岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

人目に触れることが少ない堰堤(えんてい)・ダムにはムダなものもある (3)

2007-05-15 05:42:51 | Weblog
人目に触れることが少ない堰堤(えんてい)・ダムにはムダなものもある (3)

(承前)
 ぶなの落ち葉を靴ぞこに感じながら登山道を降りて行く。左右の宿坊からは話し声や笑い声が聞こえ、時折り人影も見える。その日も、ここの社や宿坊には多くの人が入っていた。
 人の声が遠ざかるにつれて「駐車場」の車に関わる疑問のひとつがようやく解けた。静かなぶな林、葉を落とした木々の中を、午後の乾いた風が素通りして行く。それに誘われて頭の中が、少しすっきりしてきた。

 疑問を自分なりに解いてみよう。高い法面を持ったあの道路は、上流に堰堤を、さらに造るためのものだろう。
 途中にあるあのぶな林を伐採したら、それを運び出したり、その後に植林をする時の資材の運搬にも利用されるのだ。けっして「参道」なのではない。そして、いつかは沢に崩落するだろう。
 道路を造る時に切り崩された土石や堰堤の底面的基礎部分から掘り起こされた土石は、そのまま沢に投棄されたか、放置されたに違いない。
 それは堰堤の機能部分、つまり命と言える場所の土石の堆積量の多さが証明しているではないか。堰堤は埋まりかけている。 
 近い将来、あの道路のように、堆積した土石や砂は確実に堰堤を越えるだろう。「堆積した土石や砂は確実に堰堤を越えるのだ」という確実性が堰堤の多さの意味になっていることは疑いようがない。
 これだといつまでも、「堰堤」と「道路」の工事は続くはずだ。
 若し、土石流が発生したら、必ず、この道路もその土石流の一部となって流れ下るはずだ。「駐車場」とされているところは平らに、均されて、浅い。その上、凹凸がないので表面面積が狭いのである。
 これらの条件は、いずれも「流れやすさ、滑りやすさ」に結びつく。あそこも流れ出したら止まらないだろう。素人の私であっても、この程度は類推可能なのだ。

 土木工事の専門家に、これらの理屈が解らないことはない。当然のべき、自明の理、だからこそ、堰堤はどんどん増えるのである。
 既に、赤倉沢の大堰堤は現在12基を数えるのである。赤倉沢の源頭は馬蹄形の爆裂火口で深さは100m以上ある。よって、沢の源頭から赤倉神社付近までの平均斜度は小さく、流れは緩やかである。しかも中流部は広い「川原」を形成していて、「ナナカマド」などの大木が茂っている。どう考えても、このような「地形や場所」に、なぜにこれほどの数の堰堤が必要なのか。その理由は一切明かされないままである。
 まさに、「民は知らしむべからず」という国と国民の関係そのままであろう。

 そのうちに、堰堤敷設の理由として…
「赤倉神社やその他の社に御参りに来ているみなさん、みなさんが利用している駐車場を土石流から守るために、上流にまたまた堰堤を造ることにしました。」などと言いかねない。
 ある土木工事関係者が「土木工事は不滅です。」と言ったそうだ。
 それは、ある土地に穴をあける、穴をあけるとそれに見合う土砂が出る、出た土砂を捨てるための穴をまた掘る、まるで連鎖のように「仕事」は続くということだ。時として、穴はたった二つのこともあるそうだ。つまり、掘った穴から出たもので、もうひとつの穴を埋める。今度はその穴を掘り起こして前の穴に捨てるというのだ。なるほど不滅である。
 堰堤工事にも、この不滅の影がちらちらする。工事という仕事を作るための工事と言えなくもない。
 そして、これら土木工事の大半は、公共事業という名目で国費・公費で処理される。すなわち税金が使われているのだ。
 使われることにはとやかく言わない。しかし、その事業に正当性がなかったり、使い方に無駄があったりでは許しておくわけにはいかない。

 「駐車場」から、社や宿坊のあるところまで、すでに道はついてしまっている。ここまではみんな車で来る。最近は、堰堤工事用の道路を利用して一番上流にある堰堤の直ぐ下まで自動車で辿ることが出来る。便利なことや楽なことはいいことだ、とだれもが思う。
 敬虔な信仰心も、岩木山全体から、そして真の意味での参道から外れて狭いご神体域にその対象を限定した時、そこまでの道のりは単純化され空白化されてしまう。
 聖地巡礼は意味を失い、さらには修験・修行的色彩は形骸と化してしまうのである。
 そして、いつの日か、赤倉沢全域に今ある堰堤の残骸を足場にして巨大な堰堤群が林立しているかも知れない。
 
 最近は「自然観察会」やそれまがいの行事が多くなったように思える。花を愛でることもいいだろう。虫や野鳥の事に関心を持つことも大切である。
 だが、それに終わらずに時には、人間の都合だけで自然が大がかりに「破壊」されている「堰堤」のある場所や堰堤敷設工事の現場を「観察」することも必要である。
 とにかく、巨大堰堤でもなかなか人目につきにくい所にあるのが常だから、観察会等の主催者は「表面的な観察」にとどめることなく、「現場」まで足を運ぶことをいとわないような計画を立てることが大事である。
                      (この稿は今日で終わりとする。)

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