ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

「正法眼蔵」の道元

2010年05月07日 | 日記
「正法眼蔵」の道元

 私の本棚に昭和43年出版、禅文化学院編、誠信書房刊の「現代訳 正法眼蔵」がありました。私が大学4年生の時に買って、そのままずっと読まずにいた本です。63才の今これを読んでみて、「ああ、21才のときに読まなくてよかった」と思いました。あの時に読んでいたらおそらく「ちんぷんかんぷん」で、こんな屁理屈のどこがいいんだと放り出していたところでしょう。これを読んですらすらと理解できる自分に、人生の年月を改めて感じます。

 この本は「正法眼蔵」95巻のうち12巻を選んで現代語に訳したものです。12巻とは「現状公案」「全機」「生死」「有時」「山水経」「梅華」「画餅」「弁道話」「仏性」「行持」「座禅儀」「菩提サッタ四摂法」です。
 体裁は下段に「原文」、上段に「訳文」を置き、上段の「訳文」の節毎に「要約」としての解説が書かれ、そして「原文」「訳文」「要約」が終わった後に、729に及ぶ「原文」の「註」がまとめられています。そしてその後に道元が生まれた西暦1200年から没した1253年までの道元の行いと当時の社会情勢とを記した「道元禅師年譜」を置いて、最後に「解題」として「正法眼蔵」全体と、ここに書かれた12巻の解説が書かれた、きっちりとした内容のものです。

 読んでいて分かったのですが、道元は大変な教養の持ち主で、その知識を駆使しながら聞く人達に解脱の境地をなんとか分かってもらおうと、いろいろな表現で説明しています。ところが説明が長くなればなるほど、又説明の字句が多くなればなるほど、聞く人達には理解が遠くなっていくようなところがあります。
 字句に捕らわれて「これはどういう意味なのだろうか」とか、「これは悟りの境地の喩えなのだろうか」と詮索していると、かえって訳が分からなくなります。
 むしろ本を読んでいる感覚ではなく、今ここで道元の講話を聞いているような感覚でリズミカルに読み進める方が、すらすらと理解することが出来ます。

 それでは少し、私の思うところを述べてみましょう。

 「現状公案」には「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり」という言葉があります。また「生死」にも「生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり、滅もひとときのくらいにて、またさきありのちあり」と出てきます。これは「生」と「死」の関係を示すところです。

 確かに、「生きるときには一生懸命生きることに没頭し、死ぬときには一生懸命死ぬことに没頭する」ことに異存はありませんが、普通の人にはなかなか出来ないことです。
 また「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり」と言うときに、「生」と「死」とが同等の価値を持つものであることは分かるのですが、一方で「生」と「死」とが分断されているような印象も受けてしまいます。
 もし「生」と「死」が連続して繋がっているものでなく、「生」は「生」として独立しているもので「死」は「死」として独立しているものならば、「死」は「生」の影響を受けず、また「生」は「死」の影響を受けず、それぞれ全く別の独立したものになります。そうすると「死」は「生」から「変化」したものではなく、「死」という概念は「永遠」のものになってしまいます。そして「生」もまた「死」から変化したものではなく、「生」という概念も「永遠」のものになってしまいます。そうだとするならば人の生命が終わったときに人は死ぬのではなく、「死」とは別のなにものかになってしまうのかという矛盾に突き当たってしまいます。

 ヒンドゥーイズム(インド思想)の真髄は「事象は転変する」であり、続いて「時間とは変化のことである」です。

 やはりここは道元に「変化する」、または「転じる」という言葉を付け足して欲しかったなあとついつい思ってしまいます。この言葉を付け足しておけば聞いている人達にも「生」と「死」の関係がずいぶんと分かりやすくなっていただろうにと思われるところです。もちろん、「生も一時のくらいなり、死も一時のくらいなり」とは、全くその通りではあります。

 次に、「時間」についての説明に移ります。「有時」で道元は「時は我から過ぎ去るものではない。過去の時も、我の現在のうちにある。我のうちには、常に現在がある」と言い、また「時が飛び去るだけであるならば、時と我の間に隙間ができるに違いない」とも言います。これは私にとってはまさに「我が意を得たり」です。「時間」とは「変化」のことです。そして「変化」するのは「私」です。「時間」は「私」を離れて別個に経過するものではありません。まさに「今」が変化し続けるありさまを「時間」というのです。
 道元はまた言います、「有時には経歴の働きがある。それは今日という日から明日という日へ経歴する」、「一切世界がめぐり動き、一切世界が進み退くことが経歴なのである」。・・・、参りました。

 さて、これまで道元の「生と死の関係」と「時間」についての説明を見てきましたが、続いては「空間」についての説明です。

 「山水経」で道元は「山の歩みは人の歩みと同じなのであって、たとえ表面的にはそのように見えなくても、それを疑ってはならない」と言います。また「梅華」では「老梅樹がたちまち開花するとき、花の開く世界が起こる。花の開く世界が起こるとき、春が来る」と言います。
 ここで私達は「山が動くとはどういうことか」と詮索せずに、字句の通りに読めばいいようです。また、「春という季節が梅の花を咲かせる筈なのに、梅の花が春を運ぶとはどういうことか」と詮索する必要もありません。
 私達は大きな山に向かって立ったときに、その迫力に感動します。心を動かされます。つまり私達の心が動けば山が動くのと同じことなのです。また梅の花と春という季節の関係については、「梅の花」と「春という季節」が響きあうのだと了解すればいいのです。

 これは「先ず主観と対象とが相対性の位置取りをし、続いて主観と対象の合一を知る」ことです。主観と対象との間に隙間はありません。

 さて、これまでは道元の解脱の内容についての説明を見てきましたが、「弁道話」では道元の仏教についてのありかたを示しています。
 道元は生まれ育った京都で臨済宗の明全和尚について仏教を学び、そのあと明全和尚と一緒に宋(中国)へ渡ります。そのころ宋(中国)では「解脱の体験」を旨とする本当の先生は大変少なくなっており、中国仏教は絶滅の危機にあったと道元は述べています。そうした中で道元はやっと天童山の如浄禅師に参じる機会を得、如浄禅師の下で解脱を得ます。

 「弁道話」で道元は彼の話を聞く人達に向かって言います、「師にまみえた始めの時から、ほかに焼香、礼拝、念仏、懺悔、読経を用いることなく、ただひたすらに坐禅して、心身の束縛を離れるように努めなさい」。これはどういうことでしょうか。「不立文字」を旨とする禅の立場から経典を用いないというのはよく分かるのですが、私には、どうもそれだけではないと思えるのです。
 これを知るのには道元の生きた鎌倉時代の仏教の有様を想像してみる必要があります。平安時代に唐(中国)に渡った空海は「解脱の体験」を旨とする教えを開き、それまでの教養としての仏教、教養としての経典を覆しました。これは日本仏教における宗教革命です。

 空海の宗教革命によって理屈の上では教養としての仏教から「解脱の体験」としての仏教に日本の仏教は変質した筈なのですが、政治的にも社会的にも、教養としての仏教は鎌倉時代に至っても力強く残っていたのでしょう。ですから道元は第2次の宗教革命を起こす必要があったのです。「経典を用いず、ひたすらに坐禅しなさい」というのはそういうことだと私は思います。そしてまた道元は日本にとっては仏教の本場である宋(中国)においても本物の仏教が絶滅の危機にあることを身をもって知っていたので、道元は言わば中国と日本の両方からの、偽りの仏教の挟み撃ちに会っていたとも言えるのです。道元も大変な思いをしましたね。

 最後に、「仏性」で道元は「世界が1つの自我によって成り立っているというのは、外道の邪見である」と言います。これはヒンドゥーイズム(インド思想)のブラフマン(真我)の否定です。また道元は「仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、外道の唱えた永遠の我のように誤って考える」とも言います。これもブラフマン(真我)やアートマン(真我)の否定です。
 仏教はヒンドゥーイズム(インド思想)の一環なのに、どうして道元は仏教をヒンドゥーイズム(インド思想)から切り離し、ヒンドゥーイズム(インド思想)を排除しようとするのでしょうか。そもそもその時代にヒンドゥーイズム(インド思想)という考えが無かったとすればそれまでなのですが、それではおもしろくありません。

 ここはもう1度道元の生きた鎌倉時代に戻ってみる必要があります。道元が生きていた時には栄西や法然や親鸞や日蓮が同じ時代を生きていました。そして道元や法然や親鸞や日蓮は既存の仏教勢力から暴力的な圧迫を受けています。ですから第2次の宗教革命を起こそうとする道元としては、「それは違う、これが本当の仏教だ」と、既存の仏教勢力と道元の考えとを対立する形で位置づける必要があった訳です。ここで道元がヒンドゥーイズム(インド思想)などというものを持ち出していたら、道元は既存の仏教勢力から叩き潰されていたことでしょう。先ずは「仏教」という概念にこだわって宗教革命に集中したのが道元の立場だったのかと私には思われます。

 今日私達は何の迫害も受けることなくヒンドゥーイズム(インド思想)を勉強することが出来ます。また、ヒンドゥーイズム(インド思想)への様々な入口から私達は入ることが出来ます。

 サーンキヤ哲学を勉強したければサーンキヤ哲学を勉強できますし、「ヨーガスートラ」を読みたければ「ヨーガスートラ」を読むことが出来ます。「バガヴァッド・ギーター(一大叙事詩マハーバーラタの1編を独立させて1冊の本にしたもの)」を読みたければ「バガヴァッド・ギーター」を読むことが出来ます。もちろんいろいろな仏教の経典も勉強出来ます。ヨガの道場にも入れますし、お寺で坐禅も出来ます。

 このような時代に生まれた私達は大変に幸せだと思う一方で、宗教の歴史を紡いできた人達の苦労は本当に大変なものであったと今更ながらに偲ばれます。




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6 コメント

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ありがとうございました。 (太郎)
2010-05-07 10:47:44
今回のご講義、濃い話なのに、ややこしい話が苦手の私にもスッと読み終えられました。ありがとうございました。
ヨガから (Ananda Bhavan)
2010-05-07 11:49:32
仏教から攻めずヨガから攻めると空海も道元も良く分かる気がします。仏教から入ったら、きっと迷路・迷宮の世界でしょうね。
分かりました (小田原)
2010-05-07 21:10:32
理解できました。私は、確か2年生の時に宗教学で正法眼蔵をやりました。かなり理解したつもりでしたが成績は「可」で、奥がかなり深そうだと思った記憶があります。道元は、中央権力とは結びつかずに、布教活動をしますが、これは、彼の家柄、出生、育ちによるところが大きいと思っています。曹洞宗最古の記録、弟子懐奘の筆録「正法眼蔵随聞記」はかなり分かりやすい?のにね。彼の時代は、仏教の民衆化?に迫られていましたしね。我家は曹洞宗です。宗派の違う寺や仏像を拝むときに、なんと言えばよいのか曹洞宗の僧に伺ったところ、「南無釈迦牟尼仏」と言えばよいと教わりました。
永平寺 (Ananda Bhavan)
2010-05-08 07:18:42
一昨年福井の永平寺へ行きましたが質素で閑静な佇まいは道元を偲ばせるものが有りました。あそこは京都から遠く感じますが琵琶湖を使えば京都へ一直線ですね。
曹洞宗 (太郎)
2010-05-08 10:08:21
私は鶴見の総持寺の近くで生まれました。江戸幕府によって、もうひとつの曹洞宗の本山とされたようですが、私たちにとっては良い遊び場で、塔婆をスキーにしたり、墓を通る級友が人魂を見たとか、思い出は多いのです。
石原裕次郎の葬式もここでしたね。
思い出すまま、失礼をば・・・
卒塔婆 (Ananda Bhavan)
2010-05-08 10:56:31
卒塔婆とはストゥーパを漢字に当てたもので「塔」を意味するのだそうです。「塔」が日本へ来て「板(スキー)」に変じるのですから面白いですね。

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