岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

おお、久しぶりの恵みの雨よ / 8月15日を忘れない・反核「微力だけど無力じゃない」(3)

2008-08-15 05:31:44 | Weblog
  ■おお、久しぶりの恵みの雨よ

(今日の写真は我が家の猫の額ほどの庭に咲いているバラだ。)

 晴れの日が続いて「保水能力のない庭」はカラカラに乾いていた。昨日、朝から降り始めた激しい雨も午前11時頃をピークに小康状態になり、午後の3時頃には雨脚は途絶えて曇りとなった。
 このバラの写真はその頃に写したものだ。葉に雫を蓄えて、何だかとても瑞々しく元気な装いである。眺めて私もほっとした。
 ほっとしたのは「自分の庭」や「バラ」のことだけではない。晴天が続いて「気になっていたこと」があった。それは「水田・稲」の「出穂」、「開花」と「受粉」のことである。ちょうどこの時期が「出穂と開花」の時期である。
 そして、「出穂期」には「水田」を3cm程度の水かさにしなければいけないのである。これを「たん水」という。このまま、晴天続きであると3cmの水かさを維持出来るかどうが心配だったのである。
 稲は自家受粉して「籾(もみ)」になる。この受粉も晴天よりも曇りや雨の日が向いていると言われている。このままの晴天では困るのである。私はここ数日、雨が降ることを願っていた。
 ところが、14日の昨日はほぼ、一ヶ月も前から「赤倉登山道を登る」というTさんとの約束があったのだ。「登山」は晴れたほうがいい。「雨降りの登山」はしたくない。
 13日の午後、気象情報と天気図から「14日の天気予報」を「午前中は曇り」とした。そして、「岩木山登山」をすると決めていた。
 ところが、13日の21時の段階で、日本海を進んでいる低気圧が東北東から北東に進路を変え、その速度を上げていることを知って、「明日14日は6時頃から雨となり、次第に雨脚は激しくなり豪雨となる」という予報を出した。
 そして「岩木山登山」は中止すると決めていた。朝、6時40分過ぎに私を迎えにやって来たTさんに「今日の登山は中止」を告げた。
 しかし、Tさんは「登山口」までは行きたい。同行者のMさんも「行く気になっている」と言う。そこで、既に降り出していた雨の中を3人で「赤倉登山道」口に向かったのだ。環状線に入ったころから雨は強くなってきた。
 環状線大石口辺りからは「雨降り」だというのに「岩木山の山影」が高空の雨雲の中にその輪郭を鮮明に映していた。
 層雲が全く見られず、温暖前線や低気圧が近づいている場合、巻雲や巻積雲に続いて出現する高層雲である。よく山影などが見えるから「晴れ」を期待させるが、高層雲が次第に厚みを増して灰色が濃くなってくると、すごい悪天になる。
 高層雲の下に雲の形が出始めると乱層雲へと変わる。そうなると、大雨になるのである。
 これでは、晴れの見込みはない。このまま弘前に帰るというのも面白くないということで、登山口から私たちは、環状線を白沢方向に向かい、中村川沿いに鰺ヶ沢に向かった。登山転じて雨の中のドライブとなったのである。
 結局、昨日は鰺ヶ沢、風合瀬、赤石、弘西林道「白神ライン」、西目屋と回って帰ってきた。風合瀬の「道の駅」では今朝水揚げされたという「ブリの幼魚」が一尾20円で売っていた。驚くばかりだ。
 雨はますます強くなり、弘西林道に近づくにつれて道路は「川」となり、平坦な「橋」は長方形の「池」となっていた。しかも、雨はフロントガラスを激しく撃って視界が効かないくらいになっていた。だが、前の晩もその日の朝も、天気予報には「大雨洪水注意報」や「豪雨」を示す表記はなかった。
 Tさんが訊く。「この豪雨はどうなるんですか」「ちょうど今がピークじゃないですか。ひょっとしたら、今晩も降るかも知りませんね」
 そして、雨は昨日の午後2時頃にはあがったし、晩になっても降らなかった。「ちょうど今がピーク」ということは当たったが、「今晩も降るかも知りませんね」という私の予報は外れた。
 11時頃、津軽峠の立派な「トイレ」のあるところに着いた。ますます、雨は強くなる。帰宅したのは12時頃だった。
 「稲」や「庭の草花」にとっては恵みの雨だった。「登山」が出来なかったことなど大したことではない。

  ■8月15日を忘れない/「反核:微力だけど無力じゃない」

(承前)

13日の毎日新聞電子版『記者の目:反核「微力だけど無力じゃない」(錦織祐一)』の文末に…

 『「6日の広島原爆の日から15日の終戦記念日へと続く「慰霊の夏」は、国内外や次の世代に戦争の愚かさを伝え続ける決意を新たにする日々だ。が、季節を問わない高校生たちの街頭署名は、「8月ジャーナリズム」と揶揄(やゆ)される私たちマスコミに、「それでいいのですか」と問いかけているように感じる。書き続けなければ、と思う。』とあった。

 私は『「8月ジャーナリズム」と揶揄(やゆ)される私たちマスコミに、「それでいいのですか」と問いかけているように感じる。』ということを、そうだろうと素直に受け止めた。
 確かに、「何とか記念日」のようにスケジュール的にその時と前後して、まるで、思い出したかのように、とってつけたかのように「反核」や「戦争」が語られ、新聞紙上には、この語や関連語が踊る。これではいけない。敢えて言おう。毎日書けと。
 「反核」や「戦争」などは一時も忘れず、毎日、日常的に、心の底から「常に考え問い直されるべきこと」ではないのか。

 8月9日、長崎市で開かれた平和祈念式典の平和宣言で、田上富久・長崎市長が「若い世代は『微力だけど無力じゃない』を合言葉に、核兵器廃絶の署名を国連に届ける活動を続けています」と報告したそうである。

長崎佐世保市の佐世保西高3年の江里口泰子さんや長崎市の活水高3年生の尾田彩歌さんたち、生徒が中心になって始まった「高校生1万人署名活動」と、スイスの国連欧州本部(ジュネーブ)に署名を届ける「高校生平和大使」のことである。
 彼女たちは日常的に街頭署名に立つ。そして「黙殺されるつらさ」を経験する。「核兵器で日本は守られている」「お前たちは何も分かっていない」と怒鳴られ、涙を流したこともあったという。
 「やっても何も変わらない」「意味ないとよ」と何度も言われた。それでも、無視されるよりはいいかな、と思って」頑張って街頭に立つのである。
「反核」や「戦争」などは「無視され、批判され、悩みながら」も毎日自分のこととして考え『微力だけど無力じゃない』を信じて、考えて行動していくべきことなのだ。決して「一過性」であってはならぬ。

 核廃絶の「1万人署名活動」は今年で8年目。これまでに約300人が参加した。国内各地にとどまらず、在外被爆者を通じて韓国、ブラジルにも広がり、昨夏までの7年間で国連に届けた署名は36万人分を超えたという。
 『微力だけど無力じゃない』のである。

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