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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

「旭川歴史市民劇」解説⑩ エピグラフ

2019-02-04 19:00:00 | 郷土史エピソード
2020年公演予定の歴史市民劇「旭川青春グラフィティ ザ・ゴールデンエイジ」の解説編。
今回は、最終回。
各場面の冒頭にカフェー・ヤマニの女給たちによって朗誦される引用句=エピグラフについて紹介します。



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<エピグラフとは>

小説などで、巻や章の初めに添える引用句のこと。
今回の戯曲では、旭川にゆかりの深い文学者の詩や文章を紹介するため、それぞれの場面の初めに、朗唱することにしている。



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「我が願ひ」 今野大力

今野大力は、旭川郵便局に勤めた大正10(1921)年ころから詩作を始め、雑誌や新聞などに投稿するようになる。
「我が願い」は、その最も初期の作品の一つ。
同じ年の4月22日付の北海日日新聞に掲載された。
時に大力17歳、進むべき道はまだ定まっていないが、前を見据える目はまっすぐである。


今野大力



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「無題(遺稿)」より 小熊秀雄

昭和15(1940)年11月20日に亡くなった翌月、雑誌「現代文学」に掲載された小熊秀雄の遺稿。タイトルは付けられていない。昭和42(1967)年に常磐公園に設置された小熊の詩碑には、親交の深かった詩人、壺井繁治<つぼい・しげじ>の揮毫によるこの詩が刻まれている。


小熊秀雄



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「片恋<かたこい>」 北原白秋

白秋は、数多くの詩、短歌、童謡で知られる明治18(1885)年、熊本県生まれの文学者。
旭川には、大正14(1925)年8月、詩人仲間との樺太旅行の帰りに、弟子に当たる酒井廣治<さかい・ひろじ>を訪ねて滞在している(実際には、この時、酒井は札幌に入院中で、かわりに齋藤瀏<さいとう・りゅう>らが接待に当たった)。
「片恋」は、明治42(1909)年、白秋25歳の時の作品。
第3詩集「東京景物詩及其他」に収められた。合唱曲としても知られている。


北原白秋



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「おやじとわたし―二・二六事件余談」より 齋藤 史

「おやじとわたし―二・二六事件余談」は、昭和54(1979)年2月、史がNHKのラジオインタビューのために用意したメモをもとに書き下ろした手記。
翌年刊行されたエッセイ集「遠景近景」に収録された。
エピグラフとして引用したのは、幼馴染の栗原安秀<くりはら・やすひで>ら青年将校が決起した二・二六事件直前の頃の史の心境を綴ったくだり。


齋藤史



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「あぱあと」 鈴木政輝<すずき・まさてる> 

昭和12(1937)年刊行の詩集「帝国情緒」に載せられた作品。
昭和3(1928)年、政輝は、上京した小熊秀雄夫妻と、やはり詩人仲間であった今野大力とともに巣鴨で共同生活を送るが、すぐに別れて本所3丁目の材木屋の2階のアパートに移る。
この詩の舞台でもあるアパートには、交流のあったのちのノーベル賞作家、川端康成<かわばた・やすなり>も訪ねてきたという。



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「旭川」 百田宗治<ももた・そうじ> 

百田宗次は、大阪市出身の詩人、児童文学者。
「どこかで春が」など童謡の作詞でも知られる。
「旭川」は、昭和11(1936)年6月、旭川を訪れた百田が、地元の詩人との交流会の席で請われて作った即興詩である。
百田は、東京大空襲で焼け出された後、交流のあった詩人、更科源蔵<さらしな・げんぞう>の支援で北海道に疎開。
3年間札幌に住み、道内各地を訪ねた。
特に親交が深かった住職が住んでいた愛別町安足間<あんたろま>には定住を考えた時期もあったという。
またこの時期、百田は請われて道内各地の小中高校の校歌を作詞しており、旭川では、昭和22(1947)年に、市立中央小学校(昭和45年に統合され、知新小学校となる)の校歌を手掛けている。



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「アイヌ神謡集」より 知里幸恵<ちり・ゆきえ> 

旭川で少女時代を過ごした知里幸恵は、大正7(1918)年にアイヌ語研究のために近文コタンを訪れた言語学者、金田一京助<きんだいち・きょうすけ>の勧めでカムイユカラ(神謡)の日本語訳に取り組む。
大正11(1922)年、幸恵は、病弱だった体をおして上京し、4か月後、金田一宅で原稿を書き上げるが、出版の直前に心臓麻痺により急逝した。金田一によって翌年出版された「アイヌ神謡集」は、幸恵自らの筆による「序」と、13編のカムイユカラによって構成されている。
エピグラフとして紹介したのは、最初におさめられたカムイユカラ「梟の神の自ら歌った謡」の冒頭部分である。


知里幸恵



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「『春寒記』から『師走の思い出』」より 齋藤史

エピグラフではないが、この舞台では、「第1幕ACT4」で、舞台袖に立った史が、大正から昭和への移り変わりについて回想するシーンがある。
ここで使ったのが、実在の史がエッセイ集「春寒記」に掲載した文章の一部。
一歩引いた場所から見ている師走の旭川の女たちの様子、そして大正天皇崩御前後の張りつめた齋藤家の雰囲気が簡潔な表現で伝わってくる名文である。
劇中では一部文章を省いて使っている。



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「青年の美しさ」より 小熊秀雄

これもエピグラフではないが、「第2幕ACT7」の劇のラストで、ヨシオ、次いで小熊自身によって朗読される。
昭和10(1935)年に刊行された第1詩集「小熊秀雄詩集」に掲載されている。





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