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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

『ヤマニの兄貴』速田弘

2014-11-24 11:43:32 | 郷土史エピソード

今回は、「アンコール・私の好きな旭川」をいったんお休みにして、久々に新作の記事を掲載します。
旭川の歴史を調べていると、時折、「へー、こんな人がいたんだ」と思える魅力的な人物に出会うことがあります。
きょうは、そんなキラリと光る一人をご紹介します。


<カフェー・ヤマニとモボ速田>

まずはこちらの写真を。






昭和5年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


昭和5年、4条通7丁目にあった「旭ビルディング」から撮影したパノラマ写真です(大きく掲載するため2枚に分けて掲載しています)。
中央のタテの通りが師団通(今の平和通買物公園)、手前が4条交差点です。
そして交差点に面した8丁目左の角(今の「アピスビル」の位置)にある建物。
大正から昭和初期にかけて人気を集めたカフェー「ヤマニ」です。




カフェー「ヤマニ」


以前、このブログの記事(「ザ・ゴールデンエイジ前編」7月21日アップ)でも少し紹介しましたが、この「ヤマニ」の2代目経営者として活躍したのが、モダンボーイと称された速田弘(はやた・ひろし)です。

この人物、一介の飲食店経営者ではあるのですが、旭川の歴史について触れた本の中に幾度となく登場しています。
このうち旭川出身の作家、木野工(きの・たくみ)は、次のように書いています。




「旭川今昔ばなし」


「大正十二年には四条八丁目左一号、今の『たぬきや陶器店』のところに『バー・ヤマニ』が改装出現し、その隣り四条八丁目左二号には相次いで『アボQ喫茶部』が開業している」
「『アボQ』と『バー・ヤマニ』をやっていた速田さんは、いつも一時代先を見通していた新しい感覚の持ち主だった」(木野工「旭川今昔ばなし」より)

「ヤマニ」は、速田弘の父親、仁市郎(にいちろう)が明治44年に創業した食堂が前身です。
郷土史家の渡辺義雄さんの著書によりますと、「ヤマニ」は左1号側の食堂部分と左2号側の「ヤマニ旭館」に分かれていました。
このうち「旭館」は日本料理や仕出し、時には各種の催事会場として利用されていました(「街は生きている」より)。

その「ヤマニ」が改装してカフェーとなったのは、木野が書いているように大正12年のことです。
3条通7丁目の「ライオン」、3条通8丁目の「ユニオンパーラー」と並んで、旭川のカフェーの走りでした。

冒頭の写真と同じ場所から撮影した写真に、改装前の「ヤマニ」が写っています。
2枚を見比べますと、食堂からカフェーへ、華麗な転身だったことがよくわかります。






大正11年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


食堂時代のヤマニ


さて大正末期の旭川中心部に華麗に登場したカフェー「ヤマニ」ですが、とにかく次々と新機軸を打ち出して地元っ子を驚かせたようです。
その一つがこちら。




大正14年6月7日・旭川新聞より


大正14年の旭川新聞の記事です。
この年の3月、東京で始まったばかりのラジオ放送の受信免許をいち早く取り、市民に公開したのです。

さらにこちらの広告。




昭和6年3月19日・旭川新聞より


開業20周年(食堂時代も含め)にちなんだ連続企画をPRする広告です。
字面だけだとどのような内容の催しかはわかりませんが、客を飽きさせないさまざまな趣向が凝らされたようです。

こうした独自の営業活動の結果、「ヤマニ」は旭川でのトップクラスの人気店としての地位を固めて行ったわけですが、その立役者が弘でした。

弘本人については、かつて新旭川市史の編纂に携わった北けんじさんの著書に詳しく紹介されています。
そのなかで北さんが注目しているのは、彼の独特なPR力です。

「ちょっとその前に、コピーライターとしての速田弘に触れておきたいと思う。旭川新聞のコラム「赤い灯・青い灯」の一コマ・・・
○…ヤマニの兄貴速田君は、旭川カフェー営業者仲間でも年少者であり、モダンボーイであり???であるが、彼氏仲仲営業にかけては熱心だ。
○…本誌の広告文案のヒントを得るに寝食を忘れて苦心するそうナ。かくして『ヤマニの女子は人殺し女子云々』のめい文が生れる。彼氏はかやうなめい文を連発してカフェー党を嬉しがらせ誘惑し、自己陶酔してゐる。(旭川新聞・昭和6年5月16日)(中略)
とあるように、当時のカフェーの広告では一頭地を抜いている。エロ・グロ・ナンセンス プラス テロの時代の申し子というべき見事なコピーである。現在においてさえ衝撃であるかもしれない。それ程に切れ味がよく小気味いい。時代の先端を走っていたように思う」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

ここで「ヤマニの女子は人殺し女子云々」とあるのは、昭和6年5月2日に旭川新聞に載せられた広告を指しています。




昭和6年5月2日・旭川新聞より


なるほど「何事か」とつい目を止めてしまう広告です。
カットの下には「ヤマニの兄貴作品№56」と記されています。
コピーだけでなく、カットも自作、さらに「ヤマニの兄貴」という呼び名も自称だったのかもしれません。

ちなみに同時期、同業他社もさかんに新聞広告を出していますが、どれも個性に乏しく、「速田作品」の独自さが際立っています。




昭和6年10月4日・旭川新聞より


昭和6年5月3日・旭川新聞より


昭和6年5月13日・旭川新聞より


さらに速田がヤマニの喫茶部として開業した「アボQ」についても、北さんは旭川新聞を引きながら、そのネーミングセンスに感心しています。

「ヤマニの隣りに黄を基調とした原色塗りの甚だモダンな建築の出現に道行く人は『薬屋でもできるンだろうか』といぶかんだという。そして大きな立て看板に『アボQ』とあるのでますます首を傾げて行人は、頭上の吹き出しの中に『?(ハテナ印)』をシャボン玉のように連続して飛ばしはじめる。そして、ここで『アボQ』なるネーミングの秘密が明かされる。A.B.Cuoというローマ神話のなかの幸福(殊に恋愛)の神なのだそうだ(中略)。
『アボQ』はローマ神話のなかの愛の女神の名前をちょっと怪奇性を加えてもじったものだったのである。名付親のモボ速田弘は客に『アボQ』の由来を訪ねられても明かさず、ただただ莞爾としていたことだろう」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

ちなみに、この「アボQ」については、北さんも紹介している昭和4年の旭川新聞のコラムに写真が載っています。




旭川新聞「街のスナップ」(昭和6年5月13日)


この写真を手掛かりにして探してみますと、ありました!
冒頭に掲載したパノラマ写真の中に喫茶「アボQ」も写っています。




昭和5年の4条十字街(旭川市中央図書館蔵)


(同上)アボQと書かれた文字も見える


こちらの絵葉書には派手な看板が写りこんでいます。



昭和4年当時のヤマニ(絵葉書)


拡大すると、店の前に「アボQ」の看板が


支那そば、志るこ、ランチ、コーヒーなどの文字が見える



<幅広い人脈とヤマニに集う人々>


さて新進気鋭のカフェー経営者として独自の足跡を残した速田弘ですが、幅広い人脈を持っていた人物でもあったようです。
有名なのが、速田と、同時期に活躍した建築家、田上義也(たのうえ・よしや)との関係です。

田上は帝国ホテルを設計した名建築家、ライトの弟子です。
大正12年に北海道に渡り、以来、北海道の風土に根差した数々の優れた建築を道内各地に残しました。




田上義也


田上の研究者である北海道大学の角幸博名誉教授によりますと、このうち旭川で田上が手掛けた建物は4棟に及びます.
そのうちカフェー時代の「ヤマニ」、「アボQ」、そして昭和8年開店のカフェー兼レストラン「パリジャン・クラブ」の3つが速田弘の経営です。

こうした2人の深い関係については、音楽を通した交流が契機となっているというのが通説です。
実は、速田はチェロ奏者として地元の音楽グループ(大正10年結成の「旭川共鳴音楽会」)に加わっていた経緯があり、田上も建築家としてだけでなく、バイオリン奏者としても活発な活動を行っていました。

さらに2人の共通の知人だったのが、当時の北海タイムス旭川支局長だった竹内武夫(たけうち・たけお)です。
北さんは、次のように書いています。
  
「竹内武夫も音楽通であり、招魂社音楽大行進も町井楽器店主の町井八郎と相談しながら実現したもので(中略)、竹内、田上、速田の三人は音楽を通じて知り合った仲であったようだ」(「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

また当時「ヤマニ」や「アボQ」は、地元の若い芸術家のたまり場にもなっていました。
資料を拾ってゆきますと、速田弘とこうした若者たちとの交流ぶりを垣間見ることができます。
その一つがこちら。




大正14年5月6日・旭川新聞より


桜の季節に合わせて行われたカフェー「ヤマニ」のイベント、「夜桜デー」の案内です。
どうやら凝ったカラクリ装置を用意し、お客を楽しませたようなのですが、ここに「装置監督」として名前が上がっているのが、このブログではおなじみの画家、高橋北修(広告では北州となっている)です。

北修は東京での絵の修業時代、看板描きや舞台装置作りのアルバイトをしていたことがあり、その経験を買われたのかもしれません。
何事にも凝り性だったと伝えられる北修、夢中になって装置作りに励んでいる姿が目に浮かびます。




高橋北修


さらに小熊秀雄や今野大力らとも交流のあった地元ゆかりの詩人、小池栄寿(こいけ・よしひさ)が残した文章「小熊秀雄との交友日記」には、「ヤマニ」に集う若者たちの様子が生き生きと描かれています。

「(昭和二年)四月二十三日。午後七時、ヤマニ階上の文芸座談会(北海日日主催)へ、三十名位集まる。松崎豊作、藤田みはる等の猛者と、鈴木、小熊君との間に激論つづく。帰旭以来、初めて小熊氏に逢ふ。記念撮影、詩の朗読、短歌朗詠、寄せ書きなどして散会」
「六月二十八日。永井郁子女史の邦語歌詞独唱会、七時から商工会議所。九時終り。小熊氏、沢井一郎氏と師団通りへ。第二神田館前でソーダ―水。『ヤマニ』で生をやってゐると黒色青年聯盟の連中が入ってきて、新聞を悪く云ったがすぐ小熊さんと仲よくなる」(注・黒色青年聯盟はアナキストのグループ。新聞は当時小熊が勤めていた旭川新聞のこと)
「(昭和三年)三月三十一日。今野紫藻君が午後三時十分で上京す。師団通りで林檎五十銭を買って見送る。遅れそうになって走る。ようよう間にあう。小熊氏と塚田君が来ていた。帰りヤマニでコーヒー」(注・今野紫藻は今野大力のペンネーム)(いずれも「小熊秀雄との交友日記」より)

ちなみに、昭和2年6月の記述に関しては、酔った勢いでビールのコップを床にたたきつけるなどして騒いでいたアナキストたちが、店内で小熊を見つけ、「新聞はうそを書く」と言って絡み始めたのだそうです。
小熊はニコニコと笑って受け流していましたが、その後、リーダー格の男が出てきて仲間を静め、「いずれゆっくりとお話ししましょう」と丁寧に挨拶をして出て行ったとか。
映画のワンシーンのようなこの場面、もしかしたらその場に店主、速田弘も居合わせていたかもしれません。




小熊秀雄



<挫折と復活>


斬新な経営感覚とマルチな才能、広範な交友関係を武器に、大正から昭和にかけての旭川に新風を吹かせた速田弘ですが、その後は苦難の日々が続いたようです。

昭和8年、速田は満を持して新店舗「パリジャン・クラブ」の経営に乗り出します。
「パリジャン・クラブ」は、喫茶、レストラン、カフェの3つを合わせたようなコンセプトの店で、4条通7丁目右の仲通り、花月会館の向かいにありました。
田上義也が設計した建物自体も、正面左手にガラス張りのらせん階段、その上に飾り塔が付いた斬新なものでした。




旭川新聞「パリジャン・クラブの広告」(昭和8年6月2日)


しかし昭和6年の満州事変の勃発以降、中国での戦線は拡大を続け、時代は急速に質素、倹約が尊ばれる風潮に覆われてゆきました。
昭和9年2月、速田は父の代から続いた「ヤマニ」を閉店し、「パリジャン・クラブ」一本に絞って経営の立て直しをはかりますが、事態が好転することはありませんでした。

「昭和9年12月2日、速田弘は不景気のため経営困難に陥り数千円の負債を抱えて二進も三進も動きが取れず、三階の寝室でカルチモンをのみ自殺を図ったのである。医師の手当てによって一命は取り留めたものの、『パリジャン・クラブ』は休業状態に入り、やがて『パリジャン・クラブ』は山崎精軒商店の手に落ち、貸家として新聞の案内板の一隅を飾るという運命に陥ったのである」(北けんじ「詩人下村保太郎素描+旭川茶房の歴史異聞―聖地巡礼―」より)

大正から昭和にかけ、旭川の一等地、4条十字街界隈を舞台にした速田の「冒険」は、このように終わりを迎えます。
では事業家、速田は「死んでしまった」のか。
実はその後の彼について、木野工が意外な事実を伝えています。

「結果から見ると、(速田弘が)旭川で創めた新感覚の事業は、時代を先取りし過ぎていて全て失敗した。しかし風俗文化の道を拓いた人であった。その精神が戦後の東京で花を咲かせ『シロー』という高級クラブ・チェーンをつくり上げた。『シロー』は最初、銀座の交詢社ビル地下に開かれたが、古風ながら重厚なビルのイメージが『シロー』のイメージに重なり超高級バー(クラブ)として凡百の飲み屋を蹴散らし、銀座繁華街を席巻した、いまは、フリーの客が自由に入れても、多少高級なバーは全て『クラブ』だが、この風俗営業『クラブ』を定着させたのは速田さんである)」(木野工「旭川今昔ばなし」より)

なんと速田の「冒険」は第2章があったというのです。
しかも成功譚として。
この記述については、北けんじさんも「木野工は北海タイムスの東京本社にいたのであるから、『シロー』チェーンの情報はほぼ間違いがないであろうと思う」と書いています。

その見方をさらに裏付ける資料を見つけましたので、ご紹介します。




銀座年鑑


昭和30年版の「銀座年鑑(銀座タイムス社)」です。
中にある店舗名簿に木野が触れていた速田の店「シロー」が載っていました。
しかも「チェーン」の記述の通り、「日動シロー(銀座5条1丁目)」、「クラブ・シロー(同8条2丁目)」「バー・シロー(同8条2丁目)」「カジノ・シロー(同6条4丁目)」と4店も。




「銀座年鑑」より


このうち「日動シロー」の「日動」は、今も銀座にある有名な画廊、「日動画廊」と同じく、入居していたビル(日動海上ビル)から来ていると思われます(住所が同じ)。
また「カジノ・シロー」は、木野が書いていた「交詢社ビル(交詢社は福沢諭吉が提唱して結成された日本最初の実業家の社交クラブ)」と同じ住所です。

さらに昭和31年発刊の同じ銀座タイムス社の「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」には、こんな下りがありました。

「銀座会館、グランドパレス、アスターハウス、クラウン、日動シロー、キャンドル、美松などの一流どころから、一軒の小さな店を階上、階下、或は一階と地階にわけて営業しているささやかなバーに至るまで、銀座のカフエー、バーは。いずれも客の好みや、ふところ具合などでそれぞれ繁盛しているが・・・」(銀座タイムス社「銀ぶら讀本 巻の1 遊びの知識」より)

一方、「銀座年鑑」に戻りますと、当時銀座にあった業界団体の紹介ページにも速田弘の名前がありました。




「銀座年鑑」より


銀座ソシアルサロン組合」は、昭和4年に結成された銀座のクラブやバー、キャバレーなどで作る業界団体で、現在も社団法人「銀座社交料飲組合」として活動しています。
日本の盛り場の頂点に立つ銀座、その業界団体の副組合長となれば、経営者としてしっかりとした実績と経験に裏打ちされて初めて就けるポストと推測できます。

速田弘が、どのような経緯で東京銀座に進出し、成功をおさめたかはわかりませんが、旭川時代に垣間見せた時代を先取りする感覚や幅広い人脈を支えた人柄をかけて勝負に出たことは間違いないと思います。

旭川を振り出しに、挫折を乗り越え、大逆転勝利を収めた速田弘。
やはり痛快な人物です。



<最後に ~彼こそが速田弘?~>


旭川の街の歴史に中に、確かな足跡を残している速田弘ですが、実ははっきりと本人と確かめられた写真を見たことがありません。
そんな中、彼が写っている可能性のある写真がありましたので、最後にご紹介します。




「旭川市回顧録」より


少し緊張した面持ちの男たち。
左上の看板には「旭川共鳴音楽会事務所」の文字があります。
前年の市制施行を記念して発行された「旭川市回顧録」(大正12年1月)に掲載された写真です。

前にも触れましたが、「旭川共鳴音楽会」は、大正10年7月、医師である北村誉造を中心に結成された地元の音楽愛好家によるアンサンブルで、速田もチェロ奏者として参加していました。
「旭川市回顧録」には、会員の名前が挙げてあり、速田の名前も書かれています。




「旭川市回顧録」


ではどれが速田なのか。
北けんじさんの著書によりますと、速田は昭和4年の時点で23歳とありますので、「旭川市回顧録」が出版された大正12年では16歳か17歳。
チェロも持っていることから、一番若く見える前列左から2番目の人物が彼である可能性が高いように思われます。

ただこの集合写真に速田が加わっていない可能性もあり(写真のメンバーは9人、記事に載っているメンバーは13人)、断定はできません。
もう少し早く調べることができていたら、「これが彼」と教えてくれる古老が旭川にも残っていたかもしれません。
まことに残念です。




彼が若き日の速田弘?



旭川新聞「旭川共鳴音楽会が出演した演芸大会の広告」(大正14年10月23日)




(追記・2014年12月10日)


その後の調べて、速田弘の自殺未遂を伝える昭和9年12月8日の旭川新聞の記事に、本人の顔写真が掲載されていることが分かりました。



昭和9年12月8日の旭川新聞の記事


速田弘の写真



「一番若く見える前列左から2番目の人物が彼である可能性が高いように思われます」と書きましたが、この写真をもとに「旭川共鳴音楽会」の集合写真を改めてチェックしますと・・・。



「旭川共鳴音楽会」の写真(「旭川回顧録」より)


いました。
後列の左側にいる人物、メガネはかけていませんが、まず同一人物と見て差支えないと考えます(前列左から2番目の人物は別人ですね。私の推測はハズレでした。申し訳ありません)。



2つの写真を並べると


旭川を代表するモボ=モダンボーイと呼ばれた速田ですが、外見は割と地味(老け顔?)であったことが意外です(新聞記事掲載時で28歳、「共鳴音楽会」の写真掲載時で16~17歳)。
ただそれでも本人の姿が特定できて、まずは一安心というところです。

なお昭和9年の旭川新聞には、速田の自殺未遂やその後の境遇についてかなり詳しく記事にされています。
当時の旭川で、速田弘がどれだけ有名であったのか、この記事からもわかるような気がします。










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2 コメント

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はじめまして (“ちぃさま”)
2016-03-06 08:21:55
旭川出身の札幌在住者です。 【HO】の旭川特集を買いますが、昨年の特集でカフェヤマニがあまりに衝撃で、速田弘のその後が気になって気になって検索し、こちらのブログ拝見しました。速田氏の銀座進出は更なる衝撃でした。その後旭川の博物館でヤマニの模型を見つけて興奮したものです。旭川に帰る度に寂しくなっていく買物公園ですが、往時の賑わいを想像してみたりしていました。私も郷土愛が強いつもりなんですが、那須様の存在を知り驚くと共に敬服しております。プロフィール拝見すると私の高校の先輩なんですね!勝手に大師匠とよばせていただいております。ご挨拶まで。
返信する
コメントありがとうございます (那須敦志)
2016-03-07 08:51:23
〝ちぃさま〟様

コメント、ありがとうございます。
ヤマニの兄貴こと速田弘に興味を持っていただくのは、私としても嬉しい限りです。
銀座に進出してからの速田のことを追っているのですが、なかなか進んでいません。
また新たな事実をつかむことができましたら続報を載せたいと思います。
引き続きよろしくお願いします。
返信する

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