有田芳生の『酔醒漫録』

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

あるネット情報は事実無根

2007-08-21 09:10:18 | 怪文書

 8月20日(月)今朝の締切り原稿を昨日までに完成させていたのだが、全面的に書き直すことにした。担当者に電話をして午後3時まで待ってもらう。急いで仕事をしているときにかぎって野暮用が入ってくる。先週末からネットで流れているのがある有名キャスターの生死にかかわる情報だ。「本当ですか」という問い合わせがあった。たまたまそのキャスターと親しい知人から電話があったので、聞いてみた。すると「最近も京都に行っているし、さっき事務所に電話をしたら、電話の向こうからご本人の声がしていましたよ」という。いったいどこからデマ情報が流れたのかと源流をたどってみた。すると土曜日にネット上である病院の看護婦からメールが届いたという書き込みが見つかった。「なんだ」と思ったのは、そもそもかつて入院していた病院ではない。ましてやご本人はすでに退院している。誰がどのような意図でデマ情報を流したのかはわからない。もしかしたら噂話を確認したいがために行われるのかもしれないが、こうした撹乱情報が公然と流通するのがネットなのだ。そこに人権感覚など不在だ。午後3時に原稿の半分を送信。1時間後に後半部分を送信してホッとする。急いでジムへ。軽く泳いで西麻布の「デュ ヴァン ハッシン」へ。作家の服部真澄さんと会食。もっぱら政治と国家のあり方にかかわって叱咤激励されるのだった。気がつけば深夜。


本とも出会いがあるんだな

2007-08-20 09:45:49 | 読書

 8月19日(日)とっても大切な本に出会ったような気持ちがある。数日、数か月が経過したときに、身辺でどのような位置にあるのか(まさしく位置であって、身近にあるのか、それとも本の山に埋もれているのか)は、わからないけれど、ともかく「いま」は愛しいほどの内容なのだ。人間や動物は存在しているだけで何かを求める。それが生きているということだ。そう肯定しつつ、しかし、人間は身体が求めるもの以上のモノを頭が求める傾向にある。だから、ときには「求めない」と自分に言ってみればいい。「それだけでもいい気分になると分かるよ」。筆者はそう語りかけてくる。加島祥造さんの『求めない』(小学館)は、そんな詩文集だ。浮ついた人生訓集などではなく、その根底には老子の教えがある。「はじめに」はこういう文章で締めくくられている。

 
あらゆる生物は求めている。
 命全体で求めている。
 一茎の草でもね。でも、
 花を咲かせたあとは静かに
 次の変化を待つ。
 そんな草花を少しは見習いたいと、
 そう思うのです。


 机に座りジャズを聴いていた。そのときふと啓示のような気持ちが起こり、日本橋の丸善まではじめて出かけることにした。選挙の前後にはそこを何度も車で走ったことを思い出した。文房具売り場を歩き、思いついた用事を済ませたところで和書のコーナーを歩いた。そこでたまたま眼に入り手を伸ばしたのが『求めない』であった。ついでに福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)、西岡力さんの『よくわかる慰安婦問題』(草思社)を買う。道路を渡り、高島屋の地下へ。「PECK」でイタリアパンを買った。フランスパンを売る店は多いから、これはいい。近所のボナールで珈琲を飲みながら読書。池袋で用事を済ませて帰宅。家人と夕食を食べに出かけた。ばったりと弘兼憲史さんと会う。「これからどうするんですか」と真剣な顔つきで聞かれる。


読書と昼寝の夏休み

2007-08-19 11:33:07 | 随感

 8月18日(土)近所の歯医者に出かけるとき、昨日までの炎暑がウソのように感じられた。すでに風のなかに秋が入り込んでいる。一日中ソファーで寝ころんで読書。米原万里さんの『終生ヒトのオスは飼わず』(文藝春秋)と太田哲男さんの『ハンナ=アーレント』(清水書院)を交互に読み進める。20世紀の意味を振り返るとき、「過去の破壊」という問題は、いまでも続いていることだと改めて思うのだった。アメリカの優秀な大学生が、「第二次大戦」という言葉を聞いて、「第一次大戦があったのか」と語った話は、この日本のことでもある。日本がアメリカと戦争をしたことすら知らない若者がいるからだ。先夜国会議員たちから聞いたまるであぶくのような政局話など、賞味期限がすぐに切れていくだけのこと。現象、実体、本質。やはり大切なことは実体論なのだ。そんな思いで世の中の言論を見つめる。


暑い夏日、素晴らしい映画に出会った

2007-08-18 13:36:20 | 映画

 8月17日(金)手帳に記録したメモを数えてみた。今年に入って見た映画は26本。六本木のアスミック・エースで27本目に「この道は母へと続く」の試写を見る。なぜメモを見たかといえば、それぞれの内容を思い出していたからだ。「ひめゆり」のようなすぐれた歴史ドキュメンタリーは別格として、これまでに見た今年の作品のなかで、わたしにとってはベストワンだ。ロシア映画であることもまたうれしい。ドストエフスキーやトルストイの小説に連なる良質な作品でありながら、最後のシーンまで観客を惹きつけてやまない。冗漫なシーンがなく、どこまでも展開する内容は、関心を持続させるのだ。アンドレ・クラフチュークは本作に寄せた文章のなかに、O・ヘンリーのこんな言葉を引用している。

 
すでにある道を進むのではない。自分の心に従うことで道を作るのだ。

099  6歳のワーニャは孤児院で育ち、数か月後にはイタリア人夫婦に引き取られることが決まった。しかし、あるきっかけで本当の母に会いたいと思うようになる。努力して文字を学び、保管された書類に記されたかつての孤児院の住所を知る。そこからの波乱に満ちたひとり旅は、ドルで子供を売る偽善的なマダムたちから逃れる日々でもあった。国家の退廃は人々の行動にも反映する。それでも「良心」を失うことのない者もいれば、ふとしたきっかけでそれを蘇らせる者もいる。キラリと光るいくつかのシーンがまぶしい。最後のシーンの処理の仕方がまたすごい。時間にして1分ぐらいだろうか。文章ではこうした終りかたはできないだろう。この映画は10月27日にBunkamuraル・シネマなどで公開される。


『米原万里の「愛の法則」』

2007-08-17 10:44:35 | 読書

 8月16日(木)森達也さんから献本された『王様は裸だと言った子供はその後どうなったか』(集英社新書)を寝ころんで読んでいて思い出した。大学生のときに失恋して後輩の下宿で1週間ごろごろしていたことがある。そのときこうした寓話を書いたことがある。森達也恐るべし。なぜかといえば、いまでもこうした内容の創作意欲が衰えていないからだ。冷静に振り返れば、人はいつしか作られてきた既成観念にどんどん囚われていく。そこからいかに自由であることができるのか。「生きる面白さ」は案外そんなところにあるのかもしれない。外出のためマンションの玄関へ。ポストを開けるとまたまた集英社からの郵便物があった。「著者代送」とある。封を切ると『米原万里の「愛の法則」』(集英社新書)だった。「謹呈著者」の短冊が哀しくも愛おしい。昨年5月に亡くなってから、これで5冊目の献本となる。「自由の精神」だった米原さんに聞きたいことがいくつも残ったままだ。

098  渋谷で「レディ・チャタレー」の試写を見る。ロレンスの「チャタレー夫人の恋人」。その映画化だ。ロレンスが3ヴァージョンの「チャタレー夫人の恋人」を書いていたとは知らなかった。わたしたちが「猥褻裁判」で知っている作品は、第3稿なのだという。この映画は第2稿をもとにしている。映像処理のこっけいなボカシには会場から失笑が漏れたが、内容はなかなか考えさせられる。ここでもまた社会規範にがんじがらめにされた人間が、徐々に、そして急速に解放される物語があるからだ。渋谷から池袋へ。炎暑の路上を歩く目的は「昭和」を感じさせるという立ち飲み酒場に行くためだ。ところが店名も住所もはっきり覚えていない。やむなく連夜の「ふくろ」。ホッピー、野菜天麩羅盛り合わせ、ハムカツ。右隣の中年カップルの話が聞こえてきた。「オレ、東京に出てきたのが3月で、もう8月だよ。トーキョーって人格まで変わるよな……」。


「自ら計らわぬ」広田弘毅

2007-08-16 10:15:29 | 人物

 8月15日(水)敗戦記念のこの日は、70年前の1937年に蒋介石が対日抗戦総動員令を出した日でもある。10日後には中国共産党が「抗日救国10大綱領」を公表、9月23日には第二次国共合作が成立する。歴史とはときに静かに、ときに激しく動いていくものだ。このとき木村久夫さんは19歳。旧制高知高校に入学している。城山三郎さんの『落日燃ゆ』を再読していて、広田弘毅の「自ら計らわぬ」生き方がいさぎよく思える。外務省内部で自己利益のために計るものが多いなかでの広田の進みかたは、現在に続く官僚の生態を批判的に映し出すだけでなく、もっと普遍的な人間類型を示しているようなのだ。六本木のアスミック・エースで「ローグ アサシン」の試写を見る。伝説の殺し屋とFBIエージェントの闘いの日々。日本の「ヤクザ」の描き方が陳腐すぎてやれやれと思っていたら、最後のところで意外な展開になっていった。作品は核となる部分に衝撃性があれば、それだけで生気が満ちるものだと教えられた。地下鉄で代々木へ。車内で『落日燃ゆ』の巻末を見ていたら、城山さんの著作が目に留まった。『毎日が日曜日』。まさにこれだなと思いつつ、広田弘毅の一句が浮かんできた。

 
風車、風の吹くまで昼寝かな

070815_20330001  「馬鹿牛」で焼酎の「兼八」などを飲んで、池袋へ。東武百貨店で珈琲を買ってから、ふと思うところがあった。30歳代に無職だったころに何度か通った「ふくろ」に入る。ここは「おもろ」のすぐ近くだから、なかなか入る機会がない。たいてい男性の一人客で、カウンターに座って黙々と飲んでいる。しかも朝から昼から。ざっと見て30人ほどの客のなかでネクタイ姿はたった1人。文庫本を読みながら飲んでいるのは2人。わたしはホッピーに目玉焼きとアジフライを注文。ただただボンヤリと店内風景を眺めていた。締めて1350円。路上を歩きつつ山川暁夫さんの奥様と電話で話した内容を思い出した。千年を超えてそこに暮らし続けている人たちがいるという昆明の村。国家の底力とは何かを教えられるような話なのだ。神保町の「北京亭」は、ご主人の江さんが亡くなったことで、どうやらこのまま閉店するようだ。何とかならないものかと少し動いてみる。


銀座の瀬戸内寂聴さん

2007-08-15 11:25:14 | 酒場

 8月14日(火)共同通信から依頼された「敗戦記」を書きはじめる。個人的経験を通じて見えた普遍的なことを記録したいと思っている。単行本『X』のための英文史料を読む。シンガポールのチャンギーで処刑された「BC級戦犯」129人の日本人の最期をイギリス軍が撮影していたことがわかった。あたかも動物実験を記録するかのような残酷さがそこにはある。やりきれないなと思いつつ木村久夫さんについての書き直し原稿の冒頭を構想。午後からジムで泳ぐ。銀座に出て和光の前で瀬戸内寂聴さんとばったり出会った。小田実さんのことなどを立ち話。右目を失明した瀬戸内さんだが、お元気そうで安心した。歌舞伎座まで歩いているとき、『秘花』の感想をお伝えするのを忘れていたことに気付く。銀座「ささもと」で焼酎の梅割りにもつ焼き。選挙戦のさなか、新宿に近い路上で車の横に来て挨拶をしてくれたバイクの男性が、「ささもと」のMさんだった。そのうちに行かなくちゃなと思っていたのが、ようやく実現。

070814_23160001  店を出て山野楽器でジャネット・サイデルの「スマイル」というCDを購入。シネスイッチ銀座で「天然コケッコー」を見る。沢木耕太郎さんは、最後のあたりでの主人公のセリフーー「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」は「必要のないものだったということになるかもしれない」と朝日新聞に書いていた。作品が完結しているなかであえて説明的な言葉はいらないということだ。わたしにとって、このセリフがあることで作品の意味合いが鮮明に浮かび上がってきた。映像と言葉。難しい課題だ。「ル・ヴェール」でバーボンのソーダ割りを飲み、地下鉄の有楽町へ。空腹を感じて眼の前の中華料理屋に入り、ビール、餃子、もやしラーメン。ぼんやりとした時間を過ごして店を出る。改札を通ったら、池袋行きしかなくなっていた。


昼はビール、夜は日本酒

2007-08-14 10:06:55 | 酒場

 8月13日(月)城山三郎さんのいうところの、まさに「無所属の時間」にどっぷり浸かっている。人生の実時間にあってこうした時期もまた貴重なもの。ちょうど12時に神保町の「ランチョン」で選挙を手伝ってくれた前畑博さんと待ち合せ。生ビールを飲みながら選挙の総括とこれからのことなどをおしゃべり。何だかなあと思ったことは、まったく根拠のない風評が創作され、流されていたことだ。参議院選挙に立候補したのは、あくまでも自分のなかで生れた強い意志によるものであって、第三者からの働きかけなどはほとんどなかった。昼間のビールは心地よく、お代りの連続に話は盛り上がる。前畑さんと別れ、東京堂書店。佐野衛店長に選挙後はじめて会う。気になる新刊を手にしたが、結局棚に戻す。選挙を経験して「何か」が変わっているようなのだが、それがどういうものなのかをまだ言葉でうまく表すことができないでいる。日常生活の小さな行動にも変化があるようなのだ。城山三郎さんの『落日燃ゆ』『指揮官たちの特攻』(新潮文庫)を再読するために買ったのは、単行本『X』のため。

 地下鉄で日比谷。有楽町まで歩いてプランタン銀座の「ピゴの店」でパンを買う。歩いて新橋。キムラヤでカランダッシュのボールペンなどを見る。驛舎珈琲店で「ザ・ワイド」の小林浩司さんと雑談。引き続きドキュメンタリージャパンの堀川恵子さんと会い、先日テレビ朝日で放映されたBC級戦犯番組のイギリス取材について話を伺う。その会話のなかで城山三郎さんの『落日燃ゆ』について、あれはあくまでもフィクションだということで一致。NHKの特集で、城山さんの取材ノートが出ていたけれど、そこに記されていたのは、広田弘毅の息子さんの証言であった。それが事実であることを裏付ける証言や史料との照合がどこまで為されていたのだろうか。そんな疑問もあるけれど、すぐれた作品であり、単行本『X』の参考になることは疑いない。午後6時から「いけだ」で「不安定研究会」のみなさんと会食。こんどの参議院選挙に「新しい方向」があったのかどうか、世界の二大政党制は保守化を根拠にしていることなど、話題がとても刺激的な3時間だった。有楽町からの地下鉄はガラガラ。世間はお盆休みに入っているのだと実感。


北朝鮮に完成した統一教会施設

2007-08-13 09:39:48 | 仰天

 8月12日(日)2096_1北朝鮮の平壌に統一教会の世界平和センターが完成、その「奉献式」が8月5日に行われた。もともとは5月に、さらには7月に行われる式が延期となったのは、統一教会から北朝鮮への送金が以前より少ないためだといわれていた。 によると、この朝5時から3階の聖殿で本行事が行われている。8日、9日には韓国・清平の天正宮で訓読会が行われ、文鮮明教祖を前にして黄善祚(ファン・ソンジョ)世界平和統一家庭連合韓国会長から平和センターについての報告があった。 そこでは「平和センター」設立の意味について、「平壌にわたしたちの教会」が「制度的に合法的に」建てられたことによって「新しい創造」がはじまるとされている。内部文書では「世界平和センター=世界平和統一家庭連合平壌(ピョンヤン)教会」と表記された。もともとは平壌に教会が建設されることになっていた。ところが北朝鮮は主体思想による信仰国家ゆえに、表向きには教会建設が認められず、そこで世界平和センターという名称になった経緯がある。2007_08_08_1301_wl0m1383

 暑い日曜日。『アーレント政治思想集成』(みすず書房)を読む。人間の行為はその究極の帰結において明らかに予言不可能だという指摘が刺激的だった。「卵を割らずしてオムレツをつくることはできない」という言い回しは、ここにおいて問題がある。卵を割る行為はあくまでも卵を割ること以上のものではない。政治的行為を歴史を製作することと混同してはならない。それがアーレントの主張だ。浅草の「より道」と神谷バーで北海道新聞文化部次長の橘井潤さんと暑気払いを兼ねた仕事の打ち合わせ。帰宅してNHKの城山三郎さん特集を見た。ちょうど単行本『X』の書きためた原稿を昼間に読んでいたので、深い衝撃を受けた。すべて書き直しだ。


イッセー尾形の都市生活カタログ

2007-08-12 10:21:55 | 人物

 8月11日(土)070811_14410001 原宿のクレストホールでイッセー尾形さんの公演を見た。いつものようにロビーにはお茶、ワイン、日本酒、おかき、おにぎり、水ようかんなどが置いてあり、客は自由に手にすることができる。イッセー尾形さんの演技は不思議だ。昔流にいえば「怪人七面相」。誰にでも変化することができる。そこに過剰な誇張があるわけでもない。「そうだよな」と思わせる日常があり、それがやや強調されるだけといってもいいだろう。会場は爆笑の連続。「醒めている」わたしなどでも引きずられることがあるから「すごい芸人だ」と思う勝手な価値基準がある。写真誌で最近話題となった素顔は傲慢な若手芸人とは「笑いの質」が違うのだ。さて、そのどこが違うのか。イッセー尾形さんを20年以上も演出してきた森田雄三さんの新刊『間の取れる人 間抜けな人』(祥伝社新書)を読んでいて、少しだけその秘密がわかったような気になっている。それは「沈黙は金」という言葉と結びついている。「間」のない人の話は息苦しいということでもある。もっと根底的にいえば、イッセー尾形さんの人生行路にあるのだろう。地下足袋姿でただ黙々と建築現場で働いていたイッセー尾形さんの心中には、演劇を続けるための固い意思があった。苦労をすればいいということではない。「ここにいて、ここにいない」ような生活。「困る」ことをコミュニケーションの基本に置くことができる生き方でもある。素顔は地味で目立つこともなく、しかもどちらかといえば消極的なイッセー尾形さんが輝く秘訣はここにある。素人が4日で舞台に上がるワークショップを見てから表参道ヒルズの「めい」で有機野菜にワイン。