もっと知りたい!旭川

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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.1  まぼろしの塔!?を追って

2014-09-14 09:49:36 | 郷土史エピソード


今回から従来の郷土史エピソードに加え、新しいシリーズをスタートさせます。
名付けて「アンコール・私の好きな旭川」。
これ、先日、閉鎖したワタクシの別のブログに掲載していた記事のうち、郷土史関係の記事を再構成して掲載するものです。

実は、別ブログの郷土史関係記事は、かなりの部分、既刊の郷土史本「知らなかった、こんな旭川」に反映させているのですが、「引き続きネットでも見たい」という声があり、こうした対応をすることにしました。

掲載にあたっては、旧ブログでの掲載日時を明記し、再構成をしたうえでアップします。
画像については、著作権の関係があり、記事によっては大幅に削除、または差し替えを行います。
このシリーズに関しましては、こうした事情をご理解の上、楽しんでいただければと思っています。
どうぞよろしくお願いします。

ということで、「アンコール・私の好きな旭川」の初回は、かつて旭川にあったシンボルタワー「大平和塔」について。
ワタクシがふるさと旭川の歴史に興味を持つきっかけとなった思い出深い記事です。


               ************


<私の好きな旭川④~まぼろしの塔!?を追って~>(2010年11月26日掲載)

皆さん!子供のころの記憶で、はっきりはしていないが、何となく頭に残っている光景(情景)ってありませんか?
小さなころの記憶がどの程度残っているのか、小学校高学年のころの自分の子供に質問をして確かめたことがありますが、住んでいた家や、通っていた幼稚園や保育園の特徴など、ごく幼いころでも、かなり正確な記憶を持っていて驚いたことがあります。

なぜそんなことを書き始めたかと言いますと、長年はっきりしていなかった幼いころの記憶の正体を、最近、やっと確かめることができたからなんです!!

それがこの写真です。


(写真①)

近所のお姉さんといっしょに写っているのは、2歳9か月のワタクシです!
撮影日は昭和35年9月8日(なんと50年前!!)。

撮影したのは父で、場所は実家裏の牛朱別川(うしゅべつがわ)の堤防です。
で、注目していただきたいのは、バックにある橋(緑橋)、のさらに後ろにあるタワー、というか塔なんです(わかりますか)。


(写真②)「日立テレビ」と書いてある

実はこの塔、小学校低学年くらいまでの記憶ではまさにこの写真の通りの位置(市立病院裏の空き地、遊び場でした)に建っていたはずなのですが、その後の記憶では、どう思い返してもその場所に塔の姿はありません。 
ですから、一時は「テレビで見た記憶と現実の記憶がごちゃまぜになっていたのかも?」などと思っていたのです。
ですが、今回、この写真が出てきたことで(実家で偶然見つけました)、記憶の通りこの場所に塔が建っていたことが確かめられました!


(写真③)実家裏から塔があったあたりを望むと、現在はこんな感じ(塔は↓のあたりか?)


(写真④)市立病院の裏の今の様子、塔はこのあたりに建っていたと思われる(当時は原っぱ)


ただ、長年のもやもやが解消された一方で、いったい誰が、いつ、何のために建てたものなのかなど、塔に関しては分からないことだらけ。
実は、調べていくと、意外?な事実が次々に分かってきたんです。

まずはこちらの写真を。


(写真⑤)「北海道開発大博覧会誌」(昭和26年)

これは昭和25年、開基60周年記念事業の一つとして、旭川市が道と共催した「北海道開発大博覧会」の記念誌です。
この記念誌に、塔の写真が載っていました。


(写真⑥)

宣伝の文句は入っていませんが、形は実家にあった写真の塔とまったく同じです!
実は、この塔、名前を「大平和塔」といって、博覧会のシンボルタワーとして、同じ年に建てられたものだったんです。
建てられた場所は、旭川市内の名所の一つ「ロータリー」(円形のいわゆるロータリー交差点。日本最大とされている)。
博覧会は「常磐公園」がメイン会場で、公園の脇にある「ロータリー」に、今でいう〝ランドマーク〟を設けた、というわけなんです。

当時、ロータリーは真ん中を電車が通るようになっていて、塔は線路をまたぐような形で設置されました(そのあたりの位置関係は、博覧会の案内図を見るとよくわかります)。


(写真⑦)道博の案内図(右下に塔が)


(写真⑧)現在のロータリー


ちなみにこの「北海道開発大博覧会」、当時の市の年間予算の3分の2に相当する1億5000万円が投じられ、40日間の会期中の入場者は延べ51万人を超えたということです。


(写真⑨)入場ゲートからみた平和塔


(写真⑩)


(写真⑪)


(写真⑫)絵葉書やおみやげ、マッチのレッテルなどにも塔の姿が


戦後まもない旭川で行われた一大イベントのシンボルとして建てられた「大平和塔」。

では、その後なぜ市立病院裏に移されたのでしょうか。
図書館に残っていた古い新聞記事などからその経緯も分かってきました。
かいつまんで説明しますと・・・、

① 塔は、本来、博覧会終了時に撤去する予定だったが、多額の費用(市費で120万円)をかけて建設したことからしばらく残すことになり、その後は、旭川名物の一つとなって市民に親しまれたため1年ごとに国の設置許可を更新していった。

② しかし戦後復興が進むにつれ、6方面から車が集中するロータリーの交通量が激増。国(開発建設部)から再三ロータリーの改造(道路部分の拡幅)を要請されたことから、昭和34年3月、市はついに塔の撤去を決めた。 

③ 一方、塔は昭和27年から日立製作所の広告塔としての役割も果たしていた(市に年間20万円の広告料を払っていた)。撤去後は、日立製作所が市から25万円で塔を買い取って継続利用することになり、市立病院裏に移設することになった。
 
④ 実際の撤去は、設置から9年あまり後の昭和34年11月25日から始まり、翌35年2月には市立病院裏への移設・復元工事が終了した。


                ★ ★ ★ ★ ★ ★


イベントのシンボルタワーとしての役目を終え、純粋広告塔として第2の役割を果たすことになった「大平和塔」。
「市立病院裏に移設された数年後、雷が落ちたため完全に撤去されたと聞いた」と話してくれた方もいるのですが、移設後の塔の消息について、私の調査ではまだ確たる事実はつかめていません。
(もしご存じの方がいましたら、ぜひご連絡ください!お願いします!!)。


(写真⑬)初夏の旭川の風物詩、北海道音楽大行進のスナップから(昭和32年)

最後に、この「大平和塔」が、10年にわたって旭川市民に親しまれていたことを示すエピソードが、ある本に載っていましたのでご紹介します。

「今、旭川市の空には朝な夕なに、日にいくたびとなく朗らかなメロディが響きわたっている。母の鐘である。この母の鐘の設置には女史(筆者注・佐野文子氏=旭川で、さまざまな社会貢献活動を行ったことで知られる。特に献身的に携わった戦前の廃娼運動は有名)の働きが中心であった」

「昭和二十七年女史は大阪市で開かれた保護司大会に出席、ここで『ミヲツクシの鐘』といって夜の盛り場で遊んでいる青少年に呼びかけ、母親たちの待つ温かい家庭を思い出させるというのを聞いた(中略)深く感動して、帰るやすぐに児童福祉協議会に申し入れ、仮称『母の鐘建設期成会』を組織、全市的活動となった」

「初めは夕方の五時と夜十時の二回であったが、三十三年に市内小中学校生徒の世論により朝五時と八時と正午を増して五回としたもので、設置当初は、ロータリーにあった平和塔の上にしつらえたのであった(中略)。市の時報として、潤いとして市民の中に溶け込んでいるが、何よりも青少年にやさしい母の声として呼びかけ、ここに十余年今後も永久に鳴りつづけることであろう」
(村上久吉著・旭川叢書第五巻「旭川の人びと」より・1971年)(筆者注・平和塔の撤去が決まった後、母の鐘は市役所屋上に移設)



(写真⑭)露店でにぎわう昭和通りからロータリー方向を望む(中央やや右に平和塔が)(昭和32年)


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「アンコール・私の好きな旭川」、次回は「大平和塔を追って」の続編、さらに続々編をアップします。お楽しみに!