人が偏った考えを持ってしまうことにスポットを当ててみる。
人間が生まれ出た瞬間からは、自己と他者との区別は恐らく付いていないであろう。2~3年は無理かもしれない?(無論個人差はある)
何ゆえ意識が持てないかは私も知らない、脳とかあらゆる組織が未発達のせいでもあろう。つまりそれぞれの組織のつながり、シナプスなどの組み合わせる関連性をまとめて、確立させるのに時間を要するからであろう?(つまり手と足がバラバラに動くようなことが、脳でも行われていると考えられる)
先ず自己ありきから、次第に他者の存在を意識するようになっていくものと思われる、が、どうだろう?自己を意識せずに他者を意識することから始まるとは思えないのだろうか?それもあるかも知れない?
さて、その後私たちは母親、家族、友人、先生、書籍、世の出来事等によりて
人格というものを形成していく、つまり、ある一点に向かって誘導されていくのだ。
殺人者は殺人をするべく方向へ否応なしに、性質、環境、志向のエネルギーに誘われる。
政治家に至る者はまたその方向へ向かうように性質と環境と志向が一致していくし、ゴルフを興ずる者は、興ずるに合う性質、環境、志向を備えている、行くのだ。
そしてそのように至るには、多かれ少なかれ何らかの影響をそれぞれに行き会った人たちから享受していくのである。
と同時に、本人も相手に少なからず影響を与えていく。
そんな中で、本好きな人は、その読む本から大きな影響を受ける。困ったことに、人は概して自分にとっての考えの合う、楽で心地良い本しか読まないであろう?
これが、「偏り」のスタートなのだ。
誰しも、気の合う友人と気の合う話をしたいだろうし、気持ちは分からぬでもないが、実はこれが「偏り」の基本形なのです。
これの怖いところはその「偏り」の中に埋没していると、偏りの事実を感じなくしてしまうことでもあって、真っ当のように見えてしまうことなのです。
教育を、ある方向への誘導と影響と捉えれば、いかにも教育の恐れ、それに携わることの恐れ、子供を育てることの恐れが理解できるであろう?ではどうすれば良いのだ?その「恐れ」が良く理解できたところから誘導と影響の教育が始まれば、それで良いのではないか?
そうでなければ、うっかり教育改革などと傲慢、無知蒙昧な大それたことも言えまい!
「偏り」を持つ者が、「誘導、影響」を後進に与えているのだ。
偏りが倍加する場合と、素直に等比の場合と、反面教師のスリーバターンに必ずなる。
しかしながらみんな偏りつつ、誘導、影響を続けていくほかないのだ。偏りがある意味、個性になって集合しながら、偏りを是正していくのではないだろうか?
だから、教育には強引であってはならない、謙虚でありたい。教え育むでもよいが、同時に先生として、親として教え育んでいただいている気持ちも大事なのだ。
道具は使いこなすほどに、ちゃんと使えよって教えられてもいるのである。偏った心はそれなりに道具も偏ってくる。道具が偏ったままなれば、心も偏ってしまうものだ。
人間が生まれ出た瞬間からは、自己と他者との区別は恐らく付いていないであろう。2~3年は無理かもしれない?(無論個人差はある)
何ゆえ意識が持てないかは私も知らない、脳とかあらゆる組織が未発達のせいでもあろう。つまりそれぞれの組織のつながり、シナプスなどの組み合わせる関連性をまとめて、確立させるのに時間を要するからであろう?(つまり手と足がバラバラに動くようなことが、脳でも行われていると考えられる)
先ず自己ありきから、次第に他者の存在を意識するようになっていくものと思われる、が、どうだろう?自己を意識せずに他者を意識することから始まるとは思えないのだろうか?それもあるかも知れない?
さて、その後私たちは母親、家族、友人、先生、書籍、世の出来事等によりて
人格というものを形成していく、つまり、ある一点に向かって誘導されていくのだ。
殺人者は殺人をするべく方向へ否応なしに、性質、環境、志向のエネルギーに誘われる。
政治家に至る者はまたその方向へ向かうように性質と環境と志向が一致していくし、ゴルフを興ずる者は、興ずるに合う性質、環境、志向を備えている、行くのだ。
そしてそのように至るには、多かれ少なかれ何らかの影響をそれぞれに行き会った人たちから享受していくのである。
と同時に、本人も相手に少なからず影響を与えていく。
そんな中で、本好きな人は、その読む本から大きな影響を受ける。困ったことに、人は概して自分にとっての考えの合う、楽で心地良い本しか読まないであろう?
これが、「偏り」のスタートなのだ。
誰しも、気の合う友人と気の合う話をしたいだろうし、気持ちは分からぬでもないが、実はこれが「偏り」の基本形なのです。
これの怖いところはその「偏り」の中に埋没していると、偏りの事実を感じなくしてしまうことでもあって、真っ当のように見えてしまうことなのです。
教育を、ある方向への誘導と影響と捉えれば、いかにも教育の恐れ、それに携わることの恐れ、子供を育てることの恐れが理解できるであろう?ではどうすれば良いのだ?その「恐れ」が良く理解できたところから誘導と影響の教育が始まれば、それで良いのではないか?
そうでなければ、うっかり教育改革などと傲慢、無知蒙昧な大それたことも言えまい!
「偏り」を持つ者が、「誘導、影響」を後進に与えているのだ。
偏りが倍加する場合と、素直に等比の場合と、反面教師のスリーバターンに必ずなる。
しかしながらみんな偏りつつ、誘導、影響を続けていくほかないのだ。偏りがある意味、個性になって集合しながら、偏りを是正していくのではないだろうか?
だから、教育には強引であってはならない、謙虚でありたい。教え育むでもよいが、同時に先生として、親として教え育んでいただいている気持ちも大事なのだ。
道具は使いこなすほどに、ちゃんと使えよって教えられてもいるのである。偏った心はそれなりに道具も偏ってくる。道具が偏ったままなれば、心も偏ってしまうものだ。