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「戦友」と云われて

2008-02-18 18:11:03 | Weblog

以下は、西村眞悟衆議院議員のメルマガからの引用である。

 

「中国から来た、毒入り餃子を食べ続ければ死ぬ。しかし、死ぬのは、食べた人だけである。では、中国から来る「南京大虐殺」をはじめとする「歴史の偽造」を放置し続ければどうなるか。

 日本民族が死ぬのだ。それも、生きながら腐って。古来中国のおぞましい「宮刑」を受けたように。

 即ち、青年から日本人の誇りと自信が奪われ、日本という共同体に帰属する意識をもてない砂粒のような存在に陥れられる。

 「戦争は手段を替えた政治である」といわれる。六十三年前までの「手段」は何か。それは、銃と兵隊であった。では、今の「手段」は何か。それは、「歴史の偽造」という謀略・プロパガンダである。即ち、今も昔も、手段は違っても、同じ戦争が継続しているのだ。

 従って、断じてこの中国共産党が仕掛けている「歴史の偽造」を打ち破らなければならない。これを実行できるのは日本民族しかない。

 何故なら、革命によって自国民を数千万人殺した中国共産党は、中国民衆の怨嗟の目を逸らす為に、日本に暴虐の汚名を着せておかなければ自らの権力を維持できないからである。

 また、アメリカは、日本の非戦闘員を殺すために、二発の原子爆弾を落として三十万人を殺し、都市を爆撃して東京だけでも一夜で十万人を殺した。このような人類史上最悪と言える無法を行ったアメリカにとって、自らの精神の安定を維持し良心の呵責から目を逸らすためには、本能的に日本が極悪の悪魔の国であったということにしておかねばならない。

 よって、中国はもちろん、アメリカもこの「歴史の偽造」を暴露することはできないのだ。ただ、日本、日本民族だけが、この「歴史の偽造」を克服することができる。

 これは既に、戦争である。戦争は続いていたのだ。この中で、この度、水島監督により、「南京の真実」が制作された。これを第一部として全部で三部作となる。この映画の力は、真実に基づいているが故に陸軍部隊百個師団の力に匹敵するであろう。これは、今の我々とかつて生きた先祖と、これから生まれる我々の子孫の為の戦いである。

 従って、この映画を観るために雪の中を集まった我々は、既にこの戦いの「戦友」である。」>

 

以上。

 

 

西村眞悟は、斯くも素晴らしき政治家であり、愛国者である。日本民族の誇りを一身に背負い孤軍奮闘されている。全力で応援すべき政治家であり、父親であり、人間である。

 

 

 

しかし、西村眞悟を知っている人と知らない人では、比較を待たないほど、知らない人の方が多い。西村先生が弁護士法違反で捕まった頃、教室で西村眞悟の話をするが、60人ほどいた「神戸大・ハイレベル国公立大選抜クラス」の大半は知らなかった。西村眞悟という名前すら知らなかったのである。ましてや桂米朝(人間国宝)など知る由もない(でも、桂ざこばは知っていた。これが今の日本人のメンタリティーである。昨今「お笑いブーム」といわれているが、これは決して「お笑いブーム」などではない。テレビで垂れ流されている「お笑い」番組は果たして「お笑い」なのか。「言葉の無駄遣い」がとても気になる。ある程度の知識があり、その知識を“くすぐる”ことで起きる“むずがゆさ”が「お笑い」の原形であったと思う。しかし、そのような知識の琴線に触れるような真の「お笑い」はもう「お笑い」ではないのだろう。あの程度の番組でないと、視聴者がついていけなくなり、視聴率がとれなくなったのであろう)。

 

 

ましてや、西村眞悟のメルマガを読む人間など、日本の人口から見たら何パーセントになるのか。仲間内で褒めあってるだけではいけない段階に来た。左翼のしたたかさを見習おう!とニタニタ笑っている場合ではない。

 

西村先生は、われわれのことを「戦友」と仰った。正直、身が引き締まる思いがする。また、実際戦場へと立ち向かわれ、日本の礎石となられた英霊の御霊に対し、より一層の感謝の念が沸き起こる。今現在の国際事情は、まさに“情報”戦争であり(情報戦争は“ドンパチ”やってる頃からも継続して行われている)、日本は近隣各国から攻められ続けているのだ。武器以外の手段で「敵国」を滅ぼすことなどいとも簡単だ、との証左にならぬよう戦っていかねばならぬ。だから、われわれは武器ではない兵器、つまり“情報”を手にして戦わねばならぬのだ。

 

と思ってみたものの、われわれを「戦友」と呼ぶのは、やはりおこがましいにも程があるのではなかろうか。

 

かつて、「戦友」と呼ばれ呼び合った方々は、武器を手にして戦われた。果たして何のために戦われたのか。ご自分の命と引き換えに何を守り通そうとなさったのか。

 

それは、愛する故郷のためであり、クニ、日本のためであり、天皇陛下のためであったのだろう。もちろんご自分のご家族や友も含まれるに違いない。漠然としたもののために命を賭して戦うことはできないと思うし、当時の「神風」エネルギーには、理屈を超えたものがったことは想像に難くない。

 

では、われわれは一体何を守ろうとしているが故に「戦友」と呼ばれるのか。

 

答えは簡単。ご英霊が守ろうとされたものと同じものを守ればよいのだ。しかし、実際にドンパチと攻め立てられているわけではない。“情報”という武器で攻め立てられている。では、防禦線をどこに張ればいいのか。

 

どのように攻められようとも、がっちり固まった頑丈な<日本の伝統・文化を守る心>を持ち合わせることが必要ではなかろうか。決して攻めきることができない城壁を建てる。日本の伝統文化が永遠ならば、日本そのものが永遠である。自分の足元に転がっている、いや省みられることさえ少なくなった日本の伝統文化を心に抱き、毎日実践するだけでよい。

 

日の丸を愛せ。君が代を覚えろ。天長節を始めとする皇室の伝統を知り、国民として自然に祝賀できるような恒常性を持とう。ただ、破壊の進度も深度も激しいので、しばらくは不自然なくらい大仰な態度で臨むべきだ(人権擁護法案、竹島、南京などにはすんごい情熱を見せるんだけど、「地味な」伝統には結構無関心な人多いのは残念)。

 

今のわれわれを「戦友」と呼ぶのは、「天皇陛下萬歳と叫んだ声が忘ら」れない「戦友」の方々に申し訳ない。

 

と初めて西村眞悟先生に逆らってみた。


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