(今日の写真は赤倉登山道「鬼の土俵」から「十九番石仏」の姿を入れて上部を写したものだ。時は晩秋、午後2時頃に撮影した。晴れているが晩秋の太陽は既に低く、差し込む光線も、赤倉沢源頭部上部の「キレット:切戸」や赤倉山稜に遮られて、薄暗くなっている。その中で、信者に着せられた白布をまとわされた石仏だけが異様に「明るい」のだ。)
☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その2)☆
(承前)
そう言えば30分ほど前から「風向き」が東寄りだった。登る私たちの背中を押すように吹いていた。三陸の北の海上には大きな「秋の高気圧」が、日本海にも「大陸性の秋の高気圧」がある。日本海にある高気圧が張り出してくれば天気は回復するのだが、「高気圧」の「縁」は低圧部である。
その時の岩木山は、その2つの高気圧に挟まれた「逃れられない」低圧部にあったのだ。このような「低圧部」は天気図には現れない「低気圧」と同じだ。
さっきから、そのような思いを巡らしながら七番、八番、九番石仏が座しているブナの森の急な登りを過ぎて、伯母石に着いた。
岩木山の登山道沿いには大きな岩があり、百沢、弥生、長平各登山道では、それらは「姥石(うばいし)」と呼ばれている。しかし、赤倉登山道では、何故か「伯母石(おばいし)」と呼称され、国土地理院発行の地図にもそのように記載されている。
伯母石は岩稜帯の下端部に位置している。まるで切り出されたような幾何学的な角を持った大岩が「伯母石」である。その前と横には十番石仏と十一番石仏が並んでいる。
伯母石からは右(北)に回り込んで、岩稜帯の下部をへつるようにしながら行く。修験者の道というに相応しい、コメツガの被い茂る「岩」の道が続く。この道沿いに十二番石仏、十三番石仏があり、何と、十三番石仏は「建立されている場所柄」が考慮されて「岩戸観音」である。
数年前に赤倉講の一信者が伯母石から「まっすぐ岩稜を行く」道を「不法」に整備・開鑿したことがあった。「見晴らしのきく場所がある」ということで、登山者や信者からは受け入れられているようである。
だが、私たちは歴史的かつ信仰的な、立派な旧来の道を行く。実際、岩稜帯の上には石像や祠がある。しかし、そこには旧来の道の途中から登る道があるのだ。
その信者は「その道」があるにもかかわらず、伯母石から「直登」出来て、しかも通過出来るルートを、不法に「付け替え」たのである。
私は現実的に、「立派な旧来の道」があるのだから、この伯母石上部岩稜帯に、「不法」に、付け替えられた登山道は使用禁止(通行禁止)の措置をとるようにと自然保護課には要請をしている。
なお、「使用禁止(通行禁止)の措置」の他の理由は、この岩稜帯は標高が低い割には、風衝地を形成しているので、高山性の植物が生育している。これまで人が踏み入らなかったので多かったが最近は伐採とあわせて減少していることである。また、現場では「動く」不安定な岩が多く、「岩の崩落」という危険も想定されるからである。
なぜ、赤倉講の一信者が勝手に「不法」に整備や「付け替え道」の開鑿が出来たのであろうか。その理由は別な機会に述べることにするが、「赤倉登山道」に関しては次のような特殊性があることだけを述べておこう。
一般的に登山道は「里道」と呼ばれ、それが敷設されている自治体が管理している。実際、岩木山の「百沢登山道」も「岳登山道」も弘前市(当時は岩木町)の町道として管理されている。
ところが「赤倉登山道」は、「岩木町」に位置するが当時の岩木町では管理していないという。修験道的な色彩を持つ赤倉信仰への配慮から、歴史的に「赤倉神社と赤倉講」にその管理が委ねられてきたところにあると考えられるのだ。
伯母石から「岩の道に歩き慣れていない」Sさんに配慮しながら、約20分かけてようやく、稜線の広くなった道に出た。
石仏十四番、十五番を追いながらゆっくりと急な道を登って行く。足下には「むら消え」の雪が目立つようになってきた。次第に私たちは「雪と氷の世界」に入って来た。
コメツガが現れ、突然視界が開けるとそこが「鬼ノ土俵」である。そこには十六番石仏から十九番石仏までが並んでいる。
この「鬼ノ土俵」と呼ばれる場所が、どのような造山運動で、ほぼ円形で平らな地形になったのか不思議なことだ。しかも、そこを「鬼の土俵」と呼んだ昔の人の発想の豊かさには驚くばかりである。祠のひとつには鬼の像が祀ってあり、その脇には弘法大師と不動明王の石像も設置されてある。
標高は既に1000mを越えている。 (この稿は明日に続く)
☆ Sさん、Tさんと赤倉登山道を登る(その2)☆
(承前)
そう言えば30分ほど前から「風向き」が東寄りだった。登る私たちの背中を押すように吹いていた。三陸の北の海上には大きな「秋の高気圧」が、日本海にも「大陸性の秋の高気圧」がある。日本海にある高気圧が張り出してくれば天気は回復するのだが、「高気圧」の「縁」は低圧部である。
その時の岩木山は、その2つの高気圧に挟まれた「逃れられない」低圧部にあったのだ。このような「低圧部」は天気図には現れない「低気圧」と同じだ。
さっきから、そのような思いを巡らしながら七番、八番、九番石仏が座しているブナの森の急な登りを過ぎて、伯母石に着いた。
岩木山の登山道沿いには大きな岩があり、百沢、弥生、長平各登山道では、それらは「姥石(うばいし)」と呼ばれている。しかし、赤倉登山道では、何故か「伯母石(おばいし)」と呼称され、国土地理院発行の地図にもそのように記載されている。
伯母石は岩稜帯の下端部に位置している。まるで切り出されたような幾何学的な角を持った大岩が「伯母石」である。その前と横には十番石仏と十一番石仏が並んでいる。
伯母石からは右(北)に回り込んで、岩稜帯の下部をへつるようにしながら行く。修験者の道というに相応しい、コメツガの被い茂る「岩」の道が続く。この道沿いに十二番石仏、十三番石仏があり、何と、十三番石仏は「建立されている場所柄」が考慮されて「岩戸観音」である。
数年前に赤倉講の一信者が伯母石から「まっすぐ岩稜を行く」道を「不法」に整備・開鑿したことがあった。「見晴らしのきく場所がある」ということで、登山者や信者からは受け入れられているようである。
だが、私たちは歴史的かつ信仰的な、立派な旧来の道を行く。実際、岩稜帯の上には石像や祠がある。しかし、そこには旧来の道の途中から登る道があるのだ。
その信者は「その道」があるにもかかわらず、伯母石から「直登」出来て、しかも通過出来るルートを、不法に「付け替え」たのである。
私は現実的に、「立派な旧来の道」があるのだから、この伯母石上部岩稜帯に、「不法」に、付け替えられた登山道は使用禁止(通行禁止)の措置をとるようにと自然保護課には要請をしている。
なお、「使用禁止(通行禁止)の措置」の他の理由は、この岩稜帯は標高が低い割には、風衝地を形成しているので、高山性の植物が生育している。これまで人が踏み入らなかったので多かったが最近は伐採とあわせて減少していることである。また、現場では「動く」不安定な岩が多く、「岩の崩落」という危険も想定されるからである。
なぜ、赤倉講の一信者が勝手に「不法」に整備や「付け替え道」の開鑿が出来たのであろうか。その理由は別な機会に述べることにするが、「赤倉登山道」に関しては次のような特殊性があることだけを述べておこう。
一般的に登山道は「里道」と呼ばれ、それが敷設されている自治体が管理している。実際、岩木山の「百沢登山道」も「岳登山道」も弘前市(当時は岩木町)の町道として管理されている。
ところが「赤倉登山道」は、「岩木町」に位置するが当時の岩木町では管理していないという。修験道的な色彩を持つ赤倉信仰への配慮から、歴史的に「赤倉神社と赤倉講」にその管理が委ねられてきたところにあると考えられるのだ。
伯母石から「岩の道に歩き慣れていない」Sさんに配慮しながら、約20分かけてようやく、稜線の広くなった道に出た。
石仏十四番、十五番を追いながらゆっくりと急な道を登って行く。足下には「むら消え」の雪が目立つようになってきた。次第に私たちは「雪と氷の世界」に入って来た。
コメツガが現れ、突然視界が開けるとそこが「鬼ノ土俵」である。そこには十六番石仏から十九番石仏までが並んでいる。
この「鬼ノ土俵」と呼ばれる場所が、どのような造山運動で、ほぼ円形で平らな地形になったのか不思議なことだ。しかも、そこを「鬼の土俵」と呼んだ昔の人の発想の豊かさには驚くばかりである。祠のひとつには鬼の像が祀ってあり、その脇には弘法大師と不動明王の石像も設置されてある。
標高は既に1000mを越えている。 (この稿は明日に続く)