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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.7 創成期のイケメン功労者&北の散歩道のルーツ

2014-11-02 13:02:10 | 郷土史エピソード

かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
今回は郷土史をテーマに、旭川の街を歩いたこの記事です。


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<私の好きな旭川~創成期のイケメン功労者&北の散歩道のルーツ>(2011年5月26日掲載)

まずはこちらの写真から!!
 


鈴木亀蔵(1851-1902)
 

どうですか、和服にシルクハットのおしゃれな姿!
甘いマスクで、なかなかのイケメンだと思いませんか。
旭川の歴史を勉強した方には、おなじみかもしれません。
鈴木亀蔵(すずき・かめぞう)さんと言います。

鈴木亀蔵さんは、明治のはじめ、秋田県から北海道に渡ってきた人物です。
はじめ千歳でサケ漁の仕事をしていましたが、当時はアイヌの人たちしか住んでいなかった旭川(当時は忠別)にしばしば来るようになり、交易を始めました。
そして明治10年、26歳のときに、今の石狩川と忠別川の合流地点付近に住居と店を兼ねた小屋を建て、定住します(異説もあるそうです)。
亀蔵さんは誠実な人柄で、妻も日高生まれのアイヌの女性でした。
このため、まわりのアイヌの人たちからは「亀吉(かめきち)さん」と呼ばれて親しまれたそうです。
 


亀蔵ゆかりの亀吉地区
 

今回、ワタクシがまず訪れたのは、鈴木亀蔵さんの愛称「亀吉」にちなんだ旭川市亀吉2丁目にある「亀吉公園」です。
 


住宅街の一角にある亀吉公園


公園に置かれている石碑


かなり痛んでいますが、写真付き!


石碑には「鈴木亀蔵居住の地」とありますが、実際に彼が小屋を建てたのは、石狩川と忠別川の合流地点の近くです。
ということで、実際に小屋を建てたと思われる場所に行ってみました。
それがこの写真!



鈴木亀蔵定住の地(石狩川・忠別川合流点付近)


ここらあたりか?


嵐山からみた石狩川・忠別川の合流地点(丸で囲ったあたりが亀吉定住の地?)



鈴木亀蔵さんは、旭川が発展するとともに事業(雑貨商)を拡大し、警察署の設置や忠別小学校(ワタクシの母校、中央小学校のもととなった学校)の開校に当たっては、多額の寄付をしたと伝えられています。
また明治23年には、札幌の実業家とともに旭川に酒造会社を設立します。
この会社は、現在、曙1条1丁目の日赤病院の向かいにある「日本醤油工業」さんのルーツとなった会社です(終戦間際に政府の指導で、お酒から醤油の醸造に転換したとのことです)。
ちなみに、この会社のトレードマーク「キッコーニホン」の「キッコー」は、亀の甲羅。
さすが亀吉さんゆかりの会社です。



日本醤油工業さん(歴史を感じさせます)


さまざまな記録によると、鈴木亀蔵夫妻は、自分たちの後に旭川に移住してきた人たちを温かく迎え、家に招いたり商売を助けたりして、面倒を見たそうです。
明治創成期の旭川の真の功労者と言えそうです!!



定住の地の近くにあった「亀吉の森(河畔林を利用した遊歩道)」


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続いては、こちらの写真を。



木立のなかの遊歩道 右の木はサクラ


自転車も通れます 



旭川の北星(ほくせい)地区にある「北の散歩道」です。
散歩やジョギング、サイクリングなどを楽しめる市民の憩いの空間です。



お孫さんと散歩中?


ただこの遊歩道、大きくカーブを描きながら、住宅街の真ん中を突っ切っています。
なぜ住宅街にこんな空間があるのかといいますと・・・、(旭川市民なら、お分かりの方も多いですよね)
ここは元鉄道の線路だったところを利用して作られた場所なんです!
その鉄道とは「大町岐線(おおまちぎせん)」。
大正5年に旭川区(今の旭川市)が作成した地図を見ますと、右下の鉄道の駅(近文停車場)から「第七師団練兵場(いまの自衛隊駐屯地)」に向かって、鉄道が敷かれているのがわかります。
これが「大町岐線」(4点6キロ・大町は地名)です。
 


大正5年の旭川の地図(ちなみに近文停車場の右の方に「亀吉島」と書かれています。これは前述の鈴木亀蔵由来の「亀吉地区」に当たります。当時は川に囲まれていたため〝島〟と呼ばれていたのです。本格的な河川改修が行われる前ですので、そうした〝島〟が市内各所にあるのがわかります)。


赤が、現在、北の散歩道になっている部分


わかりますか、車道と歩道に対し、散歩道が斜めに走っています



「大町岐線」の歴史を簡単に紹介しますと、作られたのは明治32年(旭川まで鉄道が開通した翌年!)。
当時、第七師団を札幌から旭川に移すことになり、建設に必要な膨大な量の資材などを運ぶため、まず線路を敷いたのです!!
建設用の木材は、愛別(あいべつ)や美瑛(びえい)の山で切り出し、石狩川と美瑛川を利用して旭川まで運ばれました。
そして「近文駅」裏の河川敷に陸揚げした後、「大町岐線」で沿線の製材工場に運搬して加工、さらに師団の建設現場まで鉄道輸送したそうです。
また工事に動員された職人や作業員は多い日で約6000人、完成までの4年間ののべ人数は100万人に達したとされています。
どれ位の大工事だったかがわかります!



第七師団の建設工事 


完成間近の第七師団(明治35年)


北の散歩道の終点(始点)、中央奥に自衛隊駐屯地のフェンスが見える


今も近くには木材工場の姿が



師団完成後は軍用物資の輸送とともに、主に沿線の製材工場のための木材運搬線として利用された「大町岐線」。
戦後も木材や石炭などの輸送に利用されましたが、昭和30年代には貨物の取り扱いを止め、50年代に入ると線路も撤去されて一部が「北の散歩道」として整備されました。
また終戦直後、占領軍が旭川に駐留した際も、この引き込み線を使って旭川入りしたと伝えられています。  

手持ちのものがなく、掲載できないのが残念ですが、航空写真で見ますと、近文駅から今の自衛隊駐屯地の手前まで、かつての「大町岐線」の跡がくっきりと残っていて、「へー」と感心することしきりです。
興味のある方は、ぜひインターネットの地図検索(航空写真も表示できるものが多い)で見てください!
歴史の痕跡を実感することができますよ!!




この広場は駅だった場所の跡


せせらぎのある一角も


旭町付近