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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

旭川初の野外劇

2015-08-07 19:18:21 | 郷土史エピソード

以前このブログで、昭和40~50年代に常磐公園で行われた野外劇について書きましたが、それよりもはるか昔の大正時代、同じく常磐公園を舞台に野外劇が上演され、大喝采を浴びていたことが分かりました。
今回は、当時、人気絶頂だった喜劇役者一座による旭川初の野外劇についてご紹介します。


             *************


<喜劇王、曾我廼家五九郎>


まずは、こちらの写真を。



(画像①)曾我廼家五九郎顕彰碑


東京浅草、観光客でにぎわう浅草寺の境内にある、地元ゆかりの喜劇人の顕彰碑です。
喜劇人の名前は、曾我廼家五九郎(そがのや・ごくろう)。
明治9年、徳島県生まれで、川上音二郎らの壮士芝居の一座を経て関西の喜劇役者、曾我廼家五郎の門下に入り、五九郎を名乗りました。
その後、明治40年代に独立して東京浅草に進出、昭和15年に死去するまで喜劇界の第一線で活躍しました。



(画像②)同上の写真アップ


顕彰碑には、絣の着物に羽織、チョビ髭にハイカラ帽子姿の男が描かれています。
当時、新聞に掲載され人気を博したコマ漫画の主人公「ノンキナトウサン」です。
大正14年に映画化され、五九郎が主人公のトウサンを演じて大ヒットとなりました。
当時は「ノンキナトウサン」を略して「ノントウ」と呼ばれたそうです。



(画像③)大正時代の浅草六区・五九郎の幟が見える(絵葉書)


(画像④)現在の浅草六区




<旭川初の野外劇>



その喜劇王、曾我廼家五九郎が、大正13年夏、旭川にやってきます。
7月1日からの函館を皮切りにした北海道巡業の一環でした。
23日付の旭川新聞はこのように伝えています。

本社主催で一般に公開 曾我廼家五九郎の野外劇
来る二十五日午後四時から 公園池の端で開演の予定

喜劇界の大立物曾我廼家五九郎一行の来演を好期として本社主催の下に旭川に於ける最初の試み『野外劇』を常盤公園に於いて挙行すべく目下準備中であるが、既報の如く『月給日』一幕を公園の風景を背景として演出し公開するもので、無論一銭の料金も要せぬものである。開演期日は来る二十五日午後四時、場所は公園池の端築山の予定で、小高い所で演ずるのであるから多数の人々が見物する事が出来るのである。尚当日雨天の際は一行が旭川に於いて開演中好晴の日を選んで延期開演するのである。開演の日は朝から花火を打ち上げ又開演の合図も花火を以てする事となっている。」

公演の主催が当の旭川新聞とあって、記事にも力が入っているようです。
旭川新聞は翌24日にも広告を出すとともに、函館巡業の際の一座による野外劇の写真を掲載しています。



(画像⑤)野外劇の広告(旭川新聞・大正13年7月24日)


こうした前宣伝の成果もあって、当日は公園に2万人もの市民が詰めかける盛況ぶりでした。

人気高潮に達す 本社主催五十九郎一行の野外劇
公園の会場に殺到せる民衆2万悉く笑殺さる

本社主催民衆慰安の五十九郎劇一行野外劇は既報の如く昨日午後四時から常盤公園池畔芝山に於て公開した。(中略)会場には本社の社旗と五九郎の大幟がヒラヒラと翻り舞台となる池畔小高い所の四阿(あたり)に紅白の幕を張り一方本社の幔幕張った天幕との二ケ所が楽屋とした。(中略)観衆は正午すぎる頃から早くも公園目がけて繰出して時半ばには既に舞台正面と言うべき広場より頓宮境内は立錐の余地なく殊に池のボートは全部観衆買切り・・・(中略)野外劇『月給日』は既報筋書の如くであるが嘗て伏見宮邸にて演じ各宮殿下の台覧を仰いだ由緒ある喜劇で配役は左の如くであり五時弐拾分二万余の観衆を笑殺し拍手喝采裡に大成功にて演了した。此の催しのため師団道路筋は時ならぬ雑踏を呈した。」(旭川新聞・大正13年7月26日)

さらに翌27日には、公演の模様を写した写真(しかも3枚!)が掲載されています。
新聞の保存状態が悪く、ごらんのような不鮮明さですが、記事の様に大勢の市民が詰めかけている様子が確認できます。



(画像⑥)新聞に掲載された野外劇の写真(旭川新聞・大正13年7月24日)


この五九郎一座の野外劇、当時3条通15丁目にあった劇場「錦座」で行われた公演(こちらは木戸銭を取っての舞台)のPR的な意味合いが強かったようです。
初日となる26日付の旭川新聞にはその演目や料金を記した広告が載っています。



(画像⑦)錦座の広告(旭川新聞・大正13年7月26日)


野外劇に続き、錦座での公演も大入りが続いたようで、26日から最終日の30日まで途中演目を一部変えながら熱演が続きました。
なお29日の旭川新聞の記事では、五九郎一座が、地元の劇場のチームと常磐公園で野球の試合をしたことを伝えています。
巡業で長旅の続く座員の気分転換を兼ねたPR策の一環だったのかもしれません。



(画像⑧)大正時代の常磐公園



<大物演劇人が続々>



ところで、あまり知られてはいませんが、大正時代の旭川には、曾我廼家五九郎だけではなく、歌舞伎から新劇まで数々のビッグネーム=大物演劇人がやってきて舞台を披露しています。
ざっとあげますと・・・。

大正2年9月 6代目尾上菊五郎一座 佐々木座
大正3年9月 芸術座(松井須磨子・島村抱月) 佐々木座
大正4年3月 川上貞奴一座 佐々木座
大正9年9月 2代目市川左団次、7代目松本幸四郎一座 錦座こけら落とし

面白いのは、須磨子と貞奴という高名な2人の女優が相次いで旭川を訪れている点です。
旭川の演劇史に詳しい北けんじさんは、当時の新聞を紹介したうえで、このように評しています。

「嘗て新しいと云ふ寝耳に水の様な声に驚かされて芸術座のカチューシャを観た時は多くの顔が失望の色を浮かべてゐた。正月の芝居が沈み勝に過ぎた今日、早くも雪解けの長閑さを味わふかの様に待ちわびてゐた貞奴一座が佐々木座に来ての初日は素晴らしい人気であった。マダムの指は未だ痺れるには間がある。夫れに時代劇の八犬伝黒田高楼は旭川唯一の観劇趣味に投ずるに足るもので女装の犬坂が凛として決心を見せる処は拍手喝采。無論対牛楼の大立回りは涙を流して喜ぶ者もあった。(後略)(『北海タイムス』大4・2・3付)
とある。つまり、松井須磨子の芸術座は旭川の観客には高尚に過ぎて退屈してしまったようだが、マダム貞奴一座の『八犬伝』の大立回りは旭川の観客には理屈抜きで面白い芝居に映ったということのようである。新劇のもってまわったような科白にはついていけない、正直な観客層だったともいえる。しかし、こんな演劇もあるのだという認識は植え付けられたという意味で画期的な公演だった。」(北けんじ「旭川演劇百年史」=「旭川市民文芸 旭川文芸百年史」内掲載より)


(画像⑨)松井須磨子(1886-1919)


(画像⑩)川上貞奴(1871-1946)



名優、菊五郎、左団次、幸四郎が珠玉の芸を披露し、須磨子・貞奴は〝競演〟を見せ、そして喜劇王「ノントウ」五九郎が常磐公園に集った観客を沸かせた大正の旭川。
顔ぶれの豪華さという面では、現代より恵まれていたといえるかもしれません。



(画像⑪)佐々木座







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