鴨脚さんにコメントいただいて、表記の本を図書館で探して読んでみました。益田翁などの逸話も多く大変面白い本でした。流転にかかわるところのみ抜書きしました。
田中親美
平安朝美の蘇生に捧げた百年の生涯
名宝刊行会編
展転社
1985年
初出一覧
田中親美翁聞書 竹田道太郎(美術評論家、元女子美術大学教授、明治39年生まれ)「芸術新潮」昭和35年1月号から12月号
田中親美翁昔語り 伊藤卓司「陶説」昭和31年1月号から昭和32年5月号
(田中親美著述)
月影帖目録略解「月影帖」明治41年7月
岡田為恭之伝「為恭画集」明治44年
根津家本「鎌倉(新)因果経」跋文 昭和11年4月
久能寺経秘話「久能寺経」昭和26年6月15日
古筆と荘厳経 大東急記念文庫・文化講座シリーズ12巻 昭和32年
古筆の鑑賞 大東急記念文庫・文化講座シリーズ8巻 昭和35年
座談会 一年祭を迎えて田中親美翁を偲ぶ
田中親美(1875-1975)は、住吉如慶以来の住吉派直系として有職故実と日本古典美術研究の血統を継ぎ、古絵巻、古筆の第一人者であった。
<田中親美略年譜>から
田中有美、いとの長男として生まれる。本名茂太郎。
父有美は大和絵の天才、冷泉為恭(1823-1864)の従弟でその門人。宮廷画家として絵所に出士していた。
12歳で当時のかな書道の第一人者、多田親愛に入門。
1893-1894 秋元本紫式部日記を模写。続いて秋元本寝覚物語絵巻、蜂須賀家本紫式部日記を模写
1900 益田孝の知遇を得て、入手早々の益田本源氏物語絵巻第一巻の模写。
1902 大口周魚蔵「為恭筆画帖」装てい(巾偏に貞)
1902-1907 本願寺本三十六人家集の三十五帖を模写
1906 元永本古今和歌集 上下を模写
1908 古筆名跡集「月影帖」(木版)を刊行
1910 藍紙本万葉集模写
1911 為恭画集を発行
大正初期 益田本久能寺経三巻を模写
1920-25 平家厳島納経の模写
1922 佐竹本三十六人歌仙絵巻二巻(木版)により刊行
1926-31 尾張徳川家蔵源氏物語絵巻三巻を模写
1928 手鑑「ひぐらし帖」を刊行
1932 本願寺本三十六人家集の解体に際し、伊勢集、貫之集下を再模写。
1948-52 久能寺経のうち、鉄舟寺、武藤家蔵の分を模写
1955-60 大阪四天王寺より依頼をうけてかねてより作成していた料紙作成に着手していた法華経三十三巻が完成。有志の浄写を了わり同寺に奉納。
1960 芸術院恩賜賞受賞。皇太子宮家の依頼により新東宮御所に扇面三本を完成して納入
1964 勲四等旭日小じゅ(糸偏に受)章を受賞
自らの発意にゆり、かねてより料紙を作成した慈光寺補写経五巻を有志の浄写を了わり奉納
田中親美翁聞書 竹田道太郎から
三十六人家集の模写
本願寺本三十六人家集。鳥羽帝時代の宮廷制作によるもので、1252年に蓮華法院の宝蔵に収められていたことが知られているので、おそらく後白河法皇が御相伝になり、後奈良帝より証如上人に御下賜される。1896年により大口鯛二氏により、再発見。西本願寺の大谷家の蔵の中から。
1932年の伊勢集、貫之集下の解体は希望価格が百万円が64万円で。三百数十頁を一人十枚ずつとして三十二組に分け抽選でくじ引き。一組2万円程度。
源氏物語絵巻の流転。
前博物館長の町田久成さんのもとには四天王とよばれるひとがいた。元は徳川普請方をしていた美術鑑識家の柏木貨一郎、図案家の岸光景、書家の多田親愛、尚古家の蜷川式胤の4人。
尾張徳川家にあった源氏物語絵巻がなぜ徳川家と蜂須賀家に分かれたかは不明。徳川家と蜂須賀家の何かの縁組の時についていったのだろう。
現存する源氏物語絵巻は、徳川家三巻と益田家一巻とあと詞書だけの断片。
第15帖 蓬生
第16帖 関谷
第17帖 絵合(詞書のみ)
第36帖 柏木
第37帖 横笛
第38帖 鈴虫
第39帖 夕霧
第40帖 御法
第44帖 竹河
第45帖 橋姫
第48帖 早蕨
第49帖 宿木
第50帖 東屋
38,39,40が益田本、他が徳川本。
このほかに田中家に写しはよくないが古写の源氏三巻(これは益田本一巻と徳川本一巻に相当)。それと同じものが国学院にある。
明治維新の大変動の際に蜂須賀家にあった隆能源氏は、蜂須賀家が江戸屋敷を引き払って国許に帰る折りに流出。商人言い値で蜷川式胤が7円で購入。それを柏木貨一郎が40円で購入。(柏木氏は、鳥獣戯画残欠も所有した。鳥獣戯画残欠については、7年前に買い損ねて値上がりして手に入れた事情を面々とつづった手紙がある。柏木氏がかいたものを多田氏が清書。さいごに「ふくはうち、かねはそと」という一首がある。その残欠と手紙は益田氏から現在某氏所蔵に)(麻布画山水も奈良の古美術商柳生彦蔵が益田氏みせたあとに柏木氏が買取り、その後5倍の値段で益田氏が購入。現在は五島美術館に。先日拝見した。)一時、益田氏が地獄草子2巻と源氏物語1巻を担保として所蔵。しかし、返済の際に、担保を返せ、返せぬのはなしとなり、結局地獄草子1巻は益田氏のもとに残る。柏木氏が急逝後、益田氏は、隆能源氏一巻、地獄草子、猿面硯を五千円で譲り受ける。3000円、1500円、500円の値踏み。3000円は米価換算で260万円。(昭和35年)。それからまもなく親美は模写。
徳川本源氏物語絵巻を写す
田中親美氏は、模写の過程から、隆能源氏は、久能寺経と平家納経の間と推定。現在、絵画様式的には、最も近いとされるのは、西本願寺三十六人家集下絵(1112年)、久能寺経薬草喩品見返絵であり、料紙からいうと久能寺(1141年)より後の康治久安年間(1142-51)、書風からいうと西本願寺三十六人家集から平家納経(1164)にいたる中間期といわれている。
生涯を決定させた紫式部日記の模写、紫式部絵巻をめぐる争奪戦
秋元本紫式部日記絵巻は、寝覚物語絵巻とともにもともと旧館林藩領主秋元興朝子爵家の世襲の宝。秋元家が後水尾天皇から拝領した家宝。秋元家は、原富太郎から、担保として、2つの絵巻とその他の担保にした狩野元信「滝」などで、金を借りた。世襲財産をとかれて売りたてされるので、返却をもとめたが、寝覚物語だけを原家にとって、紫式部日記絵巻は返した。これは入札の結果、藤田家へ。寝覚物語は現在は、大和文華館。藤田家本の第五段は、竜頭鷁首(げきす)(はてなへのリンク)の船の絵だが、そこの詞書(伝良経書)は2枚の一枚が掛け物になって秋元家に残った。関東大震災で秋元家の蔵が焼け落ちて消失。親美翁の写本のみとなる。その写本の写しを藤田家に差し上げたが、東京の別邸(現在の椿山荘)で戦災で消失。
紫式部絵巻は、藤田家本全五段のほかに、蜂須賀家本全八段、久松家本四段、森川家本五段が残存している。(現在の所蔵者は久松家本は日野原家、森川家本は益田家を経て一段が大倉亀氏、三段が五島家、一段が森川家)。久松本は写しはなく、蜂須賀本、藤田本の親美翁の写しは、田中家に残る。森川本の写しは、詞書のない絵だけ写しが住吉家に伝来し、現在田中家に所蔵。(この住吉家の模写を岡田為恭は漸く借り手模写した逸話がある。しかし、関東大震災で焼失)森川家本はもともとは伊予西条藩主松平家伝来。
いまの皇太子(現在の天皇陛下)がご生誕のおりに、益田氏は宮様方をお迎えしてお茶会を催したが、そのとき森川本第三段、殿の上(倫子)が若君を抱いていざり出でさられたさまをところを掛け軸にしたてて席の床を飾った。現在の持ち主大倉亀氏も、本年の浩宮ご誕生の折には、床にこれをかけて3月26日にお祝いした。本こそ異なれ紫式部日記絵巻は、美智子妃殿下(現在の皇后陛下)とゆかりの深い館林藩(皇后陛下の祖父・父の出身地)に伝来したもので、皇子誕生のこの春に語るにふさわしい心地がした。
截金技術の発見
金沢名刹称名寺の源実時建立1269年より以来の本尊という弥勒菩薩像。精緻な透明な天冠、天衣に施した截金(きりかね)模様など全体にすこぶる美麗な装飾を凝らし偉容堂々タリ。といわれる。同寺には京都嵯峨清涼寺の釈迦をもしたという裁金入りの木造の釈迦立像や本尊の弥勒像とにた作風の十一面観音像がある。
その弥勒仏の胎内から反故紙につつんだ針と篠竹をわった片(きれ)端がでてきた。裁金の手法は鎌倉時代を境にして、それ以降の仏像には使われなくなっていた。この道具を再現し、親美氏は苦心の上、利用法を発見し、裁金の手法を再現した。そしていとも簡単にこの手法が使えるようになった。新東宮御所に収めた扇面にもこの手法が用いられている。
平家納経に取り組む、平家納経の完成
益田孝氏は弘法大師を尊敬し、大師会を御殿山自邸で毎年命日に開催し、名士を招くのを常としていた。大師会のご本尊は弘法大師の座右の銘、十六字。狩野探幽が高野山宝亀院に鶴亀の絵を描いた時に、同院所蔵の大師の座右銘、零残女六家のうち初めの十字を切って、後の十六字を所望してもらい受け、爾来狩野家に伝世した家宝。明治維新節に流出し、益田氏のものになった。
平家納経は、写本はつくりには、益田氏などが発起人となり寄付5万円を集めて実施された。関東大震災の折にも、渋谷桜丘の翁の蔵は焼けず、つくづく平家納経の名巻の利益、写経の功徳を感じたという。経巻の箱には秘密があって、納める順番にきまっていてまちがえても納まらないように仕組んである。との話も。帝室博物館で披露の際に貞明皇后が(女人成仏を説いた)提婆品をお取りなりなったとこと。
戦後に写した久能寺経
久能寺経。もとは法華経28巻に開結の無量義経と観普賢経の二具をあわせた一具のものあったらしいが、現在は欠けて、鉄舟寺に伝わるのが待賢門院の奥書のある譬喩品(ひゆほん) 、美福門院の奥書の提婆品など19巻、東京国立博物館に、法師品、安楽行品、無量義経、武藤家に薬草喩品、随喜功徳品、湧出品、勧発品、五島家に序品、法師功徳品が伝わる。故三井八郎次郎氏の南三井家に寿量品一巻があり、写真も残っているのに行方不明。この経の奥書には「一院鳥羽院」といわれるやかましいものではあるが、残念ながら奥書の写真すらない。五島家の二巻を除いて、他の経巻には、すべて待賢門院など知名人や後宮夫人の名が見えて一品結縁経であることをしめしている。料紙、見返し絵に王朝時代の情趣が単純な色彩の中に漂っており、時代的に絢爛たる平家納経などの先駆をなす。現存するしかも大部分そろった最古の玉軸彩牋。
明治44年ごろ醍醐の山伏上りの丹治竹次郎が巻物8巻を200円で入手。そのなかから4巻を朝吹英二氏を9000円で買った。それが現在武藤家に伝わる。朝吹さんの紹介で三井八郎次郎さんが購入したのが、現在行方不明の寿量品。残りの3巻は、4500円で親美氏のところに売りに来たが結局益田孝氏の所蔵になる。現在五島家にある2巻は、翌年益田さんが別人から入手。五島家の2巻については、奥書がなく、他の久能寺経にはどれにも奥書署名があるので、やかましくいえば2巻は果たして久能寺経といっていいか疑問とされている。私(親美氏)は法師功徳品は料紙からいっても文様からいっても、たとえ奥書がなくともまちがいないと思うが、序品には、疑問がある。元来、平家経にせよ、慈光寺経にせよ、序品は開巻最初に位するだけに料紙は殊に結構なのに、五島家の序品はそれはお粗末である。そこに疑問がある。しかし、書や料紙の時代は確かに当時のもので、まことに立派である。
寺に伝わる久能寺経は19巻だが、その全部が旧国宝に指定されていたが、よく調べてみると勧発品と陀羅尼品の2巻は明らかに鎌倉時代の別の経巻を補足したもので奥書もない。なのにもかかわらず、新指定の国宝になるときに、改めず19巻とも指定した。
古筆のルネッサンスから
20歳のころ新古書店斎藤琳琅閣から購入した古筆には、東大寺八幡経(安貞の年号の奥書)3巻を4円50銭。天平経の二月堂の焼経を1巻(一行10銭)。俊忠卿筆の二十巻歌合を一巻250円。
多田先生経由で俊頼筆民部切を45円で手に入れていただいた。
高野切の書体に三手があり、古来古筆界では、この異なる三手を一様に紀貫之の筆といっている。この三種はいずれも、現存のかな文字中で、筆力迺勁、姿勢優美で品位の高きこと随一である。第一種は厳正、端麗なかな文字、第二種は力のこもった連綿体で堅実に、第3種は、筆を豊かに働かせ、才をふくんで乱れずといったものだ。
元暦万葉が、浪花の俵屋から新宮城主水野家にいったという記録から、水野家に問い合わせ、見つかったという逸話も。明治43年のこと。800枚以上なので、水野家から古河家に6万円で売られた。昭和30年に文化財保護委員会で買い取る時に立ち会って、14冊あるこの元暦万葉が一千万円が希望価だったが、評価委員の評価はそれより高かった。親美氏は、明治末に、一ページを御歌所寄人筆頭の阪正臣氏から50円で譲り受けたことがある。
明治のコレクター
明治、大正から昭和前期にかけての古美術界の大立物をあげれば、井上馨侯、田中光顕伯、益田孝氏、原富太郎氏らの名を逸することができないが、田中親美氏翁はこれらの四氏と親交があった。
藤原時代の蓮の蒔絵の厨子が2枚と毘沙門天の1枚を、道具屋が初めに3枚百円で原富太郎氏に最初に見せたが、それがいろいろ見せるうちに一万円以上になって益田孝氏のものになった。
益田氏があるとき、三吉という経師屋から行成筆関戸古今集切、和泉式部集切、公任筆下朗詠集切、俊頼筆東大寺切、西行筆白川切の5点を手に入れた。ところが、親美氏が俊忠卿筆の二十巻歌合を所蔵しているとしると、益田孝氏から所望され、まず1000円+行成の古今集と交換。ところがお蔵番の奥村氏がでてきて、交換はチャラにして、逆に、親美氏が350円で5点の古筆を手に入れることになった。しかし、朗詠以外は、350円以上で他氏に譲った。このうち西行の白川切は梅沢という別の道具屋に流れ、そこから益田氏が500円で購入することに。そして再び三吉に表装に出すことになった。益田氏がひどい目にあわされたという話。
名品名筆の思い出
藤原末期の仏画の国宝「孔雀明王像」は、原富太郎さんが、井上侯のところから鳩居堂(熊谷信吉)の口ききで原家に納まったもの。これが1点一万円という値がついた初めだったということ。熊谷は、この他に伝教大師の久隔状も多和文庫から原さんにいれている。井上侯のところにはもう1点、藤原期の十一面観音の仏画もあったが、これは3万5千円と値をつけられたので、原さんも躊躇、その間に益田氏のもとに。現在は、日野家に。
高野切古今集の第五は、明治末年ごろは田中光顕伯所蔵だった。これは、親美氏が光顕伯から借り、写真に撮り複製頒布した。
*もともとは本田子爵家にあった。巻八は毛利家、巻二十は山内家にある。
田中光顕伯にあった高野切、藍紙本万葉集*、行成の掛け物、清滝権現像などは、横浜ニューグランドホテルの野村洋三氏の口ききで、原家に納まった。
清滝権現はもと高雄も鎮座され、延喜三年(903)醍醐寺の開山理源大師によって醍醐寺の守護神として祀られ寛治二年(1088)から三宝院の始祖勝覚によって上醍醐の守護神として祀られた神である。原家の清滝権現像はこの本尊ではないが、元久元年(1204)の題記がある。もと額装だったとき裏面にあった墨書銘には弘長二年(1262)とある。醍醐寺三宝院の執事だった玉園快心というひとが、何のためか田中光顕さんに献上したもの。(玉園はほかにもいいものを持ち出している。赤星家にはいった目なし経や弘法大師筆の金剛般若経解題なども彼が持って来たもの。)ある日、田中光顕伯に玉園に病気療養の治療に困っているから清滝権現像をお返し願いたいとの手紙がききた。伯は親美氏に原氏に譲った時の値段3000円を包んで病床の玉園に送った。藍紙本万葉集の2巻あるうちの短い方は、原氏から親美氏は譲ってもらい、原氏のものとあわせ複製を刊行、明治43年ごろ。
* 古筆了仲がもともと所蔵していたもの。
大正4年に、芦舟の屏風をはがしたしたまくり6枚を伊藤大好堂から購入。原氏にお目にかけたら、ご執心だったが結局売らなかった。しかし、原夫人が「この先も縁があるのじゃないかしら」と漏らした言葉を親美氏は忘れられず、令息善一郎氏と団琢磨令嬢の縁談の調った時に、お祝いにした。すると一遍上人絵伝の市屋道場二巻(鎌倉期)と升色紙、さらに実朝筆の中院切がお返しに。原氏は値切るのが癖だったが、けちでしているのではないということが明らか。
田中親美翁昔語り 伊藤卓司から
宗達の伊勢物語
団琢磨氏は4枚を二万円で中村好古堂から購入。益田家にある36枚は、昔、北岡から千円でかった。いまはバラバラに所蔵されている。
有楽井戸の茶碗
藤田家の第二回入札のとき、親美は益田氏、松永氏の両方から相談されて困った。ほとんど15万円で中村、伊丹の両道具屋が落札。交渉の末松永氏が購入。
田中親美
平安朝美の蘇生に捧げた百年の生涯
名宝刊行会編
展転社
1985年
初出一覧
田中親美翁聞書 竹田道太郎(美術評論家、元女子美術大学教授、明治39年生まれ)「芸術新潮」昭和35年1月号から12月号
田中親美翁昔語り 伊藤卓司「陶説」昭和31年1月号から昭和32年5月号
(田中親美著述)
月影帖目録略解「月影帖」明治41年7月
岡田為恭之伝「為恭画集」明治44年
根津家本「鎌倉(新)因果経」跋文 昭和11年4月
久能寺経秘話「久能寺経」昭和26年6月15日
古筆と荘厳経 大東急記念文庫・文化講座シリーズ12巻 昭和32年
古筆の鑑賞 大東急記念文庫・文化講座シリーズ8巻 昭和35年
座談会 一年祭を迎えて田中親美翁を偲ぶ
田中親美(1875-1975)は、住吉如慶以来の住吉派直系として有職故実と日本古典美術研究の血統を継ぎ、古絵巻、古筆の第一人者であった。
<田中親美略年譜>から
田中有美、いとの長男として生まれる。本名茂太郎。
父有美は大和絵の天才、冷泉為恭(1823-1864)の従弟でその門人。宮廷画家として絵所に出士していた。
12歳で当時のかな書道の第一人者、多田親愛に入門。
1893-1894 秋元本紫式部日記を模写。続いて秋元本寝覚物語絵巻、蜂須賀家本紫式部日記を模写
1900 益田孝の知遇を得て、入手早々の益田本源氏物語絵巻第一巻の模写。
1902 大口周魚蔵「為恭筆画帖」装てい(巾偏に貞)
1902-1907 本願寺本三十六人家集の三十五帖を模写
1906 元永本古今和歌集 上下を模写
1908 古筆名跡集「月影帖」(木版)を刊行
1910 藍紙本万葉集模写
1911 為恭画集を発行
大正初期 益田本久能寺経三巻を模写
1920-25 平家厳島納経の模写
1922 佐竹本三十六人歌仙絵巻二巻(木版)により刊行
1926-31 尾張徳川家蔵源氏物語絵巻三巻を模写
1928 手鑑「ひぐらし帖」を刊行
1932 本願寺本三十六人家集の解体に際し、伊勢集、貫之集下を再模写。
1948-52 久能寺経のうち、鉄舟寺、武藤家蔵の分を模写
1955-60 大阪四天王寺より依頼をうけてかねてより作成していた料紙作成に着手していた法華経三十三巻が完成。有志の浄写を了わり同寺に奉納。
1960 芸術院恩賜賞受賞。皇太子宮家の依頼により新東宮御所に扇面三本を完成して納入
1964 勲四等旭日小じゅ(糸偏に受)章を受賞
自らの発意にゆり、かねてより料紙を作成した慈光寺補写経五巻を有志の浄写を了わり奉納
田中親美翁聞書 竹田道太郎から
本願寺本三十六人家集。鳥羽帝時代の宮廷制作によるもので、1252年に蓮華法院の宝蔵に収められていたことが知られているので、おそらく後白河法皇が御相伝になり、後奈良帝より証如上人に御下賜される。1896年により大口鯛二氏により、再発見。西本願寺の大谷家の蔵の中から。
1932年の伊勢集、貫之集下の解体は希望価格が百万円が64万円で。三百数十頁を一人十枚ずつとして三十二組に分け抽選でくじ引き。一組2万円程度。
前博物館長の町田久成さんのもとには四天王とよばれるひとがいた。元は徳川普請方をしていた美術鑑識家の柏木貨一郎、図案家の岸光景、書家の多田親愛、尚古家の蜷川式胤の4人。
尾張徳川家にあった源氏物語絵巻がなぜ徳川家と蜂須賀家に分かれたかは不明。徳川家と蜂須賀家の何かの縁組の時についていったのだろう。
現存する源氏物語絵巻は、徳川家三巻と益田家一巻とあと詞書だけの断片。
第15帖 蓬生
第16帖 関谷
第17帖 絵合(詞書のみ)
第36帖 柏木
第37帖 横笛
第38帖 鈴虫
第39帖 夕霧
第40帖 御法
第44帖 竹河
第45帖 橋姫
第48帖 早蕨
第49帖 宿木
第50帖 東屋
38,39,40が益田本、他が徳川本。
このほかに田中家に写しはよくないが古写の源氏三巻(これは益田本一巻と徳川本一巻に相当)。それと同じものが国学院にある。
明治維新の大変動の際に蜂須賀家にあった隆能源氏は、蜂須賀家が江戸屋敷を引き払って国許に帰る折りに流出。商人言い値で蜷川式胤が7円で購入。それを柏木貨一郎が40円で購入。(柏木氏は、鳥獣戯画残欠も所有した。鳥獣戯画残欠については、7年前に買い損ねて値上がりして手に入れた事情を面々とつづった手紙がある。柏木氏がかいたものを多田氏が清書。さいごに「ふくはうち、かねはそと」という一首がある。その残欠と手紙は益田氏から現在某氏所蔵に)(麻布画山水も奈良の古美術商柳生彦蔵が益田氏みせたあとに柏木氏が買取り、その後5倍の値段で益田氏が購入。現在は五島美術館に。先日拝見した。)一時、益田氏が地獄草子2巻と源氏物語1巻を担保として所蔵。しかし、返済の際に、担保を返せ、返せぬのはなしとなり、結局地獄草子1巻は益田氏のもとに残る。柏木氏が急逝後、益田氏は、隆能源氏一巻、地獄草子、猿面硯を五千円で譲り受ける。3000円、1500円、500円の値踏み。3000円は米価換算で260万円。(昭和35年)。それからまもなく親美は模写。
田中親美氏は、模写の過程から、隆能源氏は、久能寺経と平家納経の間と推定。現在、絵画様式的には、最も近いとされるのは、西本願寺三十六人家集下絵(1112年)、久能寺経薬草喩品見返絵であり、料紙からいうと久能寺(1141年)より後の康治久安年間(1142-51)、書風からいうと西本願寺三十六人家集から平家納経(1164)にいたる中間期といわれている。
秋元本紫式部日記絵巻は、寝覚物語絵巻とともにもともと旧館林藩領主秋元興朝子爵家の世襲の宝。秋元家が後水尾天皇から拝領した家宝。秋元家は、原富太郎から、担保として、2つの絵巻とその他の担保にした狩野元信「滝」などで、金を借りた。世襲財産をとかれて売りたてされるので、返却をもとめたが、寝覚物語だけを原家にとって、紫式部日記絵巻は返した。これは入札の結果、藤田家へ。寝覚物語は現在は、大和文華館。藤田家本の第五段は、竜頭鷁首(げきす)(はてなへのリンク)の船の絵だが、そこの詞書(伝良経書)は2枚の一枚が掛け物になって秋元家に残った。関東大震災で秋元家の蔵が焼け落ちて消失。親美翁の写本のみとなる。その写本の写しを藤田家に差し上げたが、東京の別邸(現在の椿山荘)で戦災で消失。
紫式部絵巻は、藤田家本全五段のほかに、蜂須賀家本全八段、久松家本四段、森川家本五段が残存している。(現在の所蔵者は久松家本は日野原家、森川家本は益田家を経て一段が大倉亀氏、三段が五島家、一段が森川家)。久松本は写しはなく、蜂須賀本、藤田本の親美翁の写しは、田中家に残る。森川本の写しは、詞書のない絵だけ写しが住吉家に伝来し、現在田中家に所蔵。(この住吉家の模写を岡田為恭は漸く借り手模写した逸話がある。しかし、関東大震災で焼失)森川家本はもともとは伊予西条藩主松平家伝来。
いまの皇太子(現在の天皇陛下)がご生誕のおりに、益田氏は宮様方をお迎えしてお茶会を催したが、そのとき森川本第三段、殿の上(倫子)が若君を抱いていざり出でさられたさまをところを掛け軸にしたてて席の床を飾った。現在の持ち主大倉亀氏も、本年の浩宮ご誕生の折には、床にこれをかけて3月26日にお祝いした。本こそ異なれ紫式部日記絵巻は、美智子妃殿下(現在の皇后陛下)とゆかりの深い館林藩(皇后陛下の祖父・父の出身地)に伝来したもので、皇子誕生のこの春に語るにふさわしい心地がした。
金沢名刹称名寺の源実時建立1269年より以来の本尊という弥勒菩薩像。精緻な透明な天冠、天衣に施した截金(きりかね)模様など全体にすこぶる美麗な装飾を凝らし偉容堂々タリ。といわれる。同寺には京都嵯峨清涼寺の釈迦をもしたという裁金入りの木造の釈迦立像や本尊の弥勒像とにた作風の十一面観音像がある。
その弥勒仏の胎内から反故紙につつんだ針と篠竹をわった片(きれ)端がでてきた。裁金の手法は鎌倉時代を境にして、それ以降の仏像には使われなくなっていた。この道具を再現し、親美氏は苦心の上、利用法を発見し、裁金の手法を再現した。そしていとも簡単にこの手法が使えるようになった。新東宮御所に収めた扇面にもこの手法が用いられている。
益田孝氏は弘法大師を尊敬し、大師会を御殿山自邸で毎年命日に開催し、名士を招くのを常としていた。大師会のご本尊は弘法大師の座右の銘、十六字。狩野探幽が高野山宝亀院に鶴亀の絵を描いた時に、同院所蔵の大師の座右銘、零残女六家のうち初めの十字を切って、後の十六字を所望してもらい受け、爾来狩野家に伝世した家宝。明治維新節に流出し、益田氏のものになった。
平家納経は、写本はつくりには、益田氏などが発起人となり寄付5万円を集めて実施された。関東大震災の折にも、渋谷桜丘の翁の蔵は焼けず、つくづく平家納経の名巻の利益、写経の功徳を感じたという。経巻の箱には秘密があって、納める順番にきまっていてまちがえても納まらないように仕組んである。との話も。帝室博物館で披露の際に貞明皇后が(女人成仏を説いた)提婆品をお取りなりなったとこと。
久能寺経。もとは法華経28巻に開結の無量義経と観普賢経の二具をあわせた一具のものあったらしいが、現在は欠けて、鉄舟寺に伝わるのが待賢門院の奥書のある譬喩品(ひゆほん) 、美福門院の奥書の提婆品など19巻、東京国立博物館に、法師品、安楽行品、無量義経、武藤家に薬草喩品、随喜功徳品、湧出品、勧発品、五島家に序品、法師功徳品が伝わる。故三井八郎次郎氏の南三井家に寿量品一巻があり、写真も残っているのに行方不明。この経の奥書には「一院鳥羽院」といわれるやかましいものではあるが、残念ながら奥書の写真すらない。五島家の二巻を除いて、他の経巻には、すべて待賢門院など知名人や後宮夫人の名が見えて一品結縁経であることをしめしている。料紙、見返し絵に王朝時代の情趣が単純な色彩の中に漂っており、時代的に絢爛たる平家納経などの先駆をなす。現存するしかも大部分そろった最古の玉軸彩牋。
明治44年ごろ醍醐の山伏上りの丹治竹次郎が巻物8巻を200円で入手。そのなかから4巻を朝吹英二氏を9000円で買った。それが現在武藤家に伝わる。朝吹さんの紹介で三井八郎次郎さんが購入したのが、現在行方不明の寿量品。残りの3巻は、4500円で親美氏のところに売りに来たが結局益田孝氏の所蔵になる。現在五島家にある2巻は、翌年益田さんが別人から入手。五島家の2巻については、奥書がなく、他の久能寺経にはどれにも奥書署名があるので、やかましくいえば2巻は果たして久能寺経といっていいか疑問とされている。私(親美氏)は法師功徳品は料紙からいっても文様からいっても、たとえ奥書がなくともまちがいないと思うが、序品には、疑問がある。元来、平家経にせよ、慈光寺経にせよ、序品は開巻最初に位するだけに料紙は殊に結構なのに、五島家の序品はそれはお粗末である。そこに疑問がある。しかし、書や料紙の時代は確かに当時のもので、まことに立派である。
寺に伝わる久能寺経は19巻だが、その全部が旧国宝に指定されていたが、よく調べてみると勧発品と陀羅尼品の2巻は明らかに鎌倉時代の別の経巻を補足したもので奥書もない。なのにもかかわらず、新指定の国宝になるときに、改めず19巻とも指定した。
20歳のころ新古書店斎藤琳琅閣から購入した古筆には、東大寺八幡経(安貞の年号の奥書)3巻を4円50銭。天平経の二月堂の焼経を1巻(一行10銭)。俊忠卿筆の二十巻歌合を一巻250円。
多田先生経由で俊頼筆民部切を45円で手に入れていただいた。
高野切の書体に三手があり、古来古筆界では、この異なる三手を一様に紀貫之の筆といっている。この三種はいずれも、現存のかな文字中で、筆力迺勁、姿勢優美で品位の高きこと随一である。第一種は厳正、端麗なかな文字、第二種は力のこもった連綿体で堅実に、第3種は、筆を豊かに働かせ、才をふくんで乱れずといったものだ。
元暦万葉が、浪花の俵屋から新宮城主水野家にいったという記録から、水野家に問い合わせ、見つかったという逸話も。明治43年のこと。800枚以上なので、水野家から古河家に6万円で売られた。昭和30年に文化財保護委員会で買い取る時に立ち会って、14冊あるこの元暦万葉が一千万円が希望価だったが、評価委員の評価はそれより高かった。親美氏は、明治末に、一ページを御歌所寄人筆頭の阪正臣氏から50円で譲り受けたことがある。
明治、大正から昭和前期にかけての古美術界の大立物をあげれば、井上馨侯、田中光顕伯、益田孝氏、原富太郎氏らの名を逸することができないが、田中親美氏翁はこれらの四氏と親交があった。
藤原時代の蓮の蒔絵の厨子が2枚と毘沙門天の1枚を、道具屋が初めに3枚百円で原富太郎氏に最初に見せたが、それがいろいろ見せるうちに一万円以上になって益田孝氏のものになった。
益田氏があるとき、三吉という経師屋から行成筆関戸古今集切、和泉式部集切、公任筆下朗詠集切、俊頼筆東大寺切、西行筆白川切の5点を手に入れた。ところが、親美氏が俊忠卿筆の二十巻歌合を所蔵しているとしると、益田孝氏から所望され、まず1000円+行成の古今集と交換。ところがお蔵番の奥村氏がでてきて、交換はチャラにして、逆に、親美氏が350円で5点の古筆を手に入れることになった。しかし、朗詠以外は、350円以上で他氏に譲った。このうち西行の白川切は梅沢という別の道具屋に流れ、そこから益田氏が500円で購入することに。そして再び三吉に表装に出すことになった。益田氏がひどい目にあわされたという話。
藤原末期の仏画の国宝「孔雀明王像」は、原富太郎さんが、井上侯のところから鳩居堂(熊谷信吉)の口ききで原家に納まったもの。これが1点一万円という値がついた初めだったということ。熊谷は、この他に伝教大師の久隔状も多和文庫から原さんにいれている。井上侯のところにはもう1点、藤原期の十一面観音の仏画もあったが、これは3万5千円と値をつけられたので、原さんも躊躇、その間に益田氏のもとに。現在は、日野家に。
高野切古今集の第五は、明治末年ごろは田中光顕伯所蔵だった。これは、親美氏が光顕伯から借り、写真に撮り複製頒布した。
*もともとは本田子爵家にあった。巻八は毛利家、巻二十は山内家にある。
田中光顕伯にあった高野切、藍紙本万葉集*、行成の掛け物、清滝権現像などは、横浜ニューグランドホテルの野村洋三氏の口ききで、原家に納まった。
清滝権現はもと高雄も鎮座され、延喜三年(903)醍醐寺の開山理源大師によって醍醐寺の守護神として祀られ寛治二年(1088)から三宝院の始祖勝覚によって上醍醐の守護神として祀られた神である。原家の清滝権現像はこの本尊ではないが、元久元年(1204)の題記がある。もと額装だったとき裏面にあった墨書銘には弘長二年(1262)とある。醍醐寺三宝院の執事だった玉園快心というひとが、何のためか田中光顕さんに献上したもの。(玉園はほかにもいいものを持ち出している。赤星家にはいった目なし経や弘法大師筆の金剛般若経解題なども彼が持って来たもの。)ある日、田中光顕伯に玉園に病気療養の治療に困っているから清滝権現像をお返し願いたいとの手紙がききた。伯は親美氏に原氏に譲った時の値段3000円を包んで病床の玉園に送った。藍紙本万葉集の2巻あるうちの短い方は、原氏から親美氏は譲ってもらい、原氏のものとあわせ複製を刊行、明治43年ごろ。
* 古筆了仲がもともと所蔵していたもの。
大正4年に、芦舟の屏風をはがしたしたまくり6枚を伊藤大好堂から購入。原氏にお目にかけたら、ご執心だったが結局売らなかった。しかし、原夫人が「この先も縁があるのじゃないかしら」と漏らした言葉を親美氏は忘れられず、令息善一郎氏と団琢磨令嬢の縁談の調った時に、お祝いにした。すると一遍上人絵伝の市屋道場二巻(鎌倉期)と升色紙、さらに実朝筆の中院切がお返しに。原氏は値切るのが癖だったが、けちでしているのではないということが明らか。
田中親美翁昔語り 伊藤卓司から
団琢磨氏は4枚を二万円で中村好古堂から購入。益田家にある36枚は、昔、北岡から千円でかった。いまはバラバラに所蔵されている。
藤田家の第二回入札のとき、親美は益田氏、松永氏の両方から相談されて困った。ほとんど15万円で中村、伊丹の両道具屋が落札。交渉の末松永氏が購入。