岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山、3月下旬の真冬登山(5)

2009-04-08 05:09:32 | Weblog
 (今日の写真も3月27日に撮ったものだ。真っ直ぐに立っているが、これも「コメツガ」である。これほど真っ直ぐに生えているものは凄く珍しいのである。「」は本来、岩場など水気の少ない乾燥した、しかも「栄養分の乏しい」痩せた土地に生える樹木である。そのために成長は早くはない。しかも、標高1000m以上の亜高山帯や高山帯に生育しているので、寒冷のためにも、成長は極端に遅い。
 ところが、この場所の「コメツガ」は背丈があり、しかも「スクッ」と立っている。急斜面に対して天を垂直に窺いながら立っているのである。このような「生え方」をしているものは非常に少ない。「コメツガ」の生えている尾根や稜線はこの稜線以外に「追子森」、「赤倉尾根」、「水無沢右岸尾根」などに限られるが、今日の写真のように「真っ直ぐ」に立っているものに「出会った」回数は非常に少ない。
 「追子森」では、1本ぐらいだろう。「赤倉尾根」では、登山道沿いでは先ずお目にかかれない。「鬼の土俵」から沢に降りていくルートに若干あることはあるが、この写真のような姿勢ではない。「水無沢右岸尾根」もあるが背丈が低いのだ。)
 写真中央から右に駆け上がっている斜面に注目して欲しい。斜度は40度近いだろう。キックステップと「ワカンの爪」が効けば「直登」も出来るのだが、氷化している雪面は、それらすべてを跳ね返してしまう。もしも、この場所で「滑落」したら間違いなく「あの世往き」である。
 だが、ここを登らなければ、烏帽子岳まで行くことは出来ない。ここで引き返すことは出来ないのだ。
 私たちは、この斜面の「より右側」にルートを採った。ピッケルの出番だ。ピッケルのブレードを使って足場(即席の階段)を造るのだ。
 私はピッケルを使った「足場造り」のノウハウを簡単に相棒に伝えた。だが、それはあくまでも、「形式」に過ぎなかった。「足場」の確実な「実効」までは伝えなかった。それは、実際に体験する中で体得することだからだ。
 その足場に「靴先」をかけて、上体を「上」へと持ち上げる。その時、ピッケルのピックを氷化した雪面に刺して、上体を上部雪面にぐっと接近させ引き寄せる。その行動を繰り返しながら「一歩一歩」距離を稼いでいくのだ。時間はかかるがやむを得ない。命あっての物種だ。
 私が山を始めた頃に使った「ピッケル」のピック下面には「鋸刃」状の切れ込みがなかった。「カドタ」や「ホープ」、それに「シモン」製のものも同様だった。
 ピックを刺して上体を引き寄せる時に抜けやすくて不安定だった。しかし、現在のものには、この「鋸刃状の切れ込み」があるので抜ける心配はないが、角度によっては「抜き出す」時に、少々手こずることがある。
 相棒がトップで「足場」を造って行く。だが、慣れていないからだろう。「足場」の形状が、斜面なみで奥が高いのである。これでは、降りてくる時の「足場」にはならない。靴の「踵」を使ったキックステップを確実なものにするためには、もっと、奥を低く「削り取る」ように、靴先が底面に対して斜めに刺し込まれるような形状にしなければいけないのだ。
 相棒が造った足場を私は「修復」しながら、後について登って行った。

          ◇◇岩木山、3月下旬の真冬登山(5)◇◇

(承前)
 序(つい)でだから、4月上旬の「真冬登山」の体験にも触れてみよう。
 …4月2日のことであった。同じ山岳会の弘前大学医学部専門課程の学生I君と岩木山に登った。I君は20代で、私は30代の前半であったと思うのだが、はっきりしない。
 当時、交通機関の主力はバスである。弘前始発が早く、6時30分ごろだったので7時過ぎには岩木山神社登山口を出発していたはずだ。
 体力も気力も充実していたころである。疲れも知らず、力に任せて休みごとに岩木山に登っていたものだ。この日は、登り始めから荒天であった。
 夏尾根の姥石を過ぎた辺りから、猛烈な風と雪である。登る左前方から間断なくぶつかってくる。焼止り小屋までの道のりがすでに激しい吹雪との戦いであった。
 好天であれば、積雪期とはいえ締まってきている時期だから、新雪が積もっていないかぎり2時間は決してかからない。ところが、体力も気力も充実していると自負している者たちが4時間以上も費やしてしまったのである。
 その日は山頂を越えて弥生口に下山することにしていた。小屋で遅い昼飯を慌ただしく食べて、大沢右岸の鳥海尾根を登り始めた。風は相変わらず左前方から、私たちを横倒しにする勢いで吹きつけていた。
 登るにしたがい、風はその強さを増してきた。横から気圧(けお)(けお)される形になって我々は大沢に降りた。
 ところが今度は遡上(そじょう)する方向から直線で叩きつけてくる。しかも、雪面の固い積雪の表皮を剥ぎ取り、それらを巻き上げては弾丸のように撃ちつけてくる。三点支持も利かない。三歩前進二歩後退の繰り返しだ。風に向かって進むことはもう不可能だ。
 風に消され、声は聞こえない。意志の疎通(そつう)は身ぶり手ぶりだけになっていた。風の息を測りながら、先頭の私が後ろ向きになって、ピッケルの石突で進もうとする方角を指示する。
 右にルートを変え、つまり大沢を詰めないで、左岸に登り後長根沢の源頭の倉上部をトラバースし、耳成岩左下端から山頂に行こうというのだ。大沢を出ると風向きは横風に変わることを体験していた。体験どおりであれば、風を背にしながら耳成岩(みみなしいわ)左下端まで行けると考えたのである。
 ピッケルの石突でまずは、右方向を示す。次に、それをその方向に小刻みに動かして、直線的なゴーを促す。次は、右に半円を描いて迂回しながら山頂に行くことを示す。I君にはこれでことが足りた。
 私が考えていることと彼の準備性が一致していたのである。ルートの変更とこれからのルートがはっきりと確認されたのだ。
 風はまったくの背後からではなかったが、それに近いものだった。後ろから押されて前につんのめらないように、一歩一歩の感覚と歩幅を大事にしてじわりじわりと進んで行った。(明日に続く)

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