何回行ってもわからなかった史跡の場所がわかりましたぁぁ!
こちら で書いたとおり「地元人が探しときますよッ」と安請け合いしたものの、マジで見つからん…
そのまま年も越してしまいまして…。
困った時の、山口市文化財保護課様
いきなり行って
「スイマセン~、錦小路サンと広沢さんのお墓が、看板に従って行っても行き止まりで見つからないんですけど」
と聞いたら(内心、打てば響くように返答があるとは思ってなかったのに)、さらっと
「ああ、これね、この道、車で行くと入れないんですよ。こっちかこっち(地図の青い線)から回ってください」

一発解決
偉いっっっっ。
(偉いけど、できれば看板も改定していただけると嬉しい…
)
ぐるっと回り込むように行く道はかなりの坂で、はっきり言って山。
ここは山を切り開いた分譲住宅地なんです。
山の元の持ち主知ってます。土地の旧家、美祢さんだ。
このふもとにでっかい家もあったのですが、住む人がいなくなって、受け継いだ人が市に寄贈してしまいまして、市でも使いこなせないので、結局別の場所(市内竪小路の伝承センター内)に縮小移築され、今は空き地になってます。
分譲地の名前は「錦パークタウン」とあった。
そこで初めて、
「あ?ここらへんの「錦町」ってのは、錦小路からつけたのだろうか??」
と思ったのでした。(正解だそうです)
(そしてパークタウン案内図には「公園」と書いてあった。公園じゃない気がするのだが~。墓だし。神社だし。)
住宅地の最も南より、斜面ギリギリのところにありました。
それも意外と広い敷地に、赤妻神社と称する社、鳥居、ニシキ&ヒロ(昭和の二人組歌謡グループにいそうだw)のお墓が。
そのすぐそばに…
↓ 呪いの車止め↓ がッッッ!

これだよ、下から登ってくる道でこれを見たから必死でバックして戻ったんだわよ!
車止めのすぐ横だったんじゃん_/ ̄|○
ひっかけ問題ですかっ。
錦小路頼徳さんのお墓。
いわゆる「七卿」の一人ですが、維新を待たず元治元年春に、砲台見に行ってた下関で亡くなり、毛利敬親が喪主となってここにお墓が作られました。30歳。

墓碑銘は
「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」
…IMEって「あそん」変換できんのだな…
うしろのでかい自然石っぽいやつは、もう少しあとで三条実美など七卿の生き残りや、なぜか土佐の土方久元らの連名で建てられててます。
周りの石の柵が波打つように傾いててかなり危険
「倒壊の危険あり」と札が貼ってあります。うう…。
石を生かしたまま、コケないようにセメントだかコンクリだかでとめるといくらかかるんだろう…
部活長州藩で募金を募って修理を…(無理ぽ)。
どこまでも長くなりそうなので、広沢編は明日アップしようっと。
いや、別にタメる程の内容でもないんですが
幕末維新バナーを押してもらえると、激しく嬉しいです。
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こちら で書いたとおり「地元人が探しときますよッ」と安請け合いしたものの、マジで見つからん…

そのまま年も越してしまいまして…。
困った時の、山口市文化財保護課様

いきなり行って
「スイマセン~、錦小路サンと広沢さんのお墓が、看板に従って行っても行き止まりで見つからないんですけど」
と聞いたら(内心、打てば響くように返答があるとは思ってなかったのに)、さらっと
「ああ、これね、この道、車で行くと入れないんですよ。こっちかこっち(地図の青い線)から回ってください」

一発解決

偉いっっっっ。
(偉いけど、できれば看板も改定していただけると嬉しい…

ぐるっと回り込むように行く道はかなりの坂で、はっきり言って山。
ここは山を切り開いた分譲住宅地なんです。
山の元の持ち主知ってます。土地の旧家、美祢さんだ。
このふもとにでっかい家もあったのですが、住む人がいなくなって、受け継いだ人が市に寄贈してしまいまして、市でも使いこなせないので、結局別の場所(市内竪小路の伝承センター内)に縮小移築され、今は空き地になってます。
分譲地の名前は「錦パークタウン」とあった。
そこで初めて、
「あ?ここらへんの「錦町」ってのは、錦小路からつけたのだろうか??」
と思ったのでした。(正解だそうです)
(そしてパークタウン案内図には「公園」と書いてあった。公園じゃない気がするのだが~。墓だし。神社だし。)
住宅地の最も南より、斜面ギリギリのところにありました。
それも意外と広い敷地に、赤妻神社と称する社、鳥居、ニシキ&ヒロ(昭和の二人組歌謡グループにいそうだw)のお墓が。
そのすぐそばに…
↓ 呪いの車止め↓ がッッッ!


これだよ、下から登ってくる道でこれを見たから必死でバックして戻ったんだわよ!
車止めのすぐ横だったんじゃん_/ ̄|○
ひっかけ問題ですかっ。
錦小路頼徳さんのお墓。
いわゆる「七卿」の一人ですが、維新を待たず元治元年春に、砲台見に行ってた下関で亡くなり、毛利敬親が喪主となってここにお墓が作られました。30歳。

墓碑銘は
「贈正四位丹波頼徳朝臣墓」
…IMEって「あそん」変換できんのだな…

うしろのでかい自然石っぽいやつは、もう少しあとで三条実美など七卿の生き残りや、なぜか土佐の土方久元らの連名で建てられててます。
周りの石の柵が波打つように傾いててかなり危険

「倒壊の危険あり」と札が貼ってあります。うう…。
石を生かしたまま、コケないようにセメントだかコンクリだかでとめるといくらかかるんだろう…

部活長州藩で募金を募って修理を…(無理ぽ)。
どこまでも長くなりそうなので、広沢編は明日アップしようっと。
いや、別にタメる程の内容でもないんですが

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てかマジ呪いの車止めのすぐ先だったんですね・・・・。
あそこUターンがマジ怖かった・・・・。
あたしも今度はぜひ行ってみまーす。
広沢編も楽しみにしてますwww