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虹の翼(つばさ)〜多次元へと羽ばたく

タロット&数秘、
直感ワーク

愛と気づきに満ちた世界は、笑いがいっぱいの世界♪

2度目のお誕生日

2014-08-28 | 死を超えて生きる

今日は私のサニヤスバースディでした~
それは、アジータという名前に生まれなおした日です。

サニヤスとは、マインド主導の生き方を手放し、

ハートから自分の真実から生きる選択をするという意味、

 

人によっていろんな形があるんだろうけど、私はOSHOにつかまっちゃいました~というか、今となってみれば、よくぞつかまえてくださった!って感じかな

長い間、こんな訳の分からないところへはゼッタイ行きたくないと何年も逃げ回った挙句の果ての降参(まさしくサレンダー)

 

マインドさんは、死にたくないと抵抗しまくり、

恐怖ゆえに、無いこと無いことをつぶやきまくり、

往生際が悪いことこの上ない、あはは~

(そりゃ、誰も死にたくはないよね・・・)

 

その日は、インドの瞑想センターで、たくさんの友人や見ず知らずの人たちがお祝いしてくれて、

訳も分からず涙があふれて止まらなかったなあ・・・

ああ、やっと帰ってきたって感慨と、

 

もうマインドぶっとんで・・・もう何もいえんって、あはは~

 

それは、怖いことでもある。まさに、未知への門出だから。

でも、いったん死んでみたら、それ以後の年月は、まさに有り余る恩寵の降り注ぐ日々で、

感謝しても、しつくせないと感じるよ。。。

 

存在の祝福は、もちろん、その前からも降り注いでたんだろうけど、

窓も扉も閉じてたら、入りようがないから・・・

受け取りようがないからね・・・

 

祝福は、今も、みんな上に降り注いでいるよ。。。

 

~~~~~~*~~~~~*~~~~~~

興味があれば、見てみてね~

☆サマサティ・ヴィジョン☆

<忙しい日常から距離を起き、自分自身のいのちを見つめ直す機会。

生と死を意識的に、全面的に体験するサポートとして、インドの神秘家OSHOのヴィジョンを提供しています>

 

 

 


満月と蛍、夜の闇・・・とても癒されました~

2014-06-15 | 死を超えて生きる
自然に埋れてきました~♪

マニーシャの秋のワークショップ会場の下見がてら、八王子の山奥に昨日からタティーナとノンビリ一泊の旅。
予報では、夜は多分雨でしょう…だったのが、雲が切れて、まん丸お月さまが昇る姿と、蛍たちとの幻想的で幽玄な世界に浸りきり。
すでに満ち満ちている豊かさ~ひたすらありがたいです。。。

日付が変わってちょうど満ちた、涼しい月の光を浴びながら眠りに着いたよ。細胞たち充電されたよ~~~♡

今朝もスッキリ晴れて、あちらこちらピカピカ、ハッピー、
自然てすごいよね、
秋もとっても楽しみです~
 
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9月26~28日「タントラ:生と死を生きるwith マニーシャin Tokyo」のイベントページ、できました。

https://www.facebook.com/events/242595529264801/
(Facebookアカウントをお持ちでない方も見れる公開ページです)

このイベントページは9月開催予定の東京グループに関する詳細やマニーシャのセッションやグループの体験談 などをシェアしていきたいと思っています。
9月、皆様にお会い出来る事を、マニーシャ含め スタッフ一同楽しみにしています。

love,

サマサティ・ヴィジョン(伊藤アジータ、タティーナ)
https://www.facebook.com/sammasativision
 
 

ヌラのセレブレーション

2014-05-27 | 死を超えて生きる

5月24日は、ヌラのセレブレーションでした。

インドのOSHOの瞑想センターで彼女に出会ったのが1994年のこと。

それから、彼女とそのパートナーのラハシャの通訳をさせてもらう機会が何度もあり、思い出はつきることがありません。

その話は、また別の機会にするとして・・・

 

OSHOの瞑想センターでは、音楽は欠くことができません。

音楽は、ハートの言葉で、

OSHOソングとよばれる、瞑想と愛が合体した、とっても美しい、とってもハートにタッチする歌がたくさん生まれました。

そしてヌラは、OSHOソングが大好きでした。

 

OSHOは、人の死を悼むのではなく、お祝いするようにと言っています。

死は、その人の人生のクライマックスであり、今までの集大成でもあるから。。。

そして、新たな旅立ちでもあるから。。。

 

セレブレーション当日は、朝の準備から、片づけまで、いとおしい瞬間の連続で・・・

死と向き合うときには、「今」という時間がどれほどかけがえがないものかを思い知らされる。

「今」がどれほど奇跡的なものなのか。

 

会がはじまったときには、たくさんの悲しみの涙が会場を覆っていました。

ラハシャの愛とユーモアにあふれたスピーチと参加された方のヌラとの思い出話のシェアがあり、

最後には、ヌラの大好きだったOSHOソングのライブ。

私もバンドで歌わせていただきました。

どれほどうまいか、ということはさておき^^; ヌラのために歌えたのは、とっても嬉しかったです~!

そして、この日がデビューというラハシャも飛び入りで、彼女のためにハートのこもった愛の歌をささげていました。

ときどき、涙に声をつまらせながら。

そして私たちも、彼のその姿を見て、一緒にたくさんたくさん涙を流しました。

そして、一緒に歌って、踊って、笑って、お互いの目を見つめ合って、たくさんハグをしました。

 

そして会が終わったときには、会場は愛と祝福に満ち満ちて、暖かいエネルギーがあふれ出していました。。。

 

翌日の25日にラハシャは日本での長い滞在を終えてオーストラリアに発ちました。

なんという完璧なタイミング!

その前日に、こんなにすばらしい、美しい機会を持つことができたのは、ほんとうにヌラからの贈り物だと感じます。

ほんとうにありがとう、ヌラ。

愛と光をありがとう。





ヌラ、ありがとう。よい旅を。。。

2014-05-22 | 死を超えて生きる

ヌラの突然の旅立ちは、たくさんの人にとってショックだったと思う。もちろん私もその一人。

存在のすることって、マインドの予測をはるかに超えている。

今日、彼女がボディを離れてから、はじめてパートナーのラハシャに会うことができた。

こんなに仲のいいカップルはいないというほど仲が良い人たちだったから、会う前は私のマインドはやっぱり心配してた。

彼は少しスリムになったけど、変わらぬ暖かさとユーモアにあふれてた。さらに透明に、軽やかになったようにも感じられた。

彼が言うには、

目を閉じれば、ヌラの存在と愛は以前にも増して感じられる、

でも人間的な部分には、とっても大きな悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいという想いもやってくる、

同時に、永遠に変わらぬ広大な愛のスペースは、ただただあるがままにあるって、

そのことがリアルに伝わってきて、涙、涙。。。

ほんとうに尊いことだよね。。。

彼女が倒れてから3週間足らず、

この間、ラハシャは最愛のパートナーを看取るという自分のプロセスを消化しながら、クリアな愛のメッセージを発信しつづけてた。

世界中の人たちからのあふれるような愛と祈りにつつまれて、

ヌラは、もう何も思い残すことなく光に還って、私たちを見守っていてくれているって感じられるから・・・心配はいらないね。

ありがとう、ヌラ。薫るような美しさと、優しさと深さを湛えた瞳、とても繊細でありながら、しなやかな強さも合わせもってた人。
出会ってくれたこと、一緒に笑い転げたたくさんの瞬間、愛と静けさとたくさんの涙。きらめきと輝きをありがとう。

ヌラについて、詳しいことをお知りになりたい方はこちら


死に向き合うことは、いのちに向き合うこと

2014-05-15 | 死を超えて生きる

死というのは、重いテーマだと思われがちですよね。

この神秘的なるもの。

若いころには、誰でも一度は自殺について考えたことがあるのではないかな。少なくとも、私はそうでした。

中学生のころには太宰治に傾倒し、本が誰よりも仲良しの、引きこもりがちな夢見る文学少女だったのです。

この、「自分」という存在をもてあまし、どう扱ったらいいのか、さっぱり分からないという感覚にさいなまれてた。 

そこには同時に、「生きたい!」という燃えるような衝動もあって、でもそれをどう実際に生きたらいいのか分からないまま、空回りしていたという感じかな。

しかし、しかしですよ・・・

死に向き合うことは、いのちに向き合うこと。

死に傾倒しがちだった私に、人生そのものが驚くような導きの手を差し伸べて、「今ここ」へと導いてくれたのです。

感謝です~

 

フロイトがエロスとタナトスと呼んでいる、人間の持つ2大衝動は、おおざっぱには生と死の衝動と解釈されていますが、OSHOはそれを、まったく違った観点から語っています。

「死は、どんなごまかしも、どんな見せかけも、どんな偽りの人格もなしに、あなたが自らの内なる最深、最奥の主観性と、初めてありのままに向き合うことを可能にする。

それゆえ、あらゆる人が死を恐れながらも、死に惹きつけられるのだ。この磁力を、ジグムント・フロイトは取り違えた。

彼は、人間には死への欲望――彼がタナトスと呼ぶもの――があると考えた。彼は言った。

『人間には、二つの基本的な本能がある。一つはエロス――生に対する、永遠に生きたいという深い欲望、不死への欲望だ。もう一つがタナトス――死への欲望、すべてを終わりにしたいという欲望だ』

彼は神秘家ではなかったから、要点のすべてを取り違えた。彼は、死の一つの顔しか知らなかった。つまり、生を終わらせるものとしての顔だ。彼はただ一つのこと、終わりとしての死しか知らず、死がまた始まりであることには気づかなかった。終わりはつねに、始まりでもある。何も完全に終わりはしない、終わるということはありえないからだ。すべては続き、ただ形だけが変わる。

あなたという形は死ぬが、あなたの中には、形なきものも存在している。あなたの身体はなくなるが、身体の中には、身体の一部ではないものも存在している。あなたの地上的な部分は大地に還り、チリと化すが、あなたの中には空に属するもの、彼方のものがあり、それは新しい旅、新しい巡礼の旅を始める。

もし、あなたがエゴを自分だとみなせば、死は恐怖を生み出すが、真の自己が自分だと思えば、死はあなたを惹きつけ、魅了する。それゆえ、人は漠然と死に惹きつけられるのだ。もしあなたが明確にこのことに気づけば、その理解は変容となり、突然変異をもたらす力にもなりうる」

このコトバが、今は実感として沁みています。人は何度も死んで、何度もよみがえる。新しい存在として――

 

Facebookに「サマサティ・ヴィジョン」のページが誕生しました~ Facebookやってなくっても、記事を見ることができます。どうぞのぞいてみてくださいね~

 

 


食べること、寝ること

2013-12-20 | 死を超えて生きる

いやはや、

OSHOの「生きること死ぬことのアート」の翻訳もいよいよ大詰め。

翻訳という作業は、非常に根気がいります。

根をつめるという表現どおり、集中すると、時間があっという間に過ぎちゃいます。

しかも、気づくとからだもバリバリだったり^^; 。。。

 

もともと忙しかったのもたたって、

疲れがピーク!!!

 

しわ寄せというのは、おのおの身体の弱いところにくるものですが、

わたしの場合はたいてい歯に来ます。

 

歯茎がはれて、ほとんど物がかめない。

そして、徐々に激痛に。。。

 

豆やら、ジャガイモやら、おかゆやら、お豆腐やら、

そんなものばかり食べて数日を過ごし。

 

歯医者さんに行ったものの、根っこにばい菌が入っていて、治療は何もできず。

腫れが引くのを待ってくださいね~とのこと。

 

そして、2日前についにダウン、

身体の限界が来て、強制終了。

夜9時から、次の日11時まで、ぐっすり眠りました。

 

この間、痛みがあったら、痛みを見つめて、それを瞑想にしなさいというマスターのお言葉に従って、

これもボディを離れる準備のひとつかと、まじめに励みました~

(大げさに聞こえるだろうけど、本人は大真面目)

 

そして、よーく寝て起きてみたら、痛みもかなり引いてた!

身体のエネルギーも戻ってた!

やったね!!!

やはり、眠りに勝る薬はなし・・・眠りは小さな死、まさにその通り。ありがたや~

 

そしてまた、さっそくバリバリ翻訳に戻りました。しかも、よく寝た後は、はかどった。うれし~~~~♪

今日は、近くの定食屋さんに駆け込んで、久しぶりにまともな人間らしい食事「アジフライ定食」を食べました。めっちゃ感動~!

一度死んで見ると、生きてる喜びもひとしお(あはは、ほんとうに・・・)

 

さて、この本ですが、テーマがテーマだけに、激辛のOSHO。

編集本で、あっちこっちから引っ張ってきてるんだけど、どれもこれも、すばらしい。

生き方が変わるかも。

 

来年の夏には出版される予定。

冬はこもってコツコツやるのに最適。あと1ヶ月ほど、がんばんべーーーぇ

(写真の左側は、最近角川書店から出版された「JOY」。 発売数ヶ月で、初版1万3千部売れて、もう再版だそうです。さすが大手だね~これも読みやすくて、とってもお勧めです。興味のある方はこちらをどうぞ)


究極の問い

2013-09-08 | 死を超えて生きる

絶望こそ唯一の希望、だなんて、目覚めたマスターのコトバはいつも、私たちの眠りこけたマインドをショックで揺さぶる。


「死についてたずねる人は、神を見出すことになるだろうあなたを変容するもの、あなたのヴィジョンを変えるのは、死だからだ。

あなたの意識は研ぎ澄まされる。

あなたは真実の問い、真正な問い、人生において最も大切な問いを呼び起こしたからだ。

あなたは大いなる挑戦を生み出したために、もはや長くは眠ったままではいられない。

あなたは目覚めなくてはならなくなる。

死という現実に向き合うに足るほど、醒めていなくてはならなくなるだろう。



ゴータマ・ブッダの探求は、こうして始まった」

(OSHO)


お盆に、マンガラは帰ってきてるかな?

2013-08-14 | 死を超えて生きる

お盆です。

お盆は、亡くなった人の魂を迎えたり、送ったりする、日本の美しい風習ですよね。

長年一緒にワークをしていたマンガラはイギリス人。

仏教徒でもないので、新盆なんだけど、特にこの時期を選んで帰ってきたりすることはなさそう。

だけど、この時期は、自然にからだを持たなくなった人たちが近しく感じられる時期ではある。

親しかった人たちを思い出したり、

自分の死を見つめたりするのにいい機会だよね。

 

私たちは死をなかなか見つめたがらない。

それは、わたしたちが生身の存在で、

いつかこの世を後にしなくてはならないとか、

親しい人たちと別れなくてはならないとか、

考えたくはないから。

でも、人生の中で確実なことはじつは死だけ。

それを無視し続けて生きるのは、やっぱり知性的ではないよね。

 

今、今年6月に出版された、死についてのOSHOの講話集を訳しています。

タイトルは、「生きること、死ぬことのアート」

The Art of Living and Dying

「死は最後のタブー」だと彼は言っています。

そうした風潮は、最近はかなり変わってきたけど、

まだまだたくさんの偏見が残ってるよね。

無意識の中には、恐れもたくさんある。

死を見つめながら生きるのは、ガッツがいること。
 
でもそれは、「ほんとうの自分」に目覚めるための、かけがえのない機会にもなります。
 
 
ちょうどこの本は、お釈迦さまが出家するところから始まります。
 
とても豊かな王国の、唯一の王位継承者として生まれた彼は、
 
何不自由ない満たされた人生を送っていましたが、
 
あるとき、病と老いと死の存在を知って、俗世を後にします。
 
これは有名な話ですが、そのくだりを訳していて、あまりに尊くて、涙が出ました。
 
ほんとうに、ありがたいことです。。。
 

どう生きたかによって、どう死ぬかが決まる。

死を見つめて初めて、どう生きるかが決まる。

 

生まれたものは、死ななくてはならない。

形あるものは、滅びる。

けれども、そのすべてを見守るものがある・・・

 

この本は、自分や家族が死を宣告されたというような、リアルな状況での質疑応答や、痛みに関する対処法や具体的な瞑想法なども載っていて、とても実践的です。

OSHOの本なので、もちろんジョークもある。

覚者だけに可能なクリアな語り口で、私たちの思い込みやら、決めつけやらを、ばっさばっさと切ってくれている。

 

日本語版は、来年春ごろには出版される予定です。

このブログでも、少しずつ紹介していきたいと思います。

どうぞ乞うご期待~♪

 


扉の向こう

2013-03-12 | 死を超えて生きる

きのうは、3.11からまる2年、

たくさんの祈りが捧げられた日でした。

一人ひとりの人たちが、それぞれに自分自身の内面と向き合い、

そこにある悲しみや痛みを共有していたのだと思う。

 

もちろんだれも苦しみたくはないけれど、

深い悲しみや痛みは、大きな変容への扉にもなる。

私たちの知っている死と生を超えた、真のいのちに満ちた世界への・・・

それはとっても大変なプロセスかもしれないけれど。

 

死という観念にはとっても大きな恐怖がつきまとっているので、

強いられるまで、なかなか向き合う気にはなれないよね。

でも、2月のOSHOの瞑想センターでの死のワークショップの体験は、

予想を超えた、すばらしいものでした。

 

今はこの世にいない、大切な人たちとも、この時間とプロセスを共有していたのかもしれないな・・・

扉の向こうは、ただただ光と喜びに満ちている、

ただただあふれ出しているよ・・・

 

死があるからこそ、この世界の、毎日のなにげない時間がこんなにも輝く。

今ここに、生きてるって奇跡を抱きしめたいと思う。

 

窓から見える隣の庭の、満開の梅の花びらが、まばゆい日差しのなか、ちらほらと旅を始めてるよ。。。

 

 

 

 


新しく生まれる

2013-01-01 | 死を超えて生きる

あけましておめでとうございます~

2012年、たくさんの人にお世話になった。

今までにも増して、織物のような、絶妙な「縁」によって支えられている自分が感じられる。

ほんとうにありがたいことだ。

 

元旦の今日は近くの熊野神社で甘酒をいただき、

緑がピカピカ輝く中、近くの森の中のお茶屋さんで、

のんびり大福茶(おおぶくちゃ)をいただき、日本の美を満喫しました。

 

お正月って、

古いものを手放し、新しく生まれ変わるには、絶好のとき。

集合意識の上でもそうしたことが起こる気がする。

 

ほんとうのところは、毎瞬毎瞬、死んで、生まれ変わってるんだろうけど、

古い思考の癖が、古いものを手放さず、たくわえ続けるからね、

なかなか認識することがない。

物事は変わっていく、

そんな当たり前のことが受け入れられないこともあるよね。

 

とくに、親しい関係だった人を手放すのは、ほんとうに大変だったりする。

あまりにも近しいと、自分という存在の一部になってしまっているので。

今までいた人がもういない、というのはすごいインパクトだ。

あるレベルでは、いなくなってみれば、もうほんとうに、まるでいたことが夢だったかのように見事に、きれいさっぱりいないからね、

もう未来への投影ができない。

そういう意味では、

いつかしら、この形としては、きれいさっぱりなくなる私という存在も、夢のまた夢だ。

 

けれども同時に、その裏側にある、けっして変わらない、永遠のいのちが浮き彫りになる。

なんというパラドックス~!

 

どんどん変わっていくことも恐れないで、この現象界を楽しんでいきたいと思うお正月です。