葦津泰國の、私の「視角」

 私は葦津事務所というささやかな出版社の代表です。日常起こっている様々な出来事に、受け取り方や考え方を探ってみます。

大相撲の八百長騒動

2011年02月10日 06時41分09秒 | 私の「時事評論」
思わぬ波紋

 蔓延していた野球賭博事件は暴力団の資金源になっている疑いがあると、警視庁から取り調べを受けて注目された相撲界である。これに対して相撲協会は不祥事を起こして申し訳ないと陳謝して、天皇杯の拝受まで辞退して綱紀粛正を約束、恭順の意を表したのだったが、今度は前回の疑惑に付随して、八百長相撲疑惑飛び出した。おかげで相撲の世界はこれにより、さらに大きく揺れることとなってしまった。

 これは捜査の結果、直接先のとばく騒ぎには該当しないが、これは警察が調査していて浮き上がった新たな問題点だと報告されたものだったが、それに加わっていたとされる八百長疑惑の十数名の力士や関係者の名前までがズラリ表に出された大変なもの。それが公正なガチンコ勝負を売り物にしてきた大相撲に庶民が求める神聖性に直接触れる問題であったのでたまらない。相撲協会は前回以上の袋たたきに遭った格好になり、春に予定していた大阪場所も中止、今年の地方巡業も中止して、協会としては疑惑を徹底的に追及して洗い出し、必ず相撲界を正常化すると発表していま調査中だ。

 日本には相撲は神聖な競技であるとの神話がある。それは相撲が五穀豊穣を祈念する神前の行事からの古い歴史を持っていることにもよろう。江戸時代から髷を結い、格別の待遇を受けてきたことにもよるだろう。庶民にもてはやされた横綱谷風や雷電の話なども影響していよう。相撲絵などは庶民の人気を表わす何よりのものだ。相撲という競技は互いに素手で技を競い合う世界各地で発生した最も基本的競技だが、日本では神さまの見ておられる前で、正々堂々、力の限り組み合う特別な競技と信じられ、横綱は腰に紙垂のついたしめ縄を巻き太刀を従え土俵入りし、力士たちは土俵を清める塩をまき、全てが神事に準ずるとされ、力士は神さまに見られても恥じないよう全力をもって勝負に挑み、ルールなどにも日本独特のものが定められて、「お相撲さん」は日常生活でも庶民の格別の尊崇を浴びてきた。

 伝統的な相撲は江戸時代、明治時代から昭和のいまへと独自の発展をし、いつの時代も国民的関心を持たれてきたのだが、そんな勝負の背面に、裏で打ち合わせの八百長密約があったと指摘されたのだから、騒ぎが大きくなったのは当然である。まじめに毎日の勝負を胸躍らせていた多くの国民が「裏切られた」という気持ちになって、批判の声が、全国各地から一斉にあげられることとなったのも当然だった。

 今回、こんな騒ぎが持ち上がる前までは、八百長騒ぎなど、起こったことがないし聞いたこともないかといえばそんなことはない。日本人の大衆にとっては、相撲は庶民の日常の楽しみであり、力士たちの勝ち負けは多くの人の関心事であった。
 それだけ大衆娯楽に占める相撲の地位は高かったということにもなろう。それに応じて、相撲の勝負が庶民の間の賭け事などに利用されることはきわめて多く、「あの力士があんな負け方をするはずはない」、「あの裏には何かあるのではないだろうか」などという声は聞きあきるほど巷間で騒がれていた。ちなみに「八百長」という用語自体が、相撲界に関連ある言葉であるのは皆のよく知るところである。

 こんなうわさは昔からあったが、それは庶民が相撲は真剣勝負と信じたい期待の裏返しでもあった。庶民が巷で交わす八百長論議は、「お相撲さんに限ってそんなことはないだろう」と漠然とでも信じたい日本人の心情だったともいえよう。現に最近でもそんな国民的人気を逆に利用して、大相撲の勝負に八百長疑惑があるという報道は週刊紙などイエロージャーナリズムの読者を手っ取り早く確保する絶好の話題として提供され、元力士や関係者の証言なども加えてひっきりなしに繰り返されてきた。その多くは相撲協会などの雑誌社相手の訴訟にまで発展したが、いずれも完全に白黒をはっきりさせるには証拠不十分な結末と私には見える結果に終わっている。それは、ここにあげる八百長という事実が、必ずしも皆の見る勝負の戦われ方という外面によって決まるのではなく、そのほかのところで、物証など動かぬ証拠をあげなければ断定できない面にもよるのだろう。



 八百長と無気力相撲

 ここで、「八百長」という言葉の概念を、しっかり固めておく必要があろう。一般の人は漠然とした概念で「八百長」を捉えている。だが一般には八百長だと言われる取り組みであっても、それは「八百長」という概念に当てはまらないケースも多い。相撲の取り組みには、まるで力が入っていないかのように見えるものも、想像できない番狂わせもあるが、これだけを見て簡単に八百長とは言えないのはもちろんである。最近時々あげられる無気力相撲というのも八百長とは違う。立ち上がったのだがさっぱり勝利をしようという気力が感じられないもの、あるいは「片八百長」などとも言われる相手に対して戦意が感じられない取り組み、これらも相撲にとっては望ましい取り組みではないが、この改革は別の次元の話だろう。

 「八百長」相撲とは、外目には、まともに争っているように見せながら、当事者同士が事前の打ち合わせ通りに勝負をつける相撲を指している。それは大半が対価を伴い、対価としては金銭などがその背後で動いたり、そのあとで星のやり取りや埋め合わせが行われることが多いと聞く。もちろんここにはボスや暴力団の組関係者などが加わって、相撲場以外のとばくなどの側面に彼らが利用する場合なども含まれる。こんな相撲が「八百長」の一般的定義である。

 だとすると、相撲を見ていて、素人が眺めておかしいと感ずる様なものは、もしそれが「八百長」であるのならば、八百長道から見れば最低拙劣の部類に属するものというほかない。誰にでもすぐにばれるからそんな不器用なものがいつまでも続くはずがない。一般の人が八百長だと騒ぐものの大半は実は八百長相撲ではなく、勝負する力士同士の、あるいは一方の闘争心の結果、気力の欠乏の結果なのかもしれない。

 「これが俺にとって最後の勝負だ。負ければ俺の力士生命は終わりにしよう」との思いを込めて必死で取り組む片方がおり、もう一方は「可哀そうだがこの人もここまでか。おかげさまで俺は今場所勝ち越したが」などと思う片方がいる場合、これは決して八百長とは言えないが、勝敗の結果はかなり明瞭になるだろう。相撲の世界では心と技が一体とならねば勝利はないという。こんな取り組みはもう、一方が取り組みの前に負けて戦意を喪失している。これらの取り組みも相撲道の常識からいえば、決して望ましいものとはいえないのだろうが、これらを取り締まるのには、「八百長」の概念は通用しない。力士たちに真の相撲道の厳しさを教えなおす以外にないだろうから。

 問題となっている「八百長」は、金銭の授受または対価の提供により、双方が合意の上で、仕組まれた通りの結果を出す取り組み負けたほうが報酬をこっそり貰う取り組みである。もし調べが正常に行けば判明するだろうが、それは見る我々素人などが、外から見るだけでは決して判断できなかった巧みな演出が施されていて、その契約をした当事者以外には、外から見抜けないものであるだろうと推測する。
 それは当人同士または関係者の自白によるか、動かぬ物的証拠がなければ、神さま以外には分からないものだ。
 今回の警察の調査は、偶々電子機器の類は特別の操作をしない限り、消したつもりでいても一度記憶した足跡が残るということに関係者が無知か不用心であったために、動かぬ証拠が挙げられた特別な例だ。だがこれを見て、もし脛に傷を持つ経験者がこのほかにもいたら、正直に白状するよりも、証拠隠滅に走るだろう。もっともこの不正取り組みのやりとりに大勢の関係者が加わっていて、組織ぐるみの様相を示していた場合には、口裏合わせに齟齬をきたして問題が表に出る場合も考えられる。だがそれはそれでまた、より悲劇的な結末に向かうだろう。



 李下に冠を正すな

 話題に挙げられている力士や関係者の残した携帯電話のやり取りは、確かにとかく物証がつかみにくい世界で、こんな面では動かぬ証拠になり得るだろう。だがすでにやり玉に挙げられた以外に対しての拡大は、見つかったからしょうがないと諦めた連中以外からは、なかなか出てこないだろうと考える。ではどうするか。秘密警察の常とう手段のように、密告制度などの導入意外には難しいだろう。だがこれは相撲の成り立っている組織そのものを破壊する。角界内の相互不信を増すことになる。とるべき対応ではないと私は思う。そうなるともう、結論は見えている。こんな馬鹿げた話が今後も出る地盤だけは何とかなくし、未来に向かって姿勢を正す以外にはないだろう。信頼の回復には時間がかかるが、それ以外には道はあるまい。

 おそらく相撲協会の八百長徹底調査にも限界があるだろう。私も相撲界の中にあるこの種の過去の疑惑すべてが、これですっきり晴れるなどとは思わない。中にはそのままじっと首をすくめて鎮静を待つ者も残るだろう。だが、今回の相撲界の場所も巡業も中止してでも自粛のために努力しようという相撲協会の判断は、大きな自浄効果を発揮することになると信じたい。角界関係者がよほど世間常識を欠いた愚か者ばかりの集団でない限り、こんなことが続けば相撲界全体がもう、従来のように存続していけない事態を迎えたことを皆身にしみて知ったことだと思う。こんな中で、まだ旧来の悪弊を繰り返そうとしたら、全国の相撲フアンが放ってはおくまい。それを彼らが知っただけでもプラスである。

 昔から言い古された言葉だが、李下に冠を正さずというのがある。果物畑で冠の傾きを直そうと手を挙げても、それは果物を盗もうとしているととらえられかねない。相撲の世界はほかの社会と比べて、ある意味で古い時代が化石のように生き残っている世界なのかもしれない。ゴッツァン体質などと言われる周りの誘いに防備が甘いのもその一例だ。行動には充分の注意を払ってもらいたい。だが反面、日本の伝統的な国技と称せられ、日本の各種各様のスポーツの中で、別格と思う国民意識はいまもあり、相撲道の中に日本人の精神性があるとの期待がもたれているのも特徴である。相撲を日本に残すか残さないかを決めるのは日本人の総意だが、それはこれからの相撲界の対応いかんによることを知るべきだ。

 相撲には老若男女、広い層の愛好者があり、天皇陛下がわざわざごらんに見えることでも知られている。力士は日ごろ不断の修練を積み、潔さ、男らしさ、正々堂々さ、正直さ、勇敢さなどをもった英雄たちであると国民には力士に夢を感ずる気風は強く、いまでも全国の青少年には将来は力士になりたいと憧れるものも多い。

 この誇りを保ちうるかどうか。多いに注目して眺めていきたい。

 最後に蛇足を一つ。先にあげた八百長の解釈の中でも述べたが、私は相撲道にただ腕力だけが強く、相手をなぎ倒して顧みぬ力の誇示、手心加えぬ乱暴さを期待しているのではない。日本人がいままで歴史的に力士たちにかけた夢は、情にやさしく思いやりあり、いざとなれば怪力無双の英雄の姿であった。それがあるから相撲取りは少年たちのあこがれの対象であった。合理性と透明性を持つことは、相撲が単なる現代風スポーツに変身することを意味しない。相撲はあくまで相撲であってほしいものである。


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