日々の泡

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2015-09-19 10:15:09 | 社会
新しい時間を迎えようとする前に。

ちょっと振り返って今の自分がどこにいるのか、書き記しておきたい。
まったく噛み合わない不毛の討論が延々おこなわれている国会。国の重大な転換点になる「安保法制」についての審議にもかかわらずー時々ワタシは笑うしかなかった。

ワタシたちが社会に出る前、学校で学ぶことは、答えのある問題がほとんどだ。
頑張ってまじめに勉強すれば答えを導きだすことができる。
学校で学ぶことは、答えにたどりつくための過程を、なんどもなんども訓練することだ。
さて、学校を卒業し(学校という場所以外でも)社会にでたら、世界に「正解のあること」なんて皆無に等しいと気づくだろう。(ここに気づけないと「バカの壁」の前でひとり自分だけの世界を吠えることになるだろう)

「正解のない世界」で生きて行くことはとても難しい。
社会のなかで自分をつくっていかなければ。
人との出会いが、なによりも自分を育ててくれたと感謝している。
それとワタシの場合は、映画と本、だ。

以前、ちょっとだけ触れた「雪の轍」
これはまさに現在の世界情勢の縮図のよう。どうしてこんな表現ができるのか?!どこまでもわかりあえない人間同士。切り離されたふたつの世界。(その着地点に感動。)
どちらかといえばワタシは肉体派(笑)。知性で感じるものより、身体的な痛みをともなった感覚の方が入りやすい。それは昔、演劇を学んだことに関係するのだと思うけれど。遠藤周作の「沈黙」も、塚本版「野火」も、山本政志監督の「水の声を聞く」も。河瀬直美監督は、一貫してそんな作品を作り続けているし、あと吉本ばななの本たちも、とても最近の迷えるワタシを導いてくれている。そしてぼんやり辿り着こうとしていた着地点が、これらの(ワタシが共感する)作品と共通している(思い込みかもしれないが)ことが、ちょっと自分を元気にしてくれるのだ。それはこういうことだ。

たぶんこの表現が一番伝わりやすいので、朝日新聞9月17日付けの塚本晋也監督の「にっぽんの現在地」というコラムから、お借りします。
「身体性を伴った原初的な物言いだからこそ、強いのではないですか。国際環境の変化といった知識に根ざすよりも、人を殺すのは絶対にいやだという直観に根ざした方が強いし、結果的に間違いが少ない」
「これは映画監督の大林宣彦さんが言っていたことですが、何が正義かは教育が教えてきた。それは時代やその時の政治で大きく変化することがある。でも正気は、教えられるものではなく、確実に自分の中にあるものだと。これが正義だ、と教えられて人を殺してしまったとしても、それを正義だとは言い切れない正気の目線が、頭の上で常に自分を見ているはずです。以下ー」ここで全文が読めます

「戦争を描くなら、加害者の目線で描かなければいけないとずっと思っていました。」これも、ワタシはとても大事なことではないか、とずっと思ってきました。自分への戒めをこめて。

終わりではなく、ここから、だと思います。