虹の翼(つばさ)〜多次元へと羽ばたく

タロット&数秘、
直感ワーク

愛と気づきに満ちた世界は、笑いがいっぱいの世界♪

ヌラのセレブレーション

2014-05-27 | 死を超えて生きる

5月24日は、ヌラのセレブレーションでした。

インドのOSHOの瞑想センターで彼女に出会ったのが1994年のこと。

それから、彼女とそのパートナーのラハシャの通訳をさせてもらう機会が何度もあり、思い出はつきることがありません。

その話は、また別の機会にするとして・・・

 

OSHOの瞑想センターでは、音楽は欠くことができません。

音楽は、ハートの言葉で、

OSHOソングとよばれる、瞑想と愛が合体した、とっても美しい、とってもハートにタッチする歌がたくさん生まれました。

そしてヌラは、OSHOソングが大好きでした。

 

OSHOは、人の死を悼むのではなく、お祝いするようにと言っています。

死は、その人の人生のクライマックスであり、今までの集大成でもあるから。。。

そして、新たな旅立ちでもあるから。。。

 

セレブレーション当日は、朝の準備から、片づけまで、いとおしい瞬間の連続で・・・

死と向き合うときには、「今」という時間がどれほどかけがえがないものかを思い知らされる。

「今」がどれほど奇跡的なものなのか。

 

会がはじまったときには、たくさんの悲しみの涙が会場を覆っていました。

ラハシャの愛とユーモアにあふれたスピーチと参加された方のヌラとの思い出話のシェアがあり、

最後には、ヌラの大好きだったOSHOソングのライブ。

私もバンドで歌わせていただきました。

どれほどうまいか、ということはさておき^^; ヌラのために歌えたのは、とっても嬉しかったです~!

そして、この日がデビューというラハシャも飛び入りで、彼女のためにハートのこもった愛の歌をささげていました。

ときどき、涙に声をつまらせながら。

そして私たちも、彼のその姿を見て、一緒にたくさんたくさん涙を流しました。

そして、一緒に歌って、踊って、笑って、お互いの目を見つめ合って、たくさんハグをしました。

 

そして会が終わったときには、会場は愛と祝福に満ち満ちて、暖かいエネルギーがあふれ出していました。。。

 

翌日の25日にラハシャは日本での長い滞在を終えてオーストラリアに発ちました。

なんという完璧なタイミング!

その前日に、こんなにすばらしい、美しい機会を持つことができたのは、ほんとうにヌラからの贈り物だと感じます。

ほんとうにありがとう、ヌラ。

愛と光をありがとう。





死は大いなる啓示だ

2014-05-22 | OSHO

OSHOの言葉が深く沁みています。。。

「あなたが深く愛した人の死の瞬間は、あなた自身の死を思い起こさせる。死の瞬間は、大いなる啓示だ。それはあなたを無能に、無力に感じさせる。それは、あなたはいないと感じさせる。存在という幻想が消え失せる。

誰もが揺さぶられるだろう――突如として、足元の地面が消え失せたことを知るからだ。あなたにはどうすることもできない。愛する人が死のうとしている。自分の命をあげたいとさえ思うが、それは叶わない。どうすることもできない。人はただ、深い無力感の中で待つだけだ。

その瞬間は、あなたを落ち込ませることもできる。その瞬間はあなたを悲しませることもできれば、真理のための大いなる旅――探求への大いなる旅へとあなたを送り出すこともできるのだ。この生とは何なのか? もし、死が来て奪われてしまうものなら、この生とは何なのだろう? もし人が死に対してこれほど無力ならば、この生に、どんな意味があるのか? そして覚えておくことだ、あらゆる人が死の床についているということを。誕生したからには、あらゆる人は死の床にいる。それ以外のありようはない。あらゆるベッドは死の床だ。誕生の後で確実なものは、ただ一つ、死だけだからだ。

今日死ぬ人もいれば、明日の人も、明後日の人もいる。基本的に、何が違うのだろう? 時間には、大した違いは作れない。時間は、生という幻想を作ることはできる。しかし、死で終わる生は、真の生ではないし、そうではありえない。それは夢に違いない。

死は大いなる啓示だ。もし死がなければ、宗教もなかっただろう。宗教が存在しているのは、死のためだ。ブッダ(覚者)が生まれるのは、死のためだ。死の理解ゆえに、あらゆるブッダは生まれる。

あなたが死にゆく人のところへ行き、そばに座るときには、あなた自身を気の毒に思うがいい。
あなたも同じ舟に乗って、同じ苦境に立たされているのだから。

死は、いつの日にもあなたの扉をノックするだろう。準備しておきなさい。死が扉を叩く前に、家に戻ることだ。途中でつかまるわけにはいかない。さもなければ、この生のすべては夢のごとく消え失せ、あなたはとてつもない貧しさ、内なる貧しさの中に置き去りにされることになる。

生は、真の生は、決して死なない。それなら、誰が死ぬのか? あなたが死ぬ。その「私」が、エゴが死ぬのだ。エゴは死の一部だが、生はそうではない。だから、もし無我の状態になれれば、あなたにとって死は存在しなくなる。もし絶えずエゴを落とせるなら、あなたは死を克服する。もしあなたが本当に気づいていれば、それはたった一歩で落とせる。あまり気づいてなければ、徐々に落とさなくてはならないだろう。それはあなた次第だ。しかし、エゴは落ちる必要がある、それだけは確かだ。エゴが消えれば、死も消える。エゴが落ちると同時に、死もまた落ちる。

死に直面している人を気の毒に思わないように。自分自身を気の毒に思うがいい。死があなたを取り囲むにまかせ、その味わいを得てごらん。無力さを、非力さを感じることだ。無力だと、非力だと感じているのは誰だろう? エゴだ――というのも、あなたにはどうすることもできないと分かるからだ。あなたは彼女を助けたいが、できない。あなたは彼女に生き延びてほしいが、何もすることはできない。

その無力感を、できるだけ深く感じなさい。この無力感から、ある気づき、ある祈り、ある瞑想が立ち現われてくるだろう。その人の死を活用しなさい――それは、一つの機会なのだ。すべてを、機会として活用してごらん」


ヌラ、ありがとう。よい旅を。。。

2014-05-22 | 死を超えて生きる

ヌラの突然の旅立ちは、たくさんの人にとってショックだったと思う。もちろん私もその一人。

存在のすることって、マインドの予測をはるかに超えている。

今日、彼女がボディを離れてから、はじめてパートナーのラハシャに会うことができた。

こんなに仲のいいカップルはいないというほど仲が良い人たちだったから、会う前は私のマインドはやっぱり心配してた。

彼は少しスリムになったけど、変わらぬ暖かさとユーモアにあふれてた。さらに透明に、軽やかになったようにも感じられた。

彼が言うには、

目を閉じれば、ヌラの存在と愛は以前にも増して感じられる、

でも人間的な部分には、とっても大きな悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいという想いもやってくる、

同時に、永遠に変わらぬ広大な愛のスペースは、ただただあるがままにあるって、

そのことがリアルに伝わってきて、涙、涙。。。

ほんとうに尊いことだよね。。。

彼女が倒れてから3週間足らず、

この間、ラハシャは最愛のパートナーを看取るという自分のプロセスを消化しながら、クリアな愛のメッセージを発信しつづけてた。

世界中の人たちからのあふれるような愛と祈りにつつまれて、

ヌラは、もう何も思い残すことなく光に還って、私たちを見守っていてくれているって感じられるから・・・心配はいらないね。

ありがとう、ヌラ。薫るような美しさと、優しさと深さを湛えた瞳、とても繊細でありながら、しなやかな強さも合わせもってた人。
出会ってくれたこと、一緒に笑い転げたたくさんの瞬間、愛と静けさとたくさんの涙。きらめきと輝きをありがとう。

ヌラについて、詳しいことをお知りになりたい方はこちら


死に向き合うことは、いのちに向き合うこと

2014-05-15 | 死を超えて生きる

死というのは、重いテーマだと思われがちですよね。

この神秘的なるもの。

若いころには、誰でも一度は自殺について考えたことがあるのではないかな。少なくとも、私はそうでした。

中学生のころには太宰治に傾倒し、本が誰よりも仲良しの、引きこもりがちな夢見る文学少女だったのです。

この、「自分」という存在をもてあまし、どう扱ったらいいのか、さっぱり分からないという感覚にさいなまれてた。 

そこには同時に、「生きたい!」という燃えるような衝動もあって、でもそれをどう実際に生きたらいいのか分からないまま、空回りしていたという感じかな。

しかし、しかしですよ・・・

死に向き合うことは、いのちに向き合うこと。

死に傾倒しがちだった私に、人生そのものが驚くような導きの手を差し伸べて、「今ここ」へと導いてくれたのです。

感謝です~

 

フロイトがエロスとタナトスと呼んでいる、人間の持つ2大衝動は、おおざっぱには生と死の衝動と解釈されていますが、OSHOはそれを、まったく違った観点から語っています。

「死は、どんなごまかしも、どんな見せかけも、どんな偽りの人格もなしに、あなたが自らの内なる最深、最奥の主観性と、初めてありのままに向き合うことを可能にする。

それゆえ、あらゆる人が死を恐れながらも、死に惹きつけられるのだ。この磁力を、ジグムント・フロイトは取り違えた。

彼は、人間には死への欲望――彼がタナトスと呼ぶもの――があると考えた。彼は言った。

『人間には、二つの基本的な本能がある。一つはエロス――生に対する、永遠に生きたいという深い欲望、不死への欲望だ。もう一つがタナトス――死への欲望、すべてを終わりにしたいという欲望だ』

彼は神秘家ではなかったから、要点のすべてを取り違えた。彼は、死の一つの顔しか知らなかった。つまり、生を終わらせるものとしての顔だ。彼はただ一つのこと、終わりとしての死しか知らず、死がまた始まりであることには気づかなかった。終わりはつねに、始まりでもある。何も完全に終わりはしない、終わるということはありえないからだ。すべては続き、ただ形だけが変わる。

あなたという形は死ぬが、あなたの中には、形なきものも存在している。あなたの身体はなくなるが、身体の中には、身体の一部ではないものも存在している。あなたの地上的な部分は大地に還り、チリと化すが、あなたの中には空に属するもの、彼方のものがあり、それは新しい旅、新しい巡礼の旅を始める。

もし、あなたがエゴを自分だとみなせば、死は恐怖を生み出すが、真の自己が自分だと思えば、死はあなたを惹きつけ、魅了する。それゆえ、人は漠然と死に惹きつけられるのだ。もしあなたが明確にこのことに気づけば、その理解は変容となり、突然変異をもたらす力にもなりうる」

このコトバが、今は実感として沁みています。人は何度も死んで、何度もよみがえる。新しい存在として――

 

Facebookに「サマサティ・ヴィジョン」のページが誕生しました~ Facebookやってなくっても、記事を見ることができます。どうぞのぞいてみてくださいね~

 

 


スウォードを使うのか、あるいは使われてしまうかは、えらい違いなのです。

2014-05-13 | 直感と気づきのトートタロット

トートタロット隔週日曜講座・2回目終了しました~♪

まずはキャンドルに火を灯し、地水火風の四大元素に感謝を捧げるところから。

内面世界に気づきをもたらすことで、この四つの元素を使いこなせるようになる。これぞ魔術に他なりません。

特にマインドの剣を使いこなすためには、意識の光は欠かせません。スウォード、つまり剣ですが、このエレメントを使いこなすのは至難の技、

役に立つように使うというよりは、自分や他人にやいばを突きつけていることのほうが圧倒的に多かったりしますから。

これは、もちろん無意識のうちにしていること。役に立たないと身にしみて分かったら、その使い方は自ずと変わっていきます。

起こることのすべてが宇宙からのサポートだと分かるとき、生き方そのものが変わっていく。

その宇宙からの愛を、手を取り足を取りで教えてくれているトートタロット、

時にはエゴからすると痛いこともあるけど*\(^o^)/*、内面世界の旅ほど面白いものはないって、またまた再確認の一日でした。

感謝~♪