虹の翼(つばさ)〜多次元へと羽ばたく

タロット&数秘、
直感ワーク

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デス・セレブレーション(死をお祝いする)

2012-09-11 | OSHO

ちょうど1ヶ月前、親しい友人イシュタがこの世を去った。

そして数日前、たくさんの友人たちと歌い、踊り、涙と笑いで彼女の生涯をお祝した。

思い返せばこの数年、身近な友人たちが次々にこの世を去り、

そして、今週末にも、また別の友人のデス・セレブレーションが行われる。

 

インドに行って、アジータという名前をもらった夜が、

私にとって、デス・セレブレーションの初体験の日でした。

OSHOの瞑想センターの大きなホールに、

亡骸(なきがら)が運ばれ、

強烈なドラムのビートとともに、まるでお祭りのように、たくさんの友人たちが踊り、歌いながら、近くの川岸にあるバーニングガート(焼き場)まで、彼女を運んだ。

友人たちの涙とともに、

その見知らぬ人は、静けさの中で、まばゆい炎に包まれ、土へと帰っていきました。

 

故人を送るのに、歌ったり、踊ったりする、

それは世間一般常識からすると不思議なことかもしれない。

けれども、どんな経緯をたどったにせよ、その人は自分の人生を精一杯生きた。

「お疲れさま! たくさんのギフトをありがとう~!」

とねぎらうのは当然といえば当然、

もちろん残された人たちは、悲しかったり、悔しかったり、寂しかったり、

いろんな感情が内側で渦巻くのも当然だ。

でもそれをそのまま表現しないでいれば、エネルギーは内向し、自分を蝕ばみ、ウツ状態になってしまうかもしれない。

そうした激しい感情のエネルギーがお祝いのエネルギーに転換する、

デス・セレブレーションには、独特の強烈な変容の磁場が生まれる。

それはまた、信じられないほど透明で、崇高だ。

 

それは、私たちがいつまでもこの世にいるわけではないこと、

この生には限りがあるという現実をつきつける。

私たちが何のために生まれ、何を優先して生きるのかを問い直すチャンスなのだ。

 

たがために鐘は鳴る――

という言葉が、実際のところ、

あの弔い(とむらい)の鐘が誰のために鳴らされているのか、たずねないように、

それはあなたのためなのだから、

という意味だとは、瞑想に出会うまで知らなかった。

 

死を意識して生きる人生、それは、気づきに満ちて生きるということ。

そして、強烈に生きる瞬間、

私たちは本当は決して死なないと分かる、

身体の死は、古くなった服を脱ぎ捨てるようなものだと分かる、

なんという奇跡なんだろうね!

 

おりしも、今日は9・11、

この特別な日に、この小さな文章を捧げたいと思います。