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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

アンコール・私の好きな旭川 VOL.3 2・26事件をめぐる2人の将軍の娘

2014-09-23 07:05:40 | 郷土史エピソード


かつて別ブログに掲載していた記事を再掲載する「アンコール・私の好きな旭川」。
3回目は、旭川と関わっていた意外な人物達とその数奇な運命について紹介した長文の記事です。


                     ***********


<2・26事件をめぐる2人の将軍の娘>(2011年5月13日掲載)

今回も、まずはこちらの写真から!!



(写真①)



でっ、でかっ!!
思わずカメラを向けてしまいました。
実はこのクマ、どこに置かれているかというと・・・。



(写真2)



旭川の隣、上川町にある「環境省層雲峡ビジターセンター」でした!
層雲峡と言えば、スケールの大きな石狩川源流の渓谷と、野趣あふれた温泉で有名な大雪山観光の拠点です。
先日、およそ20年ぶりに訪ねてみました。




(写真③)ダイナミックな大函


(写真④)銀河の滝も見事


(写真⑤)層雲峡で見つけたもう一つの「層雲きょう」(おそらくは「そううんばし」)



この日は、昔と変わらない雄大な景観を堪能することができたのですが、実は郷土史にはまっているワタクシ、今回の訪問の真の目的も、ある歴史的なスポットを訪ねることだったのです。
それがこちら!!



(写真⑥)



建物は「旭川赤十字病院付属層雲峡診療所(すでに閉鎖。前身は昭和3年に建てられた陸軍の療養所=正式名称は第七師団衛戍病院層雲峡分院)」で、その脇に石碑が建っています。



(写真⑦)



療養所の開設に合わせて立てられたこの石碑。
碑文には、療養所の建設や層雲峡の開発に功績があったとして、その後、数奇な運命をたどる2人の軍人の名が刻まれています。

1人は、当時の第七師団師団長だった渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう、1874-1936)。
もう1人は、渡辺の元で第七師団参謀長をつとめ、歌人としても知られる齋藤瀏(さいとう・りゅう、1879-1953)です。




(写真⑧⑨)石碑に刻まれた2人の将軍の名前



石碑の建立から8年後の昭和11年、陸軍教育総監(陸軍トップ3の1人)に就任していた渡辺は二・二六事件で青年将校に襲撃され、殺害されます。
一方、齋藤は、青年将校を支援したとして軍法会議にかけられ、禁錮5年の刑を科せられます。
直截な言い方をすれば〝殺された側と殺した側〟に分かれてしまうのです。

かつては、ともに第七師団で北の守りに就いていた2人の将軍。
実は、後年、著名な功績をあげた女性を娘に持ったことでも共通しています。

このうち齋藤瀏の長女、齋藤史(さいとう・ふみ、1909-2002)は、現代日本を代表する歌人で、父の転勤に伴い、6歳から11歳までと、15歳から18歳までの計8年間を、旭川の師団官舎で過ごしています。
1回目の旭川滞在期間、史は第7師団の将校の子弟用に作られた北鎮(ほくちん)小学校に通いますが、同級生に、二・二六事件で処刑される栗原安秀(くりはら・やすひで、1908-1936)が、1級下に同じく死刑になる坂井直(さかい・なおし、1910-1936)がいました。

この頃のことを、史はこう回想しています。
「小学校は軍関係の者ばかりの、創立は皇后の御下賜金を元にしたという特別な学校でしたから、一クラス男女合わせて二十人前後、学校も一緒なら家でも遊び友達、一家そろってのつきあい-晩のご飯こちらで食べて帰ったら-という、家族のような、兄弟のような、そんな同級生に、栗原安秀がおりました。のちの、二・二六事件の栗原中尉です。そして下級生にはやはり同事件の坂井直がおりました」(「おやじとわたしー二・二六事件余談」より)



(写真⑩)齋藤瀏・史親子が住んでいた官舎があった場所(旭川市春光町)


(写真⑪)将校の子弟が通っていた北鎮尋常小学校(昭和8年)


(写真⑫)北鎮尋常小学校(右)と偕行社(左)(昭和8年)



幼友達が処刑され、父が収監された二・二六事件。
この体験は、生涯に渡り、繰り返し史の作品に現れます。
1980(昭和55)年に、53年ぶりに旭川を訪れた際は、層雲峡の石碑にも立ち寄って歌を残しています。


  おびただしき年の数すぎて事過ぎて先逝きびとの記念碑に逢う

  錆色の楢落葉積む 二・二六に殺されし錠太郎の名ある碑(いしぶみ)

  ゆくすゑを誰も知らねば渡辺・齋藤の名もつらねたり一つ碑の面に

  人の運命(さだめ)過ぎし思えばいしぶみをめぐるわが身の何か雫す

                     (齋藤史歌集「渉りかゆかむ」より)


一方、渡辺錠太郎の次女、渡辺和子さんは、現在84歳。
岡山県にあるノートルダム清心女子大学の理事長を務めています。
昭和2年に旭川で生まれた和子さんが、二・二六事件に遭遇したのは小学校3年生(9歳)の時。
自宅が青年将校の襲撃を受けた際、父と同じ部屋にいた和子さんは、父が殺害される現場を至近距離から目撃するという凄絶な体験をしています。

その後、18歳でキリスト教の洗礼を受け、アメリカに留学。
来日したマザー・テレサの通訳を務めるなど、宗教家、教育者として幅広く活動し、今も講演や著作活動などで多忙な毎日を送っています。

彼女は、旭川にも、講演などで度々訪れていますが、4年前には、やはり層雲峡の療養所跡を訪ね、石碑の前に立ちました。
(実は、先日も旭川に講演に来られ、その際、地元の関係者と会食したのですが、私も同席させてもらいました。ユーモアを忘れず、いきいきとふるまわれる姿に感銘を受けました!)。



(写真⑬)常磐公園を訪れた和子さん(後ろの石碑は、父が揮ごうした)



                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


旭川で交わり、数奇な運命をたどった2人の将軍と、それぞれの娘。
二・二六事件の関係者の中には、この他にも、旭川生まれで、栗原ら青年将校のリーダー格だった村中孝次(1903-1936)などがいます。
下の写真は、層雲峡の石碑訪問の翌日に訪れた旭川・春光台(しゅんこうだい)の様子です。



(写真⑭)かつての第七師団敷地を見下ろす春光台の丘



眼下には、住宅地が広がっていますが、かつては第七師団の施設や官舎などが並んでいました。
この日も、渡辺錠太郎や齋藤瀏、村中孝次らが利用した偕行社(将校の社交場、現在は旭川市彫刻美術館)の建物や、齋藤史、栗原安秀、坂井直らが通った北鎮小学校などを望むことができました。
北の地に足跡を残した人びとと、その後の運命に思いを馳せた2日間でした。



(写真⑮)春光台からみた旧偕行社


(写真⑯)現在の北鎮小学校


(写真⑰)春光台に残る軍の水道施設


(写真⑱)春光台に咲く水芭蕉


 







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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (北海道人)
2014-10-02 19:06:31
こんばんは
⑩と⑭の場所に行ってみたくなりました。
詳しい住所か目印、おわかりでしたらご教示お願いしたいのですが。
⑭は鷹栖神社境内?
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北海道人さんへ (那須)
2014-10-06 09:51:57
返信が遅くなり、恐縮です。
⑩は春光5条4丁目6ー14の
DZマート春光5条店の場所です。
⑭は春光台公園の中です。
江丹別通の右脇(春光町から見て)から撮影しています。
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Unknown (北海道人)
2014-10-09 16:42:38
DZマートが春光2区だったとは気づきませんでした。
春光台公園は、確か、その昔、自衛隊の演習地みたいな場所ではなかったかと思われます。
また、貴重ま写真、ご紹介いただけることを楽しみにしております。
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