<パソコン教室と料理教室の類似点>
パソコンのデータも、食べものの材料も、時の流れに沿って変化していきます。
自分で手をつけなければ、方向も見えて来ず、味もわかってきません。
だいじに貯めこんでおくだけのとき、流れるのは時だけになります。
素材に流れを作る能力を身につけさせるのが、教室の役割ではないかと思います。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
パソコンのデータも、食べものの材料も、時の流れに沿って変化していきます。
自分で手をつけなければ、方向も見えて来ず、味もわかってきません。
だいじに貯めこんでおくだけのとき、流れるのは時だけになります。
素材に流れを作る能力を身につけさせるのが、教室の役割ではないかと思います。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
教室の心地よさは、つながりの巧みさから生まれます。
そこで扱われるデータも、食材も、学びごとの部分でしかありません。
それ自体には、力も価値もありません。
それどうしが、どことどうつながっているか、順序と連携の確かさがだいじなようです。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
回転木馬は、同じところを回り続けます。
いま比べている教室も、常設の場合には、同じことを何度も繰り返し教えます。
その場所でぐるぐる回すには、ぐるぐる回すシステムが必要です。
しかし、そこを訪れ、楽しむ人には、システム構成の知識もシステムづくりの技能もいりません。
仕掛けがどうなっていようと、心地よく動いてくれればよいのです。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
はい、そしたらその次はと、むやみに先を急ぎすぎると、何をしてきたのかわからなくなります。
立ち止まったり、振り返ったりせずにせいては、心を置き去りにしてしまうからです。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
脱線が自由であること。
本当に便利に使えれば、あるいは本当においしいものができれば、どんな方法でも許されるでしょう。
脱線というのは、決まった位置にレールがあるからで、レールの位置を自由に動かせるなら脱線とは言いませんから、脱線が自由という言い方も、脱線寸前なのかもしれません。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
そこでは通常あたりまえのことしか教えません。
何かを作った大きな喜びは、あたりまえを乗り越えたところに生まれます。
教室での喜びは、その一つ手前のちょっと小高い、眺めのよいところです。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
そこで学んだ成果に、独創性の濃いものが生まれたとすれば、それは、帰ってからひとり静かにいるときのひらめきがもとということが多いようです。
教習課程では、方法を教えてくれますが、そこでは言われたとおりに手を動かすだけで終わっていますから。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
テキトウ、ウマクという言葉の意味が通じない人は苦労します。
何でもグタイテキにスーリョーカしてないと気が済まない、聞き取れない、読み取れない人は、匙加減を感じ取れません。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
上達の方法はたくさんあっても、そのうち一つしか教えてくれません。
登り口を見つけるきっかけは、一人ひとり違っているものです。
しかし、うまくいかないときは、才能のせいにして片づけられます。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
どちらも、仕上がりを確かめることがだいじ。
工程の途中で時間がきて、仕掛かりになるときの仮置きは、同じ場所で同じ目印に限ります。
仕掛かりをいくつも作ると、みな中途半端になってうまくいきません。
昨日までのことを保存しておいても、それを見る機会はほとんどなく、ゴミになるカノーセーチョーノーコーです。
今日のしめくくりをしっかり、完成しても途中でも、つくるものは一つだけ、過程の段階記録は無用です。
古いものはどんどん捨てましょう。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
どちらも道具が良くなければうまくいきません。
手入れの行き届いた、使いならした道具を持っていくのと、備え付けのなまくらを使うのでは、できあがりに至るまでの気分がまったく違います。
道具の手入れ方法まで教えてくれる教室がごく少ないところも似ているでしょう。
<パソコン教室と料理教室の類似点>
両方とも、マネごとから始めます。
ただ、いつまでも手本どおりのマネごとだけをしていたのでは、何も身につきません。
マネごとをずっと続けていれば、自分が何をすると見定めを付けることができずに終わります。
その人には、教室は、同じようなことをする仲間がいて時間を過ごすだけの場所にしかなりません。