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だから英語は教育なんだ

2008-04-08 18:41:46 | だから、英語は教育なんだ

「授業のあり方に課題」学力テスト45番目の大阪府が指針

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080304/edc0803042305004-n1.htm

 

 全国学力テストの正答率が、実施対象の小6、中3でいずれも大阪府が全国45番目となったことを受け、府教育委員会は専門家による成績低迷の原因分析と改善策を盛り込んだ「学校改善のためのガイドライン」をまとめた。応用問題の成績不振の背景を、児童・生徒に対するアンケートの全国値との比較をもとに「授業のあり方に課題がある」と指摘、教員の説明中心の授業を「一方通行」と批判し、改善を求めている。今週末にも公立小中学校、市町村教委へ配布する。

 全国学力テスト公立校の平均正答率は、沖縄県(小中ともに47番目)、高知県(小学校37番目、中学校46番目)などの地方が低かったのに対し、都市部を擁する東京都(7番目、30番目)や愛知県(22番目、9番目)は好成績だった。

 府教委は、大阪が塾や受験情報が充実した大都市圏にありながら学力が低迷している点を問題視。有識者らでつくる「府検証改善委員会」と共同でデータの分析を進め、各校の授業改善の参考にしてもらうためのガイドラインを作成した。

 大阪の児童・生徒の正答率は、特に応用力を試す問題で低迷。中学国語は全国平均72%に対し65%、数学は同60・6%に対し55・3%だった。

 この原因についてガイドラインでは、「国語の授業で自分の考えを書くことが少ない」と答えた中学生が48・2%(全国平均35・4%)、「算数で学習したことを生活の中で活用しようと考えない」という小学生が44・6%(同37・7%)に達しているデータに着目し、「活用力がはぐくまれていないのではないか。授業のあり方に課題がある」と結論づけた。

改善の方法については「解決への過程を重視する」(算数・数学)、「教員の説明ばかりの一方通行の授業から、自分の力で作品に向かう授業へ」(中学国語)などと提案。国語の場合では、各学年で教える言葉の整理表を小中共同で作成、系統的に語彙(ごい)を増やすといったプランを紹介し、一貫した方針に基づいた指導を求めた。

 さらに、課題のある児童の保護者に対し、家で学習時間を設けるよう個別に働きかけている小学校の事例などを紹介し、家庭と連携した取り組みの重要性を強調した。

 橋下徹知事の緊縮財政方針により現在のところ、府独自学力テストをはじめとする新規事業は見送られている。綛山(かせやま)哲男教育長は「学力向上は最重要の課題。まずは予算を必要としない取り組みを、校長のリーダーシップ、教員のチーム力で進めてほしい」と話している。

引用以上。

 

数年前、大阪南部の某「教育困難高校」で英語の教師をしている人とお話をした。その方は、すっからかぁ~んな脳みそ、かつ自堕落を絵に描いたような生徒を相手に授業をする“コツ”を披瀝しておられた。「とにかく、黒板にどば~~っと書くんです。息つく暇もないくらい。ひたすら書く。それさえ覚えれば試験に落第することはない、というテストを出す。すると生徒はカンネンして授業を受けます。必死で黒板を写します」と、仰ったときの嬉々とした表情が忘れられない。

 

正直、虫唾が走った。「お前、それが授業と呼べる代物なのか?」と彼に問いたかった。「君はなぜ英語の教師になったのだ」「君は教育をしているのか」「英語教師としての矜持は何だ」「英語教師を続けるモチベーションはどこにある」「生徒を給料のタネにする方策が、テストなのか」など。おそらく彼は、「おれは授業が上手いんだ」「教育者なのだ!」と内心威張っていることだろう。

 

受験科目から英語がなくなったとしても、あるいは英語よりもフランス語が重要という時代が来たとしても、おまえは英語の教師を続けるのか。お前が英語教師を続ける理由はどこにあるのだ。英語を教えることによって、生徒は何を学び、成長し、学び舎を巣立っていくのだ。生徒がこの学校で“生徒”といわれ、お前がこの学校で“先生”と呼ばれる理由はどこにあるのだ。試験という媒体が無ければ、脆くも崩れ去ってしまう授業を授業と呼べるのか。第一、そもそもそれは、“教育”なのか。

 

根本的な問いに答えよう。なぜ義務教育の時代から我々は英語を学ぶのか。

 

英語を学ぶということは、「入り口を増やす」ということなのである。われわれは通常日本語の“部屋”で生活している。しかし、もう一つ英語という「入り口」があれば、今居る部屋から出て別の部屋へ行くことができる。また、日本語という入り口が仮に壊れた場合でも、英語という別の入り口を利用することができる。少なくとも複数の入り口を持っている方が風通しがよく、心地よい思いをすることが多いだろう。もちろん、いつでも今いる部屋に戻って来るこだってできる。さらに、英語のドアからなら、日本語のドアがよく見える。自己を客観視することが可能だ。英語を学ぶことの意義を一言で言えば「複眼的、巨視的、鳥瞰図的視野を持つ目を養う」こと。これが英語を学ぶ意味であり、巷間溢れる英会話学校との違いである。

 

小渕首相のとき、「『21世紀日本の構想』懇談会」が「英語の第二公用語化」を提唱した。(6,7年前、中曽根康弘が「英語を公用語に」と言い出し、それをカンサンジュという壊日の御仁が支援したりなんかしました。古くは渡部昇一氏と参議院議員であった平泉渉氏との『英語教育大論争』があったが、この辺りから書いていくと、怖ろしく長くなってしまうので、今回は泣く泣く止めることにする)。英語教育といえば、「空港」、「お店」、「町」を舞台として、ネイティブ・スピーカーと(不自然な)やり取りをする「英会話」の“失敗”を克服することに重点が置かれ、「聞く」「話す」を相互強化するような要望・論文・意見ばかりが溢れている(ところで、「受験英語」って何だ?そんな得体の知れない実体の分からない言葉を無批判に使うなよ。言葉の重要性が分かっているなら、変な言葉を使い、さも分かったかのようにレッテル貼りをするのは止めなさい。無神経にも程があるぞ!!)。しかし、体育の授業は、スポーツの達人を養成することを目標としているのであろうか。体育のできる人もいればできない人もいる。得意な人もいれば不得意な人もいる。全国民がスポーツ万能というのはおかしいし、あり得ない。あるいは、美術の授業は美的センスを「公用語」のように日本国民全員が身に付けるために存在するのであろうか。せいぜい、「ないよりは、ある方がいい」という程度ではないのか。英語の授業にだけ「英語を公用語」にすることを求めるのは、ハードルが高すぎやしないか(一応、これくらいの議論は“素人”でもできると思います。実はここからが私の真骨頂発揮!という所なのですが、残念ながらこのブログは1つの記事で10000文字が限界なので、この辺のところを本気で書きまくると字数がどんどん消費されて、肝心な結論に達せなくなります。ということで、今回はこの辺のことを書かずにまたの機会に譲ります。だんだんと本気モードになって来ましたんで、っちゅーか書いてるうちにだんだん腹立って来たんで、またきちんと書きますわ)。

 

違うのだ。英語を学び入り口を増やすというのは、英語を無尽蔵にペラペラ(←わし、この言葉が大嫌いである)喋りまくる能力のことを言うのではない。丁々発止やり取りができること自体は結構だが、しかしその英語「力」を駆使して話される“内容”が非常識であり、あるいは間違った内容であれば、そのような英語「力」は百害あって一理なし、である。間違ったことを英語で世界に発信するのは、明らかな愚行であり、しかも英語コンプレックス(←ここからそもそも間違っている)の多い日本人からは、英語が“できる”人と一目置かれるのであるから、こんな害悪はないであろう。中身が無いのに持て囃されるのは、双方にとって不幸なことである。

 

もっと根本的なことを言おう。そもそもそのようにペラペラ英語が“できる”人間を作ることを目的とする“授業”は果たして“教育”の名に値するのか。

 

一つ例を挙げよう。指揮者の小澤征爾氏はNHK交響楽団(N響)と喧嘩し、見捨てられた。凡人はここで腐ってしまうが、彼は一念発起しヨーロッパで自己の実力を試すことにした。彼の名声はヨーロッパ中に轟き、ついにはN響から、三顧の礼をもって向かい入れられることとなった。

 

つまり、英語の扉を開け世界に羽ばたいた小沢氏は、自己を卑下することも、他人を貶めることもなく、新しい世界で「生き抜いた」のである。もし、小沢氏に「英語の扉」がなかったら、今頃どのような人生を送っているであろうか。あるいは、彼の子供や孫はどのような生活を送っているだろうか。堕落した人生、狂った人生は、その人一代で完結するのではなく、いつまでも子々孫々まで影響を及ぼす。あるいは、その人の周りの人生にも悪影響を及ぼすことさえあるだろう。英語が「授業」の「科目」となっており、集団の中で先生から生徒へ教授される意味はここにある。

 

入り口を増やした結果、生きる力が養われた。つまり、入り口の数が多いということは、生きるための方便が増えるということだ。生きるためには命が必要であり、英語を学ぶことは命を学ぶことであるのだ。そして命を授けるのが授業なのだ。目先の利益や損得、ましてやテストで及第点を取ることを、あるいは第一志望校合格を至上命題とする授業はもはや授業とは言えぬ。

 

それは、調教と言うのだ。

 

「生きる力」という言葉が人口に膾炙したが、その実体が分からぬまま言葉だけが独り歩きをした感は否めない。果たして文部科学省の糞役人もどこまで考えてこの言葉を使ったのか。

 

「生きる力」とは、「人生の入り口を増やす力。その入り口から自由に出入りできる力」のことを言う。円周率をどうするか、台形の面積を教えるか、4桁以上の計算を何年生で教えるか、などは全て小手先のことだ。覚えておけ、糞役人ども。

 

以下は、三浦孝、弘山貞夫、中嶋洋一(編)(2002)『だから英語は教育なんだ』(研究社)からの引用である。

<・・・大学を卒業してから23年間、高校で英語教師を務めた。実はその最初の12年間というもの、1人1人の生徒の「いのち」があまり見えていなかった。

(略)

英語で赤点を取るような生徒を、ワンランク下の人間と見下していた。授業中、理解の悪い生徒や、発音の下手な生徒、英語のできない生徒を見ると「いったい中学で何を勉強していたんだ」とさげすむ自分を脱却できなかった。

(略)

その工業高校の2年土木科にTという生徒がいた。授業中に私語やよそ事が多く、教師に対する言葉もぞんざいなので、私は彼が苦手だった。いつも授業に行く前から、Tのことを考えると気が滅入った。たまにTが欠席していると、気分が軽くなって、授業が非常にやりやすかった。

 ある時、そのクラスに“When I was a baby,”で始まる文を完成させる課題を与えた時、Tが“When I was a baby, I was 4,100 gram.”と書いたのが目にとまった。「めずらしいなあ、よく自分が生まれた時の体重を覚えていたね」と言うと、Tはニコッと笑った。Tはこれまでに暴力行為で3回謹慎を受け、退学すれすれの粗暴な生徒だった。放課後、Tの担任に彼の英文の話をしたところ、「Tの母親は彼が中学1年生の時に病死した。父親はTの面倒を見ず、酒癖が悪い。Tが悪くなったのはそれからだ」と知らされた。4100グラムは彼にとって、亡き母と自分を結ぶきずなの数字だったのだ。>

 

英語の授業は言語活動である。しかし「言葉はコミュニケーションの道具だから、通じればいいのだ」という意見がいかに浅はかであり、いかに愚かなものであるかお分かりいただけるであろう。

 

もう一つ同書から引用する。 

<藤原少年は17歳の時にふとしたはずみから殺人を犯し、懲役7年半の刑を受けて少年院に収監された。喧嘩早く、抑制のきかない性格のため、他の少年とトラブルが絶えず、院内でたびたび大乱闘事件を起こして相手に大怪我を負わせてしまう。そのたびに懲罰として手足を縛られて独房に閉じ込められた。ある時、独房で荒れ狂って疲れ果てた耳に、中学1年生の英語教師の声が聞こえてきたような気がした。それは彼の英語の発音を誉め、よく教科書を朗読させてくれた若い美しい先生だった。

 翌年、教師が替わって授業はむずかしくなり、彼は落ちこぼれて学校から脱落してしまうこととなった。

 少年院で自暴自棄な野獣のような状態にあった彼が、さながら地獄に垂れる一本の救いの糸をつかむように、中1英語の思い出にすがって、見事に自分を立て直すことになるのである。翌日から彼は寸暇を惜しんで中1英語の勉強に没頭し、さまざまな困難に出会いながら独学で中学英語を終了し、高校英語へと進む。他の少年から挑発やいやがらせを受けても、「英語の勉強から片時も離れたくない」ため我慢し、徐々に自分をコントロールするようになっていった。厳しい消灯時間、びっしり組まれた訓育や工場実習など、英語学習の不利な条件をものともせずに寸暇を惜しんで勉強し続けた。7年半後、模範囚として出所した彼はトラック運転手やタクシー運転手として働きながら猛勉強を重ね、ついには外資系合弁企業の通訳として採用されるに至ったのである。この話は実話であり、藤原氏は今も立派な市民として健在である。英語を学ぶことは1人の人間にとってこれほどの価値を持ちうるものである。>

(ibid)

 

誤解しないで欲しい。これまで我がブログをたびたび読んでこられた読者諸賢の方はお分かりだと思うが、わたくしはこの手の「美談」が「エセ」にしか聞こえない。この少年のために傷つけられたり殺されたりした人やその親族はたまったものではない。いつも言っているように、「自分のマイナス点を武器にその反動でプラスに転じた人間を私は認めない。なぜならば、人生に転びそうになっても転ばずに耐え、耐え忍びながら人生を全うした人間の方が偉い」と思うからだ。

 

しかし、わたくしがここで問題にしたいのは授業のあり方である。果たして上記に記した大阪南部の某教育困難な高等学校で禄(ろく)を食む(はむ)教師は、藤原氏の人生に「いのち」を吹き込めるのであろうか。わたくしには、彼の顔と、藤原氏が中2で人生が狂い始めるきっかけとなった英語教師とがだぶるのである。

 

次は、今は亡き若林俊輔先生、そして尊敬する根岸雅史先生の共著である『無責任なテストが「落ちこぼれ」を作る』(大修館)からの引用である。

<ある中学生の言葉である:「私は英語は好きなのですが、英語の授業は嫌いです。なぜかというと、授業で先生が使う日本語がまるでおかしいからです。聞いているうちに気持ちが悪くなるのです」。彼ないし彼女は、英語が好きになりたいと思っていた。しかし、不幸なことに、彼ないし彼女の日本語感覚はあまりにも正常であった。そのため、彼ないし彼女を教えた英語教師のあまりにも貧しい日本語を嫌悪したのであった。彼ないし彼女の英語学習意欲を妨げたのは「英語」そのものではなかった>

<・・・このようないわば機械的な操作能力を長年にわたって求めてきた結果として学習者の言語感覚を全く麻痺させてしまったことを問題にしたい。言語感覚を麻痺させる言語教育などというものは存在しないのであるし、また存在させてはならないのである>

 

黒板に字を書きなぐり、その内容をテストに出題することで生徒を脅し、授業をおとなしく受けさせるように仕向けるのは、感覚が麻痺した調教であり、およそ“授業”とは呼べぬ。躾は必要である。それには首肯する。しかし、1年間、あるいは2年間、3年間と、授業とは呼べぬ授業を展開し、躾を永遠とし続けなければならないのは、生徒にとっても教師にとっても不幸なことであり、その全責任は、プロというラベルが貼られる教師にある。

 

土屋伊佐雄『人間中心の英語教育』(ニューべりハウス社)から引用。

<(美術の授業を見学。生徒は竹ペンで絵を描いている)・・・嘱託の指導主事であった老先生は、あるクラスの最前列の女の子の前に立ったまま動こうともしない。(略)しばらくその作業を見つめていたが、やがて、その女生徒に声をかけた。「あんた、立ってごらん」女生徒は整った顔に困惑の色を浮かべて、老先生を見上げた。(略)「さあ、こんどは竹ペンのもっと上を持ちなさい」と指示した。いかにも賢そうな女生徒は、エンピツを持つような手つきで竹ペンの下の方を握っていたが、言われて恐る恐るほんのわずかその手を上にあげた。「もっと、もっと、上の方を」女生徒は呪文にかかったように、竹ペンの中程を持った「そう、そう。こんどは、墨をたっぷりつけてごらん。もっと思い切って、たっぷりと。そう。さあ、立ったまま、これで描いてごらん」

 あとで分かったことだが、先生は、この女生徒の絵が余りにもおとなしすぎる。せっかくの竹ペンに墨という道具たてだが、エンピツを持って字を書くように、竹ペンにほんのわずか墨をつけ、竹ペンの下の方を持ち、その握った手や肘を机にくっつけたまま、ゆっくりと同じ速さで、同じ勢いで、同じ太さの線を画用紙の上にかいているのに注目して、これを改めさせるために、いろいろと指示を与えたのだった。しかし、先生の忠告にもかかわらず、女生徒は以前と同じように、同じスピードで、エンピツで字でも書くように、同じ太さの線をゆっくりと画用紙の上に描いていった。先生はやがて女生徒に坐るよういい、「今わたしが言ったことを時々思い出しながらやってごらん」と、言い残して、教室を出た。

 私は、廊下を歩いてゆく先生を引き止めて、伺ってみた。

 「先生、なぜ、あのような指導をしたのですが」

 先生は笑いながら、「あの子はいい子だ。真面目で几帳面な性質のいい子だよ。きっと、成績もいいだろう。しかし、おとなしすぎるな。あれでは絵は描けない。製図だよ、あれは。だから立たせて、たっぷり墨をつけさせ、エンピツを持つような手つきを変えさせて、勢いよく描くことを教えたかったんだ。でも、まだまだ出来んだろうな、あの子はおとなしい子なんだね」

 私は、さらに続けた。「あの子が、墨をたっぷりふくませて、強弱をはっきりつけて描けるようになることは、あの子が変わるということなんでしょうか」。先生の答えは明瞭だった。「そうだよ。だから、美術は教育なんだ」。>

 

教えたいことが教師にないなら、教師を辞めるべきだ。教えたいことがあるなら、それを何とかして生徒に教える努力をすべきだ。生徒が聞かないなら、聞くように仕向けるべきだ。「英語ができれば10億人と友達になれる」「就職に有利」「かっこいい」「受験に有利」という利益を生徒にぶら下げたところで、英語をマスターできる生徒はほんの少しである。大部分の生徒は英語とは“無縁”の人生を送るのである。

 

英語を通じて、人間が成長する。英語の授業で生徒が変わる。これがあって初めて授業と呼べるのだ。英語を学ぶことによって、自分の持っている入り口が広がった。人間として変わることができた。

 

 

そう!だから英語は教育なんだ!!

 

 

ということで、橋下徹大阪府知事、ならびに文部科学省の役人および大阪府教育委員会の担当者へ。授業のことは、授業のプロに任せなさい。


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1 コメント

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真面目ぶろぐやw (canako)
2008-04-09 00:33:54
>授業のことは、授業のプロに任せなさい。

その授業のプロってどのくらいいるんでしょうか?
学校の先生でももちろん塾・予備校の先生でも、どれだけの人間が『授業のプロ』足り得るのか、そういうことを考えてしまいました。

『授業のプロ』を育てるなんらかの機関があれば良いのでしょうけどね。



少し見なおしましたw
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