ちょうど1ヶ月前、親しい友人イシュタがこの世を去った。
そして数日前、たくさんの友人たちと歌い、踊り、涙と笑いで彼女の生涯をお祝した。
思い返せばこの数年、身近な友人たちが次々にこの世を去り、
そして、今週末にも、また別の友人のデス・セレブレーションが行われる。
インドに行って、アジータという名前をもらった夜が、
私にとって、デス・セレブレーションの初体験の日でした。
OSHOの瞑想センターの大きなホールに、
亡骸(なきがら)が運ばれ、
強烈なドラムのビートとともに、まるでお祭りのように、たくさんの友人たちが踊り、歌いながら、近くの川岸にあるバーニングガート(焼き場)まで、彼女を運んだ。
友人たちの涙とともに、
その見知らぬ人は、静けさの中で、まばゆい炎に包まれ、土へと帰っていきました。
故人を送るのに、歌ったり、踊ったりする、
それは世間一般常識からすると不思議なことかもしれない。
けれども、どんな経緯をたどったにせよ、その人は自分の人生を精一杯生きた。
「お疲れさま! たくさんのギフトをありがとう~!」
とねぎらうのは当然といえば当然、
もちろん残された人たちは、悲しかったり、悔しかったり、寂しかったり、
いろんな感情が内側で渦巻くのも当然だ。
でもそれをそのまま表現しないでいれば、エネルギーは内向し、自分を蝕ばみ、ウツ状態になってしまうかもしれない。
そうした激しい感情のエネルギーがお祝いのエネルギーに転換する、
デス・セレブレーションには、独特の強烈な変容の磁場が生まれる。
それはまた、信じられないほど透明で、崇高だ。
それは、私たちがいつまでもこの世にいるわけではないこと、
この生には限りがあるという現実をつきつける。
私たちが何のために生まれ、何を優先して生きるのかを問い直すチャンスなのだ。
たがために鐘は鳴る――
という言葉が、実際のところ、
あの弔い(とむらい)の鐘が誰のために鳴らされているのか、たずねないように、
それはあなたのためなのだから、
という意味だとは、瞑想に出会うまで知らなかった。
死を意識して生きる人生、それは、気づきに満ちて生きるということ。
そして、強烈に生きる瞬間、
私たちは本当は決して死なないと分かる、
身体の死は、古くなった服を脱ぎ捨てるようなものだと分かる、
なんという奇跡なんだろうね!
おりしも、今日は9・11、
この特別な日に、この小さな文章を捧げたいと思います。