宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

靖国に思う

2006-08-15 08:59:29 | 政治
小泉さんの最後の「靖国参拝」
この靖国詣で、は重大な意味を持つ。
何故なら、「天皇さんの心」が表に晒された後であって、天皇教の信奉者を足蹴にすることがはっきりとすることなのだ。
まあ!もとより「天皇さんの心」は小泉さんには分かってもいたのだろうが、国民にはっきりと知らされた今回、それでも参拝する意味は大きい。
「所詮、天皇さんと言う存在は、政治を司ってきた先輩者たちの、利用できる見てくれの飾り物にすぎなかったのだ!」と言っているようではないか?

つまり「天皇の御心」を大事にするか、頭を垂れて敬うか?

それとも「日本政治と言うものを司るも、図らずも連合軍の軍門にくだり、死を持って償うしかなかった残念至極な先輩たちの御心に触れること」を大事にするか?の凌ぎあいであったのだ。

    昭和天皇をとるか、東条秀樹をとるか、の選択なのだ。

何処に、何処で、誰に敬具の念を持つか?それの意味するところは大きい。
天皇の御心が「公」にされてしまっても尚且つ参拝すると言うことは、「図らずも戦争犯罪者にされてしまった」先輩たちへの「哀れさ」への同情もあるに違いない。しかし、それは同時に天皇の御心を完全に否定するもので、言葉の重さを足蹴にしたことに変わりはない。
これで、アジア近隣国被害者の心、天皇の心、天皇を崇拝してやまない人々の心、戦争を真から嫌う人々の心、戦争を起こす元凶を作った人を忌み嫌う人々の心を踏みにじってしまったことになる。
例え孤立したとしても、日本国家のためにやったことが、犯罪者のレッテル貼られてしまった先輩を、自分だけは敬い、慕い、お守りしようと言う覚悟なのであろうが、多くの国民への罪深き行いを表わしてしまってもいることになるのだ。
「戦争を起草」した「運営したる」者達を断罪することができなくては、日本国家の運営者としてはその適格性を欠く。
例えば、ヒットラーさんや東条さんを、個人が敬い、慕うのは誰も止めることなどできないが、そもそも、その時点で、日本国総理大臣としては不適格なのだ。
日本を運営する責任者として、同じ元来た道を辿ろうなんて、誰も思わないに違いない。
彼には分かっていないのだろうが、嫌な思い出はみんな忘れたいと思ってもいるのだ。苛められた、レイプされた、殺人を目の当たりにした、人を殺した、盗んだ卑しい過去、それぞれに忘れたい思い出があるのだ。それらをまた、自らの心の中に蘇らせてしまうことになっていることなのである。
中国も過去を忘れて隣国日本と仲良くやって行きたいと思ってもいる筈だ、ところが蘇らせてしまうのだ、日清戦争と、日中戦争と二度のいたぶられ辱められた屈辱を・・・そしてその日本の謀略の数々も・・・・
日本のトップのセンチメンタリズムが、日本国民のみならずアジア諸国、世界各国の知識層の心に深くそれぞれ持っている傷を晒すことになるのだ。
あなたの(小泉さん)拠り所ならばそれはそれでも仕方がないことでしょう。しかし、何も総理大臣の立場でやることはないでしょう。それはつまり、日本国民全てに「自分の尊敬する先輩たちを」犯罪者の立場から解放してやって欲しい!と、主張しているようなものだ。それは戦争を是認するようなものなのである。
これで、これからの外交の運営が難しいものになっていくであろう。
他国の嫌がることを平然とする行いは、そのまま、他国から、日本が嫌がることを平然とされることにつながっていくのだ。相手にそう言う仕打ちをすれば、その仕打ちは何れ戻ってくる筈である。その時に怒りをぶつければ、自分勝手な国というレッテルが貼られる。従って、この影響は計り知れないことなのだ。
天皇の意を無視したことも、これからは何らかの形になって戻ってくるでしょう。
何度も言うが、
愛国心を持たせようとする「心」が戦争に導く罪であるし、それを理解しよう!
共謀罪をつくろうとする「心」の果たす行為がやがて厳密に行なおうとするものに向かう罪を形作るものになることを知ろう!
憲法を現状に即したものにしようとする「心」は、すでに「平和を尊ぶ心」「戦いをしたくない避けようとする心」からの変更とも言えて、罪人でもある。
有事法制も「戦いもあり得る」という「心」から発している。「争い事を戦争では解決しない覚悟の宣言」憲法の理念、憲法の心、から逸脱している。
嫌中とか、嫌韓とか、特定アジアとか、売国奴とかで、国民の心をタキツケルのは、もっとも罪が深い行いであって、昔の「鬼畜米英!」と叫んで戦争した行いと全く同一の仕業なのだ。それに乗せられてしまう日本国民のふがいなさも目に余るが・・・
だから、高市早苗さんが言うように「一部の人に戦争責任を押し付けるのはどうなのか?国民みんなも同罪ではないのか?と言う論がまかり通ってしまうのだ。
確かに流れに乗ってしまう、国民もそれぞれに責任はあるのだが、戦争を発動して、無知なる利に敏い人民を誘導していった者たちの責任は重大で免れるものではない。
これだけはどんなことがあっても守る!というラインは脳の中に確立しておかなければならぬ。
その自分の脳の中に確立しておくものこそが、国心の「憲法」での確立なのだ。
分かりやすく言えばつまりこんなことだ、ある女性が、結婚している男性とは絶対親しくならない!と心の中で確定したものを持っていれば、どんなことがあっても
「不倫」することはないし、そう言う男性との危険な状態を避けようと気を配るのだが、「愛こそが全て、愛に生きる」と思っている女性ならば、そのガードは甘く、近づく愛のもたらす魅惑に「不倫」の危険が訪れ、事件を誘発する。この場合の「不倫」は「戦争」
この際、「結婚している男性とは、絶対!親しくならない」との覚悟をないがしろにしてしまう心のガードの未熟さが不倫を誘発しているのであり、甘くないがしろにすることが、そもそも自業自得の罪に該当するのだ。
ガードを甘くしてしまうのは「憲法改正」の発議もあり、その他もろもろである。
だから「戦争を防ぐ」その芯になるものは、憲法であると言える。
このガードを甘くすれば事件、戦争を誘発する。そして、その犯人は、発議する者たちであり、同調して賛成する者たちでもある。
だからこそ皆さんは、一つ一つの法整備を真剣に考え、二十歳以上としての責任を感じながら対処しなければならないだろう。