N の 祝祭日

映画、読書などのメモ

ラファエル前派からウィリアム・モリスへ

2011-03-26 | 展覧会

 

 

★ラファエル前派からウィリアム・モリスへ
美術館「えき」KYOTO


《ラファエル前派同盟》。何やら秘密結社みたいな名前である。
初めてこの名前を聞いたときは、この胡散臭さに興味津々。
そしてはまった。

おさらいをしてみると。
19世紀半ば、イギリスは産業革命で急激な近代化で大きな社会変化を遂げた。
当然その代償として社会不安も拡大する。
中には精神的豊かさが失われていくことに嘆きを訴えた人たちも多かったことでしょう。
日本の高度成長期の頃の《嘆き》みたいなものです。
そこに登場したのが思想家ジョン・ラスキン。
(そういう僕は彼の著作は読んでいない)
彼に共感した青年画家たち、ハント、ロセッティ、ミレイらが、
1848年《ラファエル前派同盟》を結成した、というのがそもそものはじまりである。

彼らの主張は、
読んで字のごとく《ラファエル》以前の、
初期ルネッサンスの清新な表現を取り戻そうというもの。
《ラファエル》崇拝主義に凝り固まるアカデミーの権威主義を押し付けられた青年画家たちが、
より自由な自分たちのスタイルを求めて集団行動したという話である。
よくある歴史の必然性です。

若者たちのパワーは、より多くの多彩な多才な共感者の集まりへと繋がっていきます。
今でいう《絆》っていうやつです。
しかし若者というのは、感情が昂ぶると喧嘩しやすい。
しごく当然のことながら気のあった者同士がくっつきやすく、
気の合わない奴は疎遠になる。
しかしともかく権威と戦うには、やはり《個の絆》ですね。
これも古今東西どこでも同じ。
その動きに、
ウィリアム・モリス(1834-1896)、
エドワード・コリー・バーン=ジョーンズ(1833-1898)らが加わる。
これらがのちの《アーツ・アンド・クラフツ運動》へと繋がっていくのである。
この流れには、学ぶべきモノがたくさんある。
僕の好きな連中がたくさんいる。


前おきが長くなったところで、さて展覧会の話。
正直、あまり魂が揺さぶられなかった。
眼を引く作品がなかったこと。
この種の展覧会でよくある作品保護のための照明の暗さ、
そして会場の狭さに比して作品の込み具合展示が絵画鑑賞にふさわしくなかったこと。
たぶん多分だが、
会場設定がうまくいけば、
もう少し違った印象を持ったに違いない。

でも一応、数点、ほしいほしいと唸る作品があった。
(気に入った作品に出会うと欲しくなる)


●《レディ・リリス》ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1867年/Private Collection)
ロセッティの作品で埋め尽くされる一角がある。
これはちょっと圧巻である。
髪長女性のデッサンが並ぶ雰囲気は19世紀中頃のものとは感じられない。
化粧品コマーシャルに使えそうだ。

 

 

 


●《愛の杯》ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ( 1867年 /ウィリアム・モリス・ギャラ
リー)

 

 

 

●《目覚め》ジョン・エヴァレット・ミレイ
ミレイの作品が一点しかなかったような。
この精緻な表現がミレイの真骨頂。

 

 

 


5年前、同じこの美術館で「ウィリアム・モリス」を観ています。
あれは、かなり感激ものでした。


アンドリュー・ワイエス-創造への道程ー

2009-02-05 | 展覧会

 

 

★アンドリュー・ワイエス-創造への道程
愛知県美術館

 

 

愛知県美術館へワイエスに会いに行く。

ここしばらく、まったく気にかけなかったワイエスだったが、
一月に、亡くなったという新聞記事を読んだ時、
かつてのワイエスブームを思い出した。
とても新鮮でありそれなりに「感染」はしたが、
ベクトルが違うので、いわゆる真似るということはなかった。
しかし、ワイエスの水彩やデッサンは大好きである。
いわゆる切れ味が鋭い。

今回の展示のコンセプトは
「テンペラ作品に対応する、水彩や素描を中心として、ワイエスの作品の創造プロセスに焦点を合わせる」というもの。
展覧会企画当時は、ワイエスはまだ元気に制作を続ける現役作家であり、
日本のファンに熱いメッセージを送る狙いがあった。
が、この展覧会中に亡くなった。
91歳。

水彩やデッサンは作家の関心のあり方、意識の動きがよく読み取れて、観ていて非常に楽しい。
テンペラの完成作品に向けて、ワイエスが描こうとした感情の激しさがよく出ていた。
こんなにも激しい人だったのかと今回初めて知る。
ブラマンクのフォーブのような激しささえ感じた。
筆の走り、絵の具の飛び散り、時に抽象絵画的でもある。

水彩作品は、カメラでいえば、対象物を一点スポット測光的に描く。
描きたい物だけを描く。
当たり前といえば当たり前だが、捉え方は極めてシンプルであり、鮮烈である。
この研ぎすまされたような感覚が好きだ。

ワイエスは、秋から冬の風景を好んで描いている。
いわゆる冬枯れの風景であったり、
雪景色であったり、
木枯らし風景であったり、
時に嵐のような風景であったり。
孤独に耐えながら、自分の身の回りの風景のざわめきに耳をこらしている。
何故この季節の景色ばかり狙うのか。
季節の張りつめた空気感がワイエス絵画の魅力でもある。

冬は生まれ故郷のスタジオでの生活、
夏は自宅での生活という二つの空間を持っている。
この二重生活がワイエス絵画に大きな広がりを与えているのではないかとも想像した。

会場内にビデオコーナーがあり、インタビュー映像が流れている。
かわいいおじいさんワイエスが語る。
「約束事があったら、アートは面白くない」と笑っていた。
黙祷。

知り合いのアメリカ人に「メイン州ってどんなとこ?」と尋ねた。
彼は顔をしかめて「東海岸の一番北。とにかく寒いよー。
雪もたくさんつもるし」と教えてくれた。
ワイエスの制作スタジオがあった所である。 


若冲展・相国寺承天閣美術館

2007-05-22 | 展覧会

 

★若冲展
相国寺承天閣美術館


鮮やかな若冲の絵に出会う。
若冲人気急上昇中!


展示室は二つ。
第一室は水墨画や書を中心とした構成。
第二室は「釈迦三尊像」と「動植綵絵」の構成。

今回初めて若冲の書を見た。
生真面目であり、直線的で一つ一つ丁寧に書く姿勢は彼の絵にも共通するもの。
「そうか、若冲さんは理の人であり知の人なんだぁ。」
そう思った瞬間、全てが解決した。
文人的な「間」というか、「遊び」というか、
文人的な「匂い」は全く感じなかった。
彼の水墨画は筆跡を味わうことなく、
まさに線であり、何か異様な物を感じた。
対象物にせまるある種の狂気みたいなもの。
敢えて言うならばプリミティーブな作品。
これからさらに完成に向かうような、何かが蠢くような。
そこに彼の魅力の根源があるように思った。


その思いを引きづり、第二室へ移動する人ごみの列に並ぶ。
まず正面の「釈迦三尊像」を見に行く。
どこか生身の匂いのするお釈迦さんであり、
いまだ修行をしているようである。
艶かしい。
部屋の中央に立つと、
若冲さんの呼吸と迷いが聞こえるような気がする。
色彩の鮮やかさが息苦しいくらいである。
せまる狂気。

動物も植物も雪や水の自然も全てを等価値で描くアバンギャルド。
絵の中の余白は余白でなくそれも生き物。
私はアンリ•ルソーの絵とも共通するものを感じてしまった。
これらの絵は現代的に言うならばまさにデジタル絵画のようである。
120年前に既に若冲さんにおいてデジタル絵画の実験がなされていたことになる。
あまりにも刺激的な事実である。


私の中では、若冲さんはまだまだまったく未知の作家だ。
今後、見方も変わっていくことだろう。

展示室を出て人の顔を見ると、
みな何処か幸せそうな顔をしていた。
何かを発見したのだろう。
たぶん私も幸せな顔をしていたにちがいない。

 

 

 


ウィリアム・モリス展

2006-07-08 | 展覧会

 

 

モリスのオリジナルの壁紙の原画やテキスタルを見るとやはり美しい。
こんな部屋でゆっくり本など読んで過ごしたい。
鳥をうまく取り入れているのが気に入りました。
でもあのウズマキデザインに囲まれていると、
疲れてしまうかもしれません。
日本の唐草文様に繋がる気配。
ステンドグラスの絵柄をバックライトフィルムにして展示した部屋もあり、
うっとりしました。

時間がたつにつれ、いろんなことが連想されます。
なんとなくケルトの雰囲気がするなと。
出口からでると、
ワークショップのなかに鶴岡真弓さんの本などケルトに関しての本もあり納得。
河合隼雄さんの「ケルト巡り」が読みやすそうでしたので購入しました。