葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

きれいでない顔

2011年09月06日 15時40分20秒 | 私の「時事評論」


 毎朝、5時ころには起き出す。早朝の神社参拝を日課にしているからだ。

 すぐ近くに長谷地区の鎮守である甘繩神明神社と、我が家からは神明神社とほぼ等距離、甘繩さんが東側に鎮座するのに対して、逆に西方4~500メートルに御霊神社が鎮座している。三月前、この二社に入院中の孫息子の無事平癒を祈念していらい、巡拝することを日課にしている。甘繩さんが山の中腹、麓から石段を六十段ほど上がったところに鎮座し、拝殿の前からは広い相模湾から伊豆半島や大島が見渡せるのに対し、御霊神社は海近く、漁業関係者などの信仰も篤い神社だが、山を背にした平地にある。

 けさ、起きぬけに洗面所の鏡に映し出された自分の顔を見て、澄んだ顔でないのが気になった。もう七十代の顔であるしいつも何もしていないから、若々しい表情でないのは分かっている。皺や染みの多いのも当然のことだ。そんなことは一向に気にしないが、眼の色が、いつの間にか、輝きを失ってしまっている。さわやかな眼の色が無くなってしまっている。
 「どうしたことか」
気にはなったが、いつものように、明けたばかりの朝の街並みにステッキ片手に参拝と散歩に出かけた。


 穢れが顔の表情に出たのか

 カタツムリが這うように進行速度が遅く、進路にあたる列島上に居座る夏の高気圧に阻まれて、どこに行くのか予報のたびに西へと進路が変わる台風が、当初予定されていた首都圏襲撃からどんどん西にずれ、そのためらう間も進行中も、紀伊半島や四国・山陽・山陰などにまた想定外、年間降雨量に匹敵する大雨を数日にわたって降らせて、大変な被害を生み出した後に、結局四国から鳥取と北上し、日本海に出てやや方向を変えて北海道に至ったのは昨日のこと。

 そんなことで今朝は台風一過というわけにはいかないが、天気は数日ぶりに晴れ。だがどこか私の心の中は曇り空。一体どうしたのだろう俺の顔は・・。そのうちひょっと気がついた。

 「そうだ、私の書いている時評のせいだ」。

 私は神社界の週刊新聞に時評を毎回書いてきた。それは退職してから、もう八年前までになるのだが、その後はネットやいくつかの神社の社報で、似たような文を書き続けてきた。だが御承知のように昨今は乱れた社会の状況である。日本人の心情に長く息づいている心情などは無視して、暴走を続ける世相で世の中は日に日におかしくなる。勢い批判の文章が多くなる。

 社会はかくあるべしと思う自分の素直な思いから書く文であるのは間違いない。いまの社会の混乱は、大半は日本人が育ててきた日本の文化というものの情緒豊かな本質を忘れ、暴走を始めたことに起因すると私は確信している。だがその批判を書いていると、年齢が重なり、自分の先が長くないと思う故か、冷静であるべき評論が感情的なものになり腹が立ってくる。あまりに調子が外れた行政を見て、これは日本などで取るべき方針ではないと腹を立て、それをぶつけた文を書くことも多い。そんな中に、私の心のゆがみがいつしか生じ、私の心の穢れになり、それが私の表情に出ているのではないだろうか。あの時の鳩山さんや菅さんのような、虚ろで神経だけがピリピリしているような顔が鏡の中にいる。

 神道人として、気恥ずかしい思いがした。

 日本には日本独自の信仰である神道がある。穏やかな環境の中、先祖たちがこの土地の風土に合い、もっとも豊かな収穫が得られ、多くの人がそれで暮らせる稲作文明をとりいれたのは数千年前からであろう。いらい集団での集約型の共同作業を積み重ね、自然をつかさどる神々に豊作の祈りをささげ、祭りをしながら改良に改良を重ねてきた信仰である。この日本型の稲作共同体は、精神的統一の柱として祭祀王としての天皇を生み出し、信仰を「赤(明)き浄(清)き」心でまつりをすることを柱に成立、発展してきた。

 天皇は日本の国民一人一人を大御宝(おおみたから=最も大切な宝物もの)と常に思われ、その末端の末端までの人々の心を知り、苦しみを共有することに心がけられ(しろしめすという意味)、その民のために、おのれの私心を捨てて神々に対する祭りをされてきた。それが日本文化の柱であるし、そのお心は歴代、変わることなくいまも引き継がれている。

 民はみな、全国民がはらから(同じような仲間たち=同じ母から生まれたような仲間たちの意)と意識して、相携えて睦みあい生きることを道として生活してきた。こんな君民融合の形が我が国では理想とされ、それをひたすら追求してきたのが日本の歴史を貫く柱だった。

 ところが私は、そんな社会の中に生きていて、しかもその大切な民族の心・神道のごく近いところで生活を重ねさせていただいて、いくら方針が違うからと言っても、首相なり指導者なり、ある対象の行う政治などの進め方に反対するだけでなく、そんな個人に対してまで露骨な反感をもってしまったのではなかろうか。彼らとて、同じはらからであるという睦みあう意識から脱線したのではあるまいか。

 それが私の顔を歪めたもとではあるまいか。あかき清き心であるべき私の心が、いつしか罪穢れに汚染している。
 

 「穢れ」は祓い去るべきもの

 ショックであった。神道は性善説に立っている。本来はだれだってみな善人なのだ。だが、そんな無垢な身体にもいつしか穢れがまといつく。そのためいつも清浄を求める心を失わず、祓いを常に忘れてはならない。

 「憎し」と思う心を抱くことは穢れである。「その偏狭な自分の気持ちがすでに相手の本性と相手についた穢れとの峻別もできなくなっているのではないだろうか」。己の心の穢れを痛感させられた出来事であった。

 早起きは、自分の心を朝日に照らし、鏡に映して眺め直す機会にもなるようである。

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