岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「滝ノ沢」岩壁(荒川の倉)東端の沢、その急斜面を詰める

2009-05-04 05:18:08 | Weblog
 (今日の写真は鳥海山山頂付近から見た「岩木山中央火口丘」、つまり、山頂本体だ。私が立っている場所よりも163m高いところが山頂だ。平地で標高163mの「山」を見ると、「このくらいの高さを持つ山容に見えるのだろう」と思ったら、妙な気分になった。
 これが「地図」の上では「岩木山」なのである。平野に孤高を保って屹然として鎮座する「岩木山」とは何とかけ離れた容姿だろう。これだと、「泰然自若」、「揺るぎない安定」、そして「広く、美しく端正な裾野」などが、全くない「岩木山」ではないか。
 全く貧相で、岩と雪だけの世界だ。これだと、どうしても「阿弥陀如来」を祀っている「山」には見えない。あまりにも「人間味」がない。無機質に過ぎる山容だ。
 ここ「鳥海山」には「薬師如来」が祀られている。その所為だろうか。そこまで登ってきた時の疲れと緊張に苛まれた体も気持ちもすっかり癒されたように落ち着いていた。
 山頂部山体の右側に見える二つ並んでいる岩を「二神(ふたがみ)岩」という。反対側の大きな岩山が「耳成(みみなし)岩」だ。こちらの方は「火口壁」外輪山である。
 真っ正面の岩稜帯も外輪山の片割れである。鳳鳴小屋から、この岩稜までの急な道を「二ノ御坂(みさか、または、おみさか)」という。時々落石があって死亡事故が起きているところだ。この岩稜から山頂までの道を「一ノ御坂(みさか)」と呼ぶ。
 また、この岩稜帯下部に広がっている「カール」状の積雪帯は「種蒔苗代」と呼ばれる「火口湖」である。噴火・爆裂火口に水が貯まったものだ。周囲の積雪が殆ど消えているのに、ここだけはしっかりした「積雪」で埋まっている。この場所は特別、雪の「吹き溜まり」となる場所で、平年ならば「鳳鳴小屋」下部には巨大な雪庇が出来るのだ。そして、新雪が積もるたびに「崩落」を続け、「雪崩」を起こしている。だから、ここから、下流部にある大沢よりは早いものの、遅くまで「積雪」が残っているところでもある。

 左側の岩稜を「御倉岩」という。大沢を登ってくると次第に、その姿を見せてくれる、いわば「岩木山の案内岩」でもある。
 冬場に、ここを登る人は出来るだけ、この「御倉岩」の縁を登高すると、「雪崩」に巻き込まれることは少ない。私はいつもそのようにしている。
 「御倉岩」の下部は「鳥ノ海」と呼ばれている大噴火口である。だが、雪が積もると浅くなって、普通の噴火口に変貌してしまう。

 このくらい「岩肌」や「岩稜」の出ている方が、岩山の荒々しさを明らかにしてくれて「メリハリ」がある。すっぽりと「雪を纏っている」山頂部は本当に丸みを帯びて優しい。その時には、やはり、私は「阿弥陀様」を山頂に見るのだ。)

(承前)

 夏場に、「滝ノ沢」崖壁の頭に行くには…
 …百沢登山道を辿り、「焼け止り小屋」へと右折する辺りから、斜めに根曲がり竹の「密林」に入る。「毒蛇沢」左岸のかなり高い場所に出るためだ。
 そうしないと「毒蛇沢」は深くてなかなか渡ることが出来ない。「毒蛇沢」を渡るとまた藪だ。その「藪の連続」トラバースを経た後に、ようやく「滝ノ沢崖壁」の頭に出る。
 このような「馬鹿げたこと」をしたのは30代から40代の前半であったが、これで息が上がってしまい、もう「動きたく」なくなってしまったという記憶がある。
 もう二度としたくないし「する意味」もないと思ったから、このルートはその後「残雪期」に限ることになってしまい、現在に至っているのだ。

 私と相棒は「毒蛇沢」をトラバースしたところで「アンザイレン」をしていた。「アンザイレン(Anseilen)」というのは「ドイツ語」で「ザイルで結び合う」ことである。
 「山岳後進国」である日本では「山岳用語」に外国語が多い。ヨーロッパ言語が主だが、「ヨーロッパアルプス」を戴く、イタリヤ、フランス、オーストリア、ドイツ語が入り交じっている。それとは別に英語も多い。イギリスは高山を持たないが「登山」の盛んな国だった。その歴史は古い。高山を持たない国土が「4~8000mの高山」への憧れを掻き立てて「ヨーロッパアルプス」や「ヒマラヤ」に向かわせるようになったのだ。

 単独の時には、もちろん「アンザイレン」はしない。相手がいないのだから「しよう」がない。自分の「体力、ピッケルワークやアイゼンなどの登攀技術、ルート選定力、確保技術」など自力自助と自己責任の世界に自分を置く。
 そして、それらに全神経を集中させながら、雪面に僅かに出ている「ダケカンバ」の梢などを「補助」の手がかりとして登っていく。
 だが、人は「2人」といえども、複数で「組んだ」時から、「互いの責任」つまり、「相互責任」が生ずるのである。それが「互助」であり、ことある時に、1人はもう1人を助けるという行動が求められるのだ。
 だが、これは物理的に絶対でないこともある。2人とも滑落して「死亡」することもある。一方で、心的意識的な面による、1人の手抜きや甘えや「他依存心理」は「互助」という概念を見事に打ち砕いてしまう。そして、遭難する。
 「互助」とは逆に言うと「運命共同体」でもある。この「運命共同体」で、すべての人の遵守すべきことは、「自己の責任を全うする」という強い意識であり、他に対する「責任の転嫁」や「他に対する甘え」ではない。
 「信頼の置けない人とはザイルを組みたくない」という人がいる。だが、これも「責任の転嫁」や「他に対する甘え」であり、間違いだ。
 「信頼」ということが問題なのではない。大事なのは、その時の「自己責任」に対していかに忠実であり、それを確実に実行するかということである。
 「組織」に所属するすべての人にも、この「自己責任」はある。私が所属している「岩木山を考える会」会員1人1人にも、「会」としてのそれがある。
 日本人である以上、「日本国」という組織に所属しているのだから、1人1人に「日本人としての自己責任」はあるのだ。
 それは、先ず、憲法の第9条と25条に掲げられていることである。

第9条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
第25条 
生存権
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する
第9条は、まさに「自己責任」そのものであって解説は不要だろう。25条にあっては「自分以外の人」にも「生存権がある」と認め、それを互助的に保証することが「自己責任」であると考えるべきだ。

 だが、何ということだろう。この「日本人の自己責任」を率先して放棄している国会議員など政治家や企業の何と多いことか。(明日に続く)

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