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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

ACTNOW活動 最後の報告その2

2006-04-19 08:48:40 | Weblog
ACTNOW誕生
 
2回の現地活動をした上で、皆で始めたこの活動を組織化するか全員に意見を聞いた。そして、全員一致でACTNOWが誕生した。
先ずは、実行委員会を作り、組織の4本柱を打ち出した。
①大災害の直接・間接的支援活動
②支援活動で得られた体験や情報を地元で生かす
③行政との協働
④若者が活躍する場を作る。特に、調整役の発掘と養成に力を入れる

 最初の活動は、現地入りしてテント基地を作り、ACTNOWとして旗揚げすることであった。場所は、長田区役所と川を挟んだ公園の一角で2基のテントを張って、焼け落ちた鷹取商店街や区内の避難所でヴォランティア活動を始めた。
その年はとても寒く、テントの中にまで六甲下ろしが寒風を吹き込み、寝袋に包まっても寒さで寝付かれないこともあった。

 最初は戸惑うことの多かった現地活動だが、鷹取商店街の人たちにも快く受け容れていただき、やがて街の復興活動の助言や支援を求められるまでになった。
長田区役所のヴォランティア・ルームはいわば、学園祭のノリであったが、そこに少し違った空気を持ち込むためにもと、ミーティングの進め方を指導したり、ヴォランティア組織の活動を記録に残す作業を提案して回った。
 私自身がヴォランティア経験を持っていなかったこともあり、活動は失敗の連続であった。ただ、私は代表を任された以上、「最近の若い者は…」という言動は絶対に見せないと自分に誓い、また若者にウソはつかない、上から見下したり、命令したりしないといったことを肝に銘じた。
 全国から大勢のヴォランティアが押し寄せ、「ヴォランティア元年」との言葉も生まれた。だが、現場入りしたヴォランティアやヴォランティア組織に「ヴォランティア公害」と言われても仕方のないものも少なくなかった。中でも、大物演歌歌手が主宰する「じゃがいもの会」のレヴェルの低さには辟易した。その態度の横柄さもそうだが、自らは何も用意せずに被災地入りして、自分達はまるで客人であるかのように振舞う。食事は用意されて当然と言い切る者もいて、ACTNOWがヴォランティアのためにと買い込んだ食料もあっという間に彼らによって食べられてしまった。
 ACTNOWは、現場入りしてもらうヴォランティアは出来る限り面接をして指導したり、中には参加を断る場合もあったが、それでも現地で問題を起こす者がいた。だから、真摯にヴォランティア活動をする者に負担が重くのしかかった。それに耐え切れずに活動から離れて言った人もいた。その人たちには申し訳ない気持ちで一杯であったが活動を止める訳にはいかなかった。
 
シンポジウムと救助隊

被災地の支援活動を続けるだけではなく、4本柱の②と③を実現するために、埼玉県や旧浦和市、大宮市、などの行政の災害対策担当者を呼んで、市民達とのシンポジウムを企画した。
「そんな、市民の皆さんの前で恥をさらすのは勘弁してくださいよ」と、およそ役人らしからぬ正直な反応を示す担当者もいたが、県の担当者が出席を表明すると、途端に右へ倣えで参加を決めた。
その頃、私の頭の中は、ACTNOWをどうするか、で一杯であった。そう、四六時中ACTNOWの活動を考えていたのだ。
震災から約半年が経っていた。私はNHKのラジオ番組の収録を終えて旧浦和(現さいたま)市役所の近くを歩いていた。ふと見上げると、消防本部の訓練塔が見えた。そこからオレンジの制服姿のレスキュー隊員が降下訓練を繰り返していた。

「これだ。これをやらせてもらおう」
そう言いながら私は消防本部の建物に入っていった。
阪神大震災では、消防署員は動きが取れなくなり、代わって地元の消防団員や近隣の住民たちの活躍が目立った。
それを受けて、行政は住民たちの自主防災組織率向上を謳い文句にして新たな予算を付けようとしていた。だが、首都圏では、隣人の顔も知らない住人が多い。そんな人たちに、行政が自主防災を呼びかけてどれだけ効果があるか私は疑問に感じていた。それよりも、若者が参画したくなるような活動はないかとずうっと考えていた。
「なんだこの胡散臭いオヤジは」と、言葉にこそしないものの、「若者を訓練してくれ」などと変なことを要求する私に対応した消防団員は戸惑いを見せた。
だが、半年も通い続けると、相手は根負けして「ACTNOW救助隊」の訓練に同意してくれた。佐藤記者は乗り気になり、紙面を大きく割いて「全国初」と救助隊の紹介記事を書いてくれた。
そうして誕生したのが救助隊なのだ。だが、後になって分かるのだが、消防署の中は、私の要求を巡って侃々諤々状態であったそうだ。その時、裏で動いていたのが、後に我々の指導教官になる永堀満である。彼は、「市民団体がそう言って来てくれているのだから真剣に検討すべきだ。担当は私がやる」と自らその役を買って出たのだ。
救助隊は、今だから言うが、胃の痛くなることの連続であった。メンバーが夫々の自己都合で、休む、退会すると言ってくるのだ。また、朝寝坊をして遅刻する者も珍しくなかった。時には、訓練の参加者が5名。教える側がその数を上回ることもあった。隊長役を買って張り切っていた武田臣司も隊員のあまりのわがままに最後になると「天岩戸」に隠れてしまった。
そんな時でも永堀は私に苦言一つ言わず、常に笑顔を絶やさず、「代表、俺の方は大丈夫です」と言ってくれた。大丈夫なはずはなかった。彼は私と違って、役人だ。いくら彼が消防の中で評価が高いといっても、前例のないことをやって失敗すれば、大きな汚点になる。だが、それなのに彼は私を気遣って常に気丈でいてくれた。私より一回りも年下だが、私は彼を心の底から尊敬するようになった。
最近呑んだ時、そのことが話題になった。すると、永堀は、「あん時はさすがに参りました」と本音を言った。

りゅうのこと

私の後を継いで代表になってくれた若者が二人いる。出口朱輝と菅隆一郎だ。二人共若い時に私と出会い、“道を誤った”口だ。
出口は、私が彼の通っていた中学校で卒業記念講演をした時の卒業生だ。まだ、紅顔の美少年であった出口は、「こんな怪しい大人になるまい」と心に誓ったのに私の経営している英会話学校に通うようになり、いつの間にかACTNOWに誘い込まれていった。2年近く代表を務めたが、2代目救助隊隊長も兼務して大活躍してくれた。
そして、その後を継いだのが、りゅうこと菅隆一郎だ。
彼もまた英会話学校の生徒であった。それも3歳の時からだから、彼にとっては、私は両親以外ではもっとも長く付き合う大人となった。
りゅうが救助隊に入ってきたのが、中学3年の時であったと記憶している。何となく入りたそうにイヴェントに参加してくるりゅうに「入りたいのか」と聞くと、どんぐりのような眼をますます真ん丸にして「ハイ!」と力強く頷いた。
永堀さんと出会ったりゅうは、素晴らしい先輩に傾倒、消防の世界に引き込まれていった。彼が学校のカバンの他に、いつもリュックを背負って歩くようになった。中を見せてもらうと、自分で考えて品揃えした救助・救急用機材が入っている。
高校2年生の時、私は彼に呼び出され、近くの公園での自主訓練に付き合わされた。ロープワークを黙々と繰り返すりゅうに、話があるんだろう?と水を向けると、「僕、消防に入ります」と、ボソッと言った。
りゅうは小さい時からパイロットになるのが夢であった。その為に長年英会話を勉強していたのだ。だが、その夢を捨ててまで消防の世界に入りたいというのを聞いて、私はカンドーした。恐らく、貴乃花の優勝を見てカンドーした小泉首相の10倍位カンドーしたと胸を張っていえる。
りゅうは、結果的に永堀さんの下ではなく(浦和消防にも合格していた)、東京消防庁に入った。そして、レスキュー隊のメンバーになった。
そのりゅうが、出口の後に出戻り代表になった私を継いで三代目代表になってくれた。

ACT鍋

若いメンバー達から「自分達の空間が欲しい」という声が強くなり、95年の暮れ、独自の事務所を持つことになった。
これについては、ACTNOW創設メンバーで年配者たちの多くが反対した。だが、私は若い人たちの場作りを柱の一つに掲げている以上は、頑張ってもいいではないかと、代案を出した。それは、ACTNOWに財力が付くまでは私が事務所として借り上げ、それを皆に使ってもらうという案であった。
しかし、それすら猛反対に遭った。そこで、私は反対覚悟で暴走した。実行委員会のメンバーには物件の幾つかを見せ強引に承諾させてしまったのだ。
これが後になってもしこりとなり、しばらくして何名かのメンバーを失うことになる。
しかし、事務所を借りた直後に「日本海タンカー重油漏れ事故」が起き、活動に躍動感さえ感じられるようになった。
私はなるべく事務所にいるようにして、えさで釣ることもした。ストーブの上に鍋を置き、うどんすきやおでんなどを振舞った。ACT鍋と称されるようになった鍋パーティも頻繁に行われた。すると、人が自然と集まるようになり、人生相談やらなんやらかんやら、談論風発の場となった。そこからACTNOWカップルも幾つか誕生、事務所は文字通りの活動拠点になっていった。


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