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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

AP通信時代 その1

2006-04-20 12:31:04 | Weblog
 鈴木君のJFCC(日本外国特派員協会)からの受賞について情報集めをしていたら、かつてAP通信で働いた仲間(日本人初のJFCCの会長もその1人)の話がいくつも出てきた。そこで、いい機会と自分で勝手に決め付けて、私のAP時代の話を何回かに分けて書く事にした。

 私は、1973年6月から76年9月までAP通信社に所属していた。

 APは、アメリカの新聞社や放送局が出資して作った世界最大規模のマスメディアだが、日本ではAP通信と言ってもピンと来ない人が多い。ただ、「TVなんかで、AP-共同って言うでしょ?」と言うと、うなずく人も少なくない。

 そのアジア総局は、私が在籍した頃、有楽町にあった。今はマリオンがある所に日劇があり、その前に朝日新聞本社があった時代だ。仕事場は、その朝日新聞本社ビルの6階にあった。隣にはNYタイムズ東京支局があった。

 英国から帰国したばかりの私は、APとロイター(英)通信、そして広告代理店からオファーを受けた。以前にも書いたが、リンガフォンからも当時まだ26歳なのに破格の高給で英会話スクールの校長にと誘われていた。

 ただ、戦場ジャーナリストへの夢は絶ち難く、国際的に通用するジャーナリストになるには一番近道と、一番給料は安かったがAPを選んだ。

 APの入社試験は簡単なものだった。私の場合、ロンドンで毎日新聞の助手をしていた時の上司である小西昭之特派員(故人。後の外信部長)が、「あることないこと」を並べて絶賛してくれたらしく、第一関門も第二関門もクリアしてしまい、副編集長から幾つか与えられた新聞記事を英文記事にまとめることと、幹部との面接だけであった。

 当時のアジア総局長のロイ・エソイヤンは、アルメニア難民の身からまさしく立身出世をした、APの中でも「伝説の人物」であった。祖国を追われたロイ少年は、家族と共にソ連経由で香港に辿り着き、そこでAP通信香港支局のコピー・ボウイ(コピーをしたり、記者の手伝いをする職務)から記者、そして、特派員から支局長、総局長と上り詰めた。モスクワ特派員時代には、当時のソ連政府から追放処分を受けた経歴を持つ。

 編集長は、エドゥ・ホワイトゥであった。彼は、ヴェトナム戦争取材で知られた記者で、いつもパイプ煙草を銜え、相撲取りのような巨腹を突き出して「Mr. Asai」と言って、私の書いた原稿を手に“迫って”きた。彼の指摘はいつも的を射ていたので彼には頭が上がらない思いが強かったが、私の書くヴェトナム戦争の記事の言葉遣いではよく言い争った。当時、アメリカの報道機関では、南ヴェトナムの反政府勢力に対して「enemy,rebel,vietcong」という単語が普通に使われていた。当然のことだが、編集長に最終権限があるので私の原稿には、それらの言葉が書き連ねられていた。

 当時、APは共産圏のほとんどの国から支局開設を許可されておらず、我々は中国、北朝鮮、それに北ヴェトナムから入る情報を基に記事を書いていた。ただ、中国に関しては大御所がいるため、分析記事は恐れ多くて書けなかった。その名は、ジョン・ロドリックといい、「長征(蒋介石率いる国民政府の攻撃に対して共産党勢力が2年かけて反攻。この時毛沢東体制が確立された」にも同行取材、毛沢東や周恩来と知己があることで「APにロドリックあり」と言われた、世界的に有名な記者であった。 

 そんな幹部がずらり勢ぞろいした最終面接であったが、生意気盛りの私には、恐れ多いと言うよりも、国際ジャーナリズムの場にいることから来る興奮の方が大きく、結構大法螺を吹いてしまった。

 数日後、合格通知が舞い込んできた。呼び出された日に行くと、編集長から仕事の説明がされた。基本的には、半年から1年間、ジャパン・デスクをしてもらう。特別な研修はなく、いきなり仕事に入れと言う。勤務体制は、24時間を3つに割ったもので、午前7時から午後3時の早出の後は、8時間毎に割られたスケジュールだ。

 仕事の合間に記事を書けば良いと高をくくっていたが、この仕事が予想以上にきついものであった。APは全米はもちろんのこと、全世界に支局を持つ会社だ。そこから打電される記事は、ニュー・ヨークの本社に集められる。そして、その膨大な量の記事がアジア向けに東京に送られてきた。

 当時はまだ海底ケイブルを使ってニュースが送られてきていた。技術的なことは分からないが、いずれにしても送られてくるニュース原稿がgarble(乱れた状態になる)されてくることが多い。それを、文脈から判断して原稿を書き直して、日本の契約各社やアジアの支局に送るのだ。

 ところが、大きな問題がそこで生じた。タイピストに修正した原稿を渡すのだが、最初にその作業を行ったところ、「エッ、タイプ打てないの?」と言われてしまった。手書きだと時間がかかるし、私の悪筆だ。タイピスト泣かせであることは明らかだ。どうやら、記者をする以上、タイプを打てるのは当然ということで、入社試験の際、聞かれもしなかったらしい。

 「大変じゃ、大変じゃ」と、それから寝る間を惜しんでタイプを打つ猛特訓をした。タイピスト学校が当時は街に林立していたが、そんなところに行っている余裕はない。頼れるのは自分の力しかない。ところが、まあなんでも、大体はやればなんとかなるもの。1週間後には何とか形になるまでになった。

Baseballと野球

2006-04-20 00:47:07 | Weblog
 ASE(私の経営する英会話学校)の生徒で、将来スポーツ・ジャーナリストを目指す東京国際大学の学生、鈴木将啓君がこの度、日本外国特派員協会主催の「第1回Swadesh DeRoy Scholarship」の最優秀賞を受賞した。賞金も50万円と、学生にしては大金が与えられた。

 鈴木君は昨年、約10ヶ月間、米国オレゴン州に留学していたが、その時の体験を下に「Baseball and Yakyuu」と題するエッセイを書いて応募していた。

 話の筋は、留学先からスィアトゥル(シアトル)まで比較的近距離なので何度もマリナーズの本拠地である「Safeco Field」球場を訪れ、プレイ・スタイルからファンの応援の仕方まで、鈴木君自らの目で発見した「Baseballと野球」の違いだ。それも、さすが将来、スポーツ・ジャーナリストを目指すと言うだけあってスィアトゥル・タイムズのスポーツ・エディターにも意見を求めている。

 彼のエッセイを読んだが、これなら名うての外国人特派員も一票を投じるであろうという内容のものだ。また、非常にコンパクトに上手くまとめてある。

 その鈴木君が、今週末から始まるメディア塾に参加することとなった。たった半年という短い期間だが、どのような成長を遂げてくれるか、今から楽しみだ。