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百ヶ日忌<改>

2008-02-21 23:39:48 | Weblog

本日(2月21日)は、故・秀雄の百ヶ日忌です。

 

あれから100日経過したのですね。早いのか、遅いのか・・・

 

大晦日、「明日が四十九日ですねん」と言ってから、またお正月に「今日が四十九日ですねん。せやから『おめでとー』言えませんねん」と言ってから、ずいぶん経ったように思うのですが、まだ100日なのですね。

 

流石にもう、一時のように毎日早朝に涙して起きるということはありませんが、ただ、ふとしたきっかけで思い出します。いったん思い出すと、激しく嗚咽してしまうこともあります。

 

しかし、百ヶ日忌は「卒哭忌」ともいい、悲嘆の涙から卒業する日でもあります。本日、みな集まって盛大に供養しました(でも、やっぱりわしは、ドンちゃん騒ぎ、宴会、酒宴は嫌いだ。父親は逆にこういうのが大好き(っちゅーか、本人が一番騒ぐ)だったんで、今日のところは、まぁ良しとしよう)。

 

というわけで、わし以外の人間がどんちゃん騒ぎの酒宴を催したので、さぞ父上も満足されたことでしょう。成仏したとの報告を壮年部wwwの○○さんから受けましたのでwwwwwwwwwwwwwwww

 

話は変わりましてえぇ~

 

曽野綾子著『「集団自決」の真実』(WAC)を読んでいて驚いた。トーマス・マンからの引用があったからだ。学生時代、いろいろと悩んでいたとき、仏文科の先生がボルテールの作品を薦めてきたので、いくつか(原文で)読んでみた。しかし、ますます悩みというか疑念が深まってしまった。当時わたくしは人間のもつ原罪に対するようなもの、今から思えばちんけなヒューマニズムであったようにも思うが、そのようなものに真剣に思い悩んでいた。とき恰も湾岸戦争が勃発し、難民の不条理と、バブルの花咲く経済大国日本との乖離を眼前に突きつけられた。生まれたときから生じる不平等、無限遠点にいる神の態度。このようなものに対して臍(ほぞ)を噛んでいた。ボルテールは、「不幸があるから、幸福が分かる。嵐が来るから平穏が分かる。だから、不幸な人間、貧乏な人間がこの世にいるのだ」という感じのことを述べてたと思う。

 

この陳腐な台詞以来、わたくしはボルテール及びフランス文学から遠ざかってしまった(マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』は、買ったんだけど、ほかしてしまいました。あぁ)。しかし、修士課程の頃だったか、トーマス・マンの以下の文面に出会った。これは(たぶん)中ノ島図書館の外で拾った本であった(ちょっと記憶曖昧)。そのときわたくしは慧眼したかのように目から鱗が落ちたのだ。

 

 

トーマス・マン『非政治的人間の考察』

<いかにも絵にかいたような血まみれで凄愴そのもののような悲惨が、この世で最もどん底の、ほんとうに最も怖ろしい悲劇ではない。義眼を投げ合うような気持ちさえ失せてしまうほどの苦しみや悩みが、たましいの凌辱が存在する。だれひとり介抱してくれない、いかなる公共的博愛事業もかまってくれない負傷が、名誉も鉄十字勲章ももらえず英雄扱いもしてもらえない内面の不具化が存在する。このような内面的負傷者は、秋の日ざしの中を手を引かれて散歩しながら、世間の人々に教訓的な感動をあたえたりするようなことは決してないが、われわれが永遠のデモクラシー的国際平和の祝福を享受するときが到来しても、この世界はこれらの内面的不具者で充満していることであろう。世界は、戦争になる前には『人間の品位にふさわしくない』悲惨で充満していた。シチリアの硫黄坑における囚人労務者たちの生活や、ぞっとするような貧困の中で堕落し、虐待のために不具になるロンドンの東部貧民街の子供たちの生活ーこれが一九一四年以前の世界であった。破廉恥きわまる不正行為がおこなわれながら、加害者は罰せられることもなく、大きな顔をして歩き廻り、被害者にはなんの補償も与えられない。骨盤骨折や火傷をともなったような肉体的苦痛、病気、放蕩、情事、悔恨、老齢、そして苦しい死ーこれが戦前の生活であった。苦悩を目的論的に解し、困窮のみが文化をうみ出す、苦悩がなければ同情もありえない、不正のみが正義感をめざめさせる、苦痛がなければ道義心は地に墜ち、人間の生活は無為徒食に終始することになるが、そのような生活を幸福と呼ぶことはできない、苦痛こそが快楽を引きたたせるのだ、とほざくのもよかろう。それとも、厭世主義者となって、人生を罪にけがれ、罪過そのものであるこの生をー人間どうしたがいに狼であり、自分がよじ登ろうと思えば他人を蹴おとすしかないこの人生を、改善の見込みがないとして告発するのもよいし、生の批判者となて、殲滅的な言葉で生を糾弾し、懲罰にかけるのもよかろう。芸術を炬火(たいまつ)に仕立てて、存在のすべての怖ろしい深みを、恥辱と痛恨にみちた奈落の深淵をのこるくまなく慈光で照らすのも結構だろう。精神を炎と化し、それで、世界のあらゆる隅々まで放火し、世界を燃え上がらせ、救済しようとする同情の念をもって世界をそのすべての汚辱や責苦もろとも滅ぼし去るのもご自由だ。だが、戦争反対という政治的・博愛主義的な悲願(ラメント)を得々としてうたうことだけは、やめてもらいたい!まるで戦争が地球の顔を汚したかのようなー戦前には子羊のそばで虎が平和に草を食んでいたかのような態度をとることだけは、やめてもらいたい。こんどの戦争で博愛主義者になった文学者は、この戦争を畜生道におちた恥辱である汚辱であると感じない者はすべて反精神的人間であり、犯罪者であり、人類の敵であるなどと吹聴してまわっているが、わたしはこの宣言ほどたわけたでたらめを知らない。

 愛!人間性!わたしはそれを知っている、自分の民族に嫌悪をしめすために、もそもそと口にされるこの理論的愛と教条的人間性を。わたしは、知っている、当節の文学のはやり文句を。そのはやり文句が吐かれる芸術作品をも。こういう作品に出て来る人間性は、知的要請、文学的教義、意識的なもの、意図されたもの、受け売りものにすぎない。つまるところ、そこには人間性などかけらもありはしないのだ。これらの作品は、一般読者や批評家たちが修辞的政治的な人間性要請を人間性そのものと取りちがえてくれるおかげで、かろうじて生きながらえているにすぎない>

 

この一節に出会って以降、人々の欺瞞が分かるようになった気がする。どれだけ美辞麗句を並べたてても「エセ」と分かってしまうのだ。ありがたいやら、ありがたくないやら。

 

門松や

  冥土の旅の一里塚

 めでたくもあり めでたくもなし

 


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1 コメント

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Unknown (しっぽ)
2008-02-22 08:23:24
私の父も、3年前に亡くなりました。
ずっと恨んだり、軽蔑したり、していて、父がいたおかげで今の私が存在すること、こんなに影響を受けていたことに気がついたのは亡くなってからでした。
もう涙も出ませんが、たまに思い出して語ろうと思います。
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