がいて、責任のある仕事もある。
しかしかつての恋人の声は、マシューが忘れようとしていた想いを呼び覚ますのだった。
声だけを残して再び消えてしまったリサを探して
マシューは仕事も婚約者のことも忘れて、雪のシカゴの街に飛び出した。

先週観た「ラッキーナンバー7」のジョシュが素敵♪(正確にはジョシュのバスタオル姿なんですけど)と大騒ぎしてたら
カリスマ映画論の睦月さんが、ジョシュ主演の「ホワイト・ライズ」もおススメですよ、という情報をくれたので
早速借りてきました。
こーゆーことにはかなりフットワークが軽いです(笑)
鉄は熱いうちに打て。。意味違いますか?
善は急げ。。。とにかく見初めたイケメンは逃しません。

物語は、はじめから観る者を混乱させ、不安にさせます。
声とホテルのカードキーだけを残して消えてしまったリサを探して、マシューはホテルを訪ねます。
カードキーで部屋に入ると、すぐさっきまで人のいた気配がある部屋の中には誰もいません。
部屋に残された手がかりを辿っていくと、リサの居場所はつかめるのですが
リサの姿はどこにもありません。
物語は事件へと発展するのか、どこへ私たちを連れて行こうとしてるのか、全く見当がつかないまま進んでいきます。

そして現れるひとりの女性(ローズ・バーン)。
自らを「リサ」と名乗る女性は、マシューの探していたリサとは別人です。
でも、彼女こそが。。。。。。

「ホワイト・ライズ」。。透明な。。悪意のない嘘。と訳すのだそうです。

人は恋をすると思いがけない行動に出るものなのかも知れません。
自分の恋が叶わないと知った時、潔く身を引いて相手の幸福を願うのか、
あるいは叶わなかった恋の相手をどん底に突き落とそうとするのか。

はじめは悪意のない嘘でも、
嘘はどんどん嘘を呼び寄せて膨らんで、人の人生まで狂わせてしまいます。
嘘をついたほうも自分のついた嘘に縛られがんじがらめになって、自分の心までズタズタにしてしまいます。
叶わない恋だと知った時、自分の心を封印してしまったことが間違いの始まりだったのかもしれません。

なにをどう書いてもこのせつなさは伝えられません。
これほどラストシーンが待ち遠しかった映画はありませんでした。
昔ならいざ知らず、
ケータイが普及したこの時代でも、ちょっとしたことで人との繋がりは途絶えてしまうものなのですね。
しっかりとつながれてると信じてる手も、するりと抜けてうっかり見失ったら、2度と会えない、ということもあるのかもしれません。
サスペンスか、と思った映画は、せつなくて、胸がしめつけられる恋の物語でした。
雪のシカゴの街の寒さが、消えた恋人のぬくもりを より強く求めさせているようでした。

ジョシュはここでも素敵でした。
ジョシュの甘くて どこか頼りなげな雰囲気とダイアン・クルーガーの凛とした美しさが、
いっそうせつなさをかきたてました。

 



 


プルートで朝食を

2006-12-26 | 洋画【は】行



アイルランドの小さな町の教会の前に捨てられたパトリック・キトゥン・ブレイデン(キリアン・マーフィー)。
教会の近くのブレイデン家の養子になった彼は、お化粧や綺麗な洋服が大好きな男の子に成長した。
彼を理解する友達はいても、キトゥンの個性は小さな田舎町におさまりきれない。
生みの母が住むというロンドンを目指して、キトゥンは旅立つ。
時はアイルランド独立闘争が激しかった頃。
アイルランドの若者達は革命とロックに夢中だった。

映画館で見逃してしまって、ずっとDVDになるのを待ってた作品です。
やっとクリスマスの深夜、借りることができて次の日まで待ちきれずにすぐに観ました。
もう日付は変わってクリスマスは過ぎていたけど、とても素敵なクリスマスプレゼントをもらったような気持になりました。

イギリスとアイルランド。
この二つの国には長い争いがあって、若者達は革命に命を燃やします。
そんな中、
男の子なのにお化粧が好きなキトゥンは「変わり者」のレッテルを貼られます。
キトゥンのよき理解者である幼なじみとも別れて、
誰一人知る人のない大都会でキトゥンは暮らし始めます。

いくつかの恋と別れ。
変質者に殺されそうになったり、仕事がうまくいかなかったり、
挙句の果ては爆弾テロに巻き込まれた被害者なのに、テロリストと間違われて誤認逮捕をされて
拷問までされてしまいます。

。。。なんて悲惨なストーリー。。。
でも、キトゥンの徹底的なポジティブさが全然悲惨さを感じさせません。
映画の中で使われる70年代のポップな曲の数々。
キトゥンが着る70年代の華麗な衣装。
そして幸せとはいえない境遇を生き抜くためにキトゥンが身に着けた知恵。
その知恵とは笑顔。
苦しい時、悲しいときを笑顔で過ごすことで、彼は自分自身を肯定し続けてきたのです。
だから何度も全てを失っても、自分を見失うことがなかったのです。
キトゥンの持つ柳のようにしなやかな強さと軽やかな生き方は、
とても小気味のいいものでした。

クリスマスの夜にやっと出会えたキトゥン。
予想以上の素敵な映画でした。
キトゥンのキラキラ輝く瞳はホントに天使のようで、何度でも会いたくなります。

「手元において何度でも観たい映画」のひとつになりました。





 






 


ブラックダリア

2006-10-18 | 洋画【は】行



元プロボクサーの警察官バッキー(ジョシュ・ハートネット)は、元プロボクサーの刑事リー(アーロン・エッカート)に引き抜かれてロス市警の特捜課に配属される。
リーと組んで捜査をすることになった矢先、若い女の死体が発見される。
死体は、いつも黒ずくめの服を着ていることから「ブラックダリア」とよばれていた女優の卵だった。
胴体を切断され、口を引き裂かれた無残な死体はマスコミの注目を集める。
捜査に加わることになったリーとバッキーは、「ブラックダリア」にまつわる謎を追っていく。

実際にロスで起こった事件を題材にジェームス・エルロイが小説にし、それを映画化したのがこの作品だ。

ずっと楽しみにしてたのに~
原作を読もうか迷って、迷ってるうちに公開になってしまったんで観にいってしまった私が悪いのか。
とにかく登場人物が多いのと、事件が「ブラックダリア」に関係あるもの、なさそうなもの、交差して出てくるので消化できないまま物語は進んでいく。

いちばん分からないのが、登場人物のキャラクターの描写。
なぜ「ブラックダリア」の事件にリーがあれほど執念を持つのかも分からないし
バッキーにいたっては二人の女の間をただフラフラしてるようにしか見えないし
それでも事件は最後になってバタバタっと片がついてしまう。
なんか中心が見えないような感じがするのだ。

だから2時間15分の間、
頭の中は????のまま、あの時代のロスの退廃的でクラシカルでゴージャスな雰囲気だけを観ていた。
期待しすぎて私が空回りしちゃったのか。そればかりでもないと思うのだけど。

さて、今日はたまったポイントの期限がもうすぐ切れちゃうので2本観るつもりで出かけた。
「ブラックダリア」が本命で、評判のあまり芳しくない「へイヴン~堕ちた楽園」は、自称オーリー応援団の義務として観ようかと思っていた。
でも本命が自分的にはこけてしまったので(爆)
2本ともこけたらせっかくの休日が無駄になってしまう。
ポイントも使わなきゃもったいない。ということで急遽「サンキュー・スモーキング」に変更することにした。
偶然だけど主演が「ブラックダリア」のリー役だったアーロン・エッカート。
こっちのほうがずっと面白かった。
やれやれ。。。。













 


ヒストリー オブ バイオレンス

2006-10-12 | 洋画【は】行



トム・ストール(ヴィゴ・モーテンセン)は弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)と二人の子供とささやかだが幸せな毎日を送っていた。
ある日、トムが経営するダイナーに二人組みの強盗が押し入る。
従業員と客を守るために、トムは強盗の銃を奪い二人を射殺してしまう。
この事件がテレビで大々的に放送され、トムは一躍町のヒーローになってしまう。
そんなトムを訪ねて怪しげな男(エド・ハリス)がやってくる。
フォガティと名乗る男はトムをジョーイと呼び、トムの暗い過去を匂わせるような話をする。
執拗に付きまとうフォガティから、子供と夫を守ろうとするエディに
「どうしてあんなに人を殺すのがうまいのか、ジョーイに聞いてみろ。」とフォガティは言うのだった。


驚くほど淡々と日常生活のように行われる暴力。
思わず目を背けたくなるような暴力。
暴力は連鎖し、新たな暴力を生んでいく。

人はどんな時に暴力を使うのだろう。
自分を守るため。誰かを守るため。相手が憎かったから。
いろいろな場合があるだろう。やむにやまれず暴力に走るということもあるだろう。
でももし、その暴力を自分の夫が過去に仕事にしていたらどうだろう。
夫の過去を知ったとき、妻や子供は受け入れることが出来るのだろうか。

子供と夫婦では違うのだろうと思う。
子供はやはり「血」で繋がってるから、父の過去に恐れを抱きつつも受け入れることが出来る・・というか受け入れざるをえないのではないだろうか。
夫婦は元々は他人。
一瞬でも信頼が崩れたら、やり直すことは難しいのではないだろうか。
しかも夫の暴力がほんの少しでも自分に向けられた瞬間があったとしたら、その恐怖がずっと頭から離れないような気がする。

家庭を守るために避けられない戦いに挑んだトムは、戦いに勝ち抜いて家に戻ってくる。
疲れきって帰ってきたトムの表情は静かだけど、元の田舎のダイナーの店主。には見えない。
ドアを開けて部屋に入ってきたトムを見つめるエディの目も、ガラス越しに他人を見ているような冷たさを感じる。
どんな暴力シーンよりも緊張した瞬間だった。

このあと家族はどうなるのか。
すべて観客に委ねられた形で終わってしまう。


1時間半という短い時間にいろんなことを考えさせられた映画だった。
無駄がなく密度の濃い1時間半だった。
「暴力」を描いてはいたけれど、その底には「夫婦の信頼」についても考えさせるものがあったと思う。

トムはアラゴルンと同じぐらい無口だったけど、絶対アラゴルンより強い。
強すぎる夫は家庭の中では脅威になる。











バタフライ・エフェクト

2006-09-18 | 洋画【は】行



エヴァン(アシュトン・カッチャー)は7歳の頃から時々記憶が欠落するブラックアウトという症状が出るようになる。
精神科の医師は治療のためにエヴァンに日記を書くことを薦める。
13歳になったエヴァンは悪友のトミー(ウィリアム・リー・スコット)とその妹ケイリー(エイミー・スマート),レニー(エルデン・ヘンソン)と一緒にある事件を起してしまう。
4人が起した事件は結局犯人がわからないままになってしまうのだが、4人の人生はその事件で大きく変わることになる。
しかしエヴァンにはその瞬間の記憶が全くない。
その事件で町の治安に不安を持ったエヴァンの母は町を去ることにする。
虐待傾向のある父や粗暴な兄と暮らすケイリーに心を残し、「必ず迎えに来る」という約束を残して町を去るエヴァン。

大学生になったエヴァンは記憶喪失になることもなくなり、ケイリーとの約束も忘れていた。
ある日、幼い頃の日記を見つけたエヴァンは、自分の欠落した記憶に興味を持ち始める。
そして、自分にある不思議な能力に気がつく。
日記を読むとその日記に書かれた過去に戻ることが出来るのだ。

映画のタイトルは、地球の裏側で蝶が羽ばたけば竜巻が起こる。というカオス理論を例えた言葉。
カオス理論とは、初期条件のわずかな違いが、予想もつかないほどの大きく違った結果を生む現象。

分かったよう分からないような、およそ私のチョイスとは思えない映画ではある。

誰だって1度は思ったことがあるのではないだろうか。
あの時こうしていれば良かった。
あの時別の道を選んでいたら、今とは違う人生があったのではないのだろうか、と。
そんなことを思うのは、不意に人生に陰りを感じた時だろう。
なにもかも順調な時は、そんなことは思わないものだ。
そんなことを思っても過去に戻ってやり直せるわけもなく、私達はただ今の状況で選べる最良の選択をして前に進むしかないのだ。

エヴァンの持っていた能力は、その不可能を可能にしてしまうことだった。
自分が約束を忘れて不幸にしてしまった初恋のケイリーの人生を幸せなものにするため、自分が失った記憶を思い出すため、彼は過去に戻って細工をしてしまう。
その結果、エヴァンとケイリーは幸せの絶頂を迎えるのだが、その幸せの絶頂の時にエヴァンがケイリーの兄を殺してしまう。
ケイリーの代わりに自分の人生が悲惨なものになってしまうのだ。

納得できないエヴァンは、また過去に戻り細工をする。
何度過去に戻っても、誰かが幸せになれば誰かが不幸になり、
皆が幸せになれば自分が不幸になる。
ケイリーと愛し合う幸せを体験してしまったエヴァンは、ケイリーが不幸になることも自分が不幸になることも耐えられないのだ。
愛する人が幸せになるためには、過去のどこに戻ればいいのか。
エヴァンは必死で考える。
そしてエヴァンがケイリーの幸せのために選んだ道は。。。胸が震えた。

良く考えればエヴァンはとてもエゴイストだし、多少の謎もあるのだが、
とてもテンポよく展開するので、とてもそんなことは考える余裕もなく
ただただ鳥肌を立てながら観ていました。(感動の鳥肌です)

DVDには別バージョンのラストシーンも2つ収録されていたのだが、やっぱり劇場版のほうがいいと思う。
別バージョンだったらエヴァンは全く学習能力のないただのアホだし、
人生ってそんなに何もかもうまくいかないものだと思うから。

過去は修正できないからこそ、今できることをきちんとやろうよ。
どんな過去でも、その過去が今の自分を作ったのだから否定は出来ない。ともいうけれど、
消してしまいたいような過去なんかないに越したことはないのだ。







 


ホテルルワンダ

2006-09-12 | 洋画【は】行



1994年、ルワンダでは長年争ってきたツチ族とフツ族の和平条約が結ばれようとしていた。
そんな矢先フツ族の大統領がツチ族に暗殺され、事態は一気に内戦へと突き進んでいく。
ルワンダの四つ星ホテルの有能な支配人ポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)も家族を守るため、隣人を守るため、ついにはホテルに逃げ込んできた1200人もの人々を救うため、命懸けで戦う日々が始まる。

何をどう書いたらいいのか。。。自分の無知と無関心が恥ずかしかった。

私達が目にする膨大な情報は、決して公平なものではなくあくまで偏ったものなのだ。

産油国の独裁政治には目くじらを立て、
100万もの人々が虐殺されても、黙殺する。
たぶん利害関係がないから。

いわゆる大国と呼ばれる国が見捨てた国のことはほとんど大きく報道されることはないし、
たとえ報道されたとしても、豊かな遠い国にいる私達は、一瞬目を留めて、「あら怖いわね」と言ってディナーを続けるのだ。
そして次々と放映される悲惨な戦場の映像にさえも、いつの間にか慣れてしまうのだ。
たとえその内戦の種をまいたのが、テレビの「こちら側」にいる植民地時代のベルギーの悪政だとしても。
安全で快適な「こちら側」から内戦を煽り、武器を売りつけて一儲けしようという国があったとしても。

知ったからといって何が出来るわけでもないけど、知らないよりはずっといい。
他国からの救援を断たれた人々が、自分達が知る限りの外国人に電話をかけて助けを請い脱出の機会を得ているし、日本で公開の予定がなかったこの映画も、ネットの署名活動で公開にたどり着いたいきさつがある。
一人ひとりの想いが重なって大きな力になることもあるのだ。

ぜひ1度は観て欲しい映画だと思う。
そしてエンドロールも最後まで。
このエンドロールに流れる「ミリオン・ヴォイセス」の歌詞が
ルワンダの人々、そして今、争いの起こっている国の人々の望みなのだと思う。


ヘイフラワーとキルトシュー

2006-09-10 | 洋画【は】行



優等生のヘイフラワーとちょっとわがままなキルトシューは仲のいい姉妹。
ジャガイモの研究に没頭するお父さんと、家事が全く出来ないお母さんとの4人家族。
家事が出来ないお母さんをカバーし、わがままなキルトシューを育て、この家は小さなヘイフラワーが支えている。
しかし、ヘイフラワーはもうすぐ小学校に入学する。
学校に行くようになったら、この家はどうなるのだろう。。。ヘイフラワーは心配でたまらない。

フィンランドの児童文学の映画化だそうで、どのシーンもポストカードにでもなりそうな可愛らしさ。
「かもめ食堂」でもフィンランドのシンプルでモダンなインテリアやファッションに釘付けになったけど、
同じフィンランドでもこちらはポップでカラフルでキュートで、ヘイフラワーとキルトシューの天使のような可愛らしさも加わってまるで童話の世界のようだ。

でも、つい可愛いことに目を奪われちゃうんだけど、ホントは「親のあり方」のようなものが焦点なんじゃないのかな。

家事はまるで駄目。自分は外で働くべき人間だと思い込んでる割には、仕事探しも身が入ってないようなお母さんと、自分の研究しか頭にないお父さん。
もちろん二人の娘を愛してはいるのだけど、どうも地に足が着いてないような頼りなさを感じる。
子供って親を選べないから。
そして選べない親だけど、絶対的に愛してるし、絶対的に絆が切れることはないから難しいのだろうね。

よそはよそ。うちはうち。変わった親も面白い。
そんな風に割り切れるのは大きくなってから。
小さいうちはお母さんの焼いたパンを食べてお父さんと遊んだりする普通の家庭が良く見えるのだろうね。

「神様。どうかうちを普通のうちにしてください」
と祈りながら、家庭を支える小さなヘイフラワーがいじらしい。

・・・そして爆発。

大人でも子供でも、そんなことってあるよね。
たまってた怒りや我慢が抑えられなくなることって。

「お姉ちゃんだから」しっかりして欲しいという親の気持ちも
「お姉ちゃんだから」我慢しなきゃいけない辛さや理不尽さも両方分かる年になった私だから、
子供だっていつもいい子ではいられない
というヘイフラワーの言葉にはうなずいたり、耳が痛かったり。

自分が親になったとき、特に胸をはれるようなポリシーも持たずに、なんとかその日その日をやり繰りして暮らしてきたのだけど、これだけは絶対しないようにしようと思っていたことがある。
お姉ちゃんだからという理由だけで、子供を押さえつけないこととご近所のお友達と比べないこと。
自分が子供のときに嫌だったことだから。
でも、自分が親になってみると良く分かる。
「お姉ちゃん」ってけっこう使い勝手がいいものなのだ。

爆発しないように気持ちを吐き出すところが誰にでも必要だし、身近な人の心の動きを感じられる心配りだけはたとえ家族という親しい仲にでも必要なものかもしれない。

日本の映画なら、ここでお母さんが良妻賢母になることを誓って終わったりするのかもしれないけど、
ちょっと違うところがお国柄なのでしょうか。
家庭の中で出来ないことは地域でカバーしていこうよ。という大らかさがなんともうらやましい。

可愛いけど、その底にちょっと痛いものをかんじた映画でした。

公式サイトこちらです。
あまりの可愛らしさに、つい貼り付けてしまいました。