岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(6)

2007-08-12 05:29:21 | Weblog
(承前)危険を感知できない生物…「人間」・森林、それはミニ地球である…(6)

    ☆世代間倫理と未来世代の権利…

「未来世代は私たちよりずっと幸せになれる。」とか「おれは子孫のために自動車を発明してやった。」または、「原子力発電の残滓を青森県六ヶ所地域に貯蔵した。」などと得意がっているのが現代の文明的文化である。そして、危険きわまりない「放射能性の廃棄物」を未来世代に残す。ここには世代間の倫理(現在世代の未来世代に対する人間的な優しさや思いやり)は存在しない。
 通時的なシステムがないのである。過去・現在・未来を通じて約束・契約という拘束力を持たず、過去からその時まで続いてきた伝統を重んじるということがないのである。
 まさに共時的なシステムなのだ。「共時」とは一時期におけるという意味である。つまり、現在世代と置き換えることが出来るだろう。実は「現在が未来を食いつぶしている」のである。

  「先人木を植えて、後人その下に憩う。」という古い格言がある。これには、過去を畏敬し、それを未来につないでいこうとする強い意思がある。
① 木を植えるのは自分に利益がはね返ってくるからではない。各世代の行為は自発的な自己犠牲という形をとる。
② 未来の人格は、我々が借りを作った過去の人格の代理人として想定される。私たちは先祖がしてくれたことを子孫にすることによってこの借りを返すのである。
 過去の人たちはこのように考えたのである。しかも、私たちが過去の忌まわしい遺物のように嫌う「封建身分制度」の中にもこの考えは存在していた。

    ☆現在世代は単なる「消費者」、その満足の果てはどうなるのか

資本主義は競争原理と消費で成り立つ。だが一方で、この主義の原理的側面では宗教的なものと相俟って厳しい倫理観が求められてきたことは、歴史的に知ることが出来る。
 この倫理観とは、企業や個人の自己規制である。飽くなき願望を抑制すること、常に未来世代の生存を現在世代の私たちと同じように保証することでもある。だが、それは常に「個の人格」と「人格対人格」の問題とされることが多かった。
 中国の孔子、老子、荘子にはじまり、西洋のギリシャ思想や近代のカントなどに見られることである。しかし、残念ながら「倫理観」は時代の推移とともに薄れてきて、ここ現代の「只今」に至って完全に消失したかに見える。
 現代は個人の手間を省くという思想が定着しているその一方で、その省かれた手間を誰かに押しつけるという思想が当たり前になっている。それは便利さの裏返しであり、人々はそれぞれ、「個」を主張しているかに見えるが、実は「個」は社会に埋没し、希薄化している。
 ところが、先人は、手間を省きその手間を他人に渡し、目的地に早く着くことを戒(いさ)めてきた。「個」がその意味で「確立」されていた。先人の教えは尊い。
 「急がば回れ。」である。早く着くこと、時間をかけないことが、どれほど危険でリスクを伴うものかを、昔の人は知っていた。手間を省くという物質文明の行き過ぎを、諺や格言の精神文明が内側から、ぐっと抑止してきた。
 これが私たちの調和の取れた文明だった。自然をあるがままに使う中で、一方、自然をあるがままで育てようとする畏敬の念を伴った思想がそこにはあった。

ところで、本川達雄が「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)の中で…
『環境を征服することに、人類の偉大さを感じてきたのが機械文明である。だから山を拓き、谷をうめ「良い」道路をつくることは、当然よいこととして、問題にされてこなかったようだ。…アッピア街道やアウトバーンを造った人たちが、征服せねばやまぬ思想の持ち主だったことは、まさに象徴的なことである。』…と言う。
 このように機械文明は、人間社会からこの抑止力や畏敬の念を奪ってしまったのである。
                             (この稿続く。)

 お詫び:「NHKギャラリー」岩木山の花々写真展は10日で終わった。NHKが用意してくれたアンケートの結果を、写真展終了次第公表すると以前のブログで約束したが、NHKでその結果をまとめるということで、私の手元には後日、渡されることになった。ということで、「結果の公表」はかなり、遅れることになる。

最新の画像もっと見る