(今日の写真はクマツヅラ「熊葛」科ムラサキシキブ属の落葉低木の「ムラサキシキブ」の実である。別に「実紫(ミムラサキ)」とも呼ばれる。今日の写真は「ミムラサキ」と呼ぶに相応しいだろう。
紅葉の時季、木の実や草の実は「赤色」系のものが多い。ナナカマドやカンボクの赤い実は「紅葉」や「黄葉」を背景にしてもよく映えるが、この実はそれほどでもない。
ただ、晩秋や初冬、葉をすべて落としてこの「実」だけを残しているムラサキシキブに出会うと、この平安時代の宮廷生活を彷彿させる「優雅な名前」のとおり、紫色の小さな実をつけている風情は何とも言えない。
しかも、このような時季には、去り行く秋の感傷的な景色の中で、紫色の実はいっそうよく目立つのである。私はこの実を見ていると、思わずシャンソンの「枯れ葉」を口ずさんでしまうのである。
「風情」は確かにいいのだが、私はこの名前の付け方に「ある種の嫌み」を感じている。物の本によると「その実の美しさを源氏物語の作者、紫式部に例えたもの」とされているが、「紫式部はこの実が持っているほどの優雅で美しい女性だった」という証明はどこにもない。
おそらく、名付けられたのは「紫式部」が生きていた時代ではあるまい。彼女の死後、数世紀を経てから「源氏物語」などに親しむ「文化人」と呼ばれる人たちが「いにしえの大宮人の優雅な世界をイメージさせる」ことで、自分たちのステータス的な「文化程度」を誇るために付けたものであろう。まさに眉唾ものだ。
このように捉えると、この「美しい実と名前」が、とたんに軽薄なものになるから面白いのである。
名前の由来は、このように源氏物語の作者、紫式部を連想させて「紫式部」となったことによるということが一般的である。
だが、私は「紫色の実をびっしりつけることから、紫重実(ムラサキシゲミ)あるいは、紫敷き実(ムラサキシキミ)と呼ばれていた」ものが、「ムラサキシキブ」に転訛したという説を採りたい。草木の名前とは、本来、素朴で「見た目」で名付けられることが多いものだろう。
秋の花、「雁首草」はまさに、煙管(きせる)の「雁首」そのままであるし、マンサクだって「先ず咲く」のである。
「ムラサキシキブ」を世界的「女流文学者」の「紫式部」に擬えるには無理があり過ぎる。
「ジンヨウイチヤクソウ(腎葉一薬草)」というのがあるが、これは葉の形が腎臓に似ていることと葉脈が腎臓に浮き出た血管の模様に似ていることからの命名である。昔の人が「人体内の腎臓」など見ることはなかったであろう。これも後世、物知り連中が「知性」を誇って名付けたのではないだろうか。ここにも、私は「嫌み」を感ずるのだ。
ただし、ムラサキシキブの「学名」である「カリカルパ ジャポニカ」は文句なしに好きである。「カリカルパ」は、ギリシャ語の「callos(美しい)+carpos(果実)」が語源だ。「ジャポニカ」とは日本の特産種を意味する。「日本に特産する美しい果実」、ここまで誉められると誰だって悪い気はしないだろう。
私はこの「実」よりも「花」が好きだ。花については「カラーガイド 岩木山・花の山旅」162ページを参照されたい。
ムラサキシキブは北海道南部から南西諸島に分布する落葉低木で樹高は2~3m。山麓の林縁や道ばたの藪の中で、特に日当たりのいいところに多い。
●自己中心「子供のまま」のバカ親たち●
(承前)
世間も親も学校も「大学を受験する生徒」を特別扱いし過ぎてはいないか。その根底には「学歴社会」という格差が存在している。ピラミッドを構成するその頂点に「いるもの」あるいは、これから「いれるもの」として捉えていないか。
その頂点にいる生徒を教えることで、受験生を扱う高校も、そこの教員も、そして、その生徒の親も「いい気になっている」のではないか。そして、甘やかす。「甘やかし」は「いい気になっている」いることの背反として存在するものであるだろう。換言するとそれは、「受験生に対しての自信のなさ」を示すものでもある。
「受験勉強」をする時期というものは、その生徒の「人生の一過程」に過ぎない。「受験勉強」は辛い。だが、「学校にいる」以上は「教えてもらえる」のだから、楽であろう。それでも、やはり「受験勉強」は辛いものだ。
私は定時制高校を卒業しているので、ほぼ独学で「受験勉強」をした。そして、現役合格をして大学に入った。辛かったが、自力で問題を解いた時の「歓喜」は「感極まった」ものだった。
「受験勉強」の辛さは、その後の人生を豊にする糧である。辛くて苦しい方がいい。しかし、「受験生」を扱う高校も、そこの教員も、そして、その親ももすべてが「受験生」を甘やかす。おかしいだろう。
「欠席・遅刻・居眠り」を大目に見て許容するなどということは、まさに、この「甘やかし」の何ものでもない。
「授業と学習」には中断があってはいけない。それらは、すべて系統的につながっている。「欠席・遅刻・居眠り」はこの中断を意味し、生徒からすれば「学校に背を向けること」でもある。
私は「生徒が学校に背を向けないこと」を常に念頭に置き、その証として「学級全員が3年間無欠席」という学級担任も経験した。これは、主に勉強で分からないことを次の日に残さないためだ。
その間は私も年休を一日もとらなかった。また、12年間、毎日学級新聞を生徒の視点で発行し、家庭との連絡を取り合った。
このような経験している私にとって、「欠席・遅刻・居眠り」の許容は到底、出来ないことだった。(明日に続く)
紅葉の時季、木の実や草の実は「赤色」系のものが多い。ナナカマドやカンボクの赤い実は「紅葉」や「黄葉」を背景にしてもよく映えるが、この実はそれほどでもない。
ただ、晩秋や初冬、葉をすべて落としてこの「実」だけを残しているムラサキシキブに出会うと、この平安時代の宮廷生活を彷彿させる「優雅な名前」のとおり、紫色の小さな実をつけている風情は何とも言えない。
しかも、このような時季には、去り行く秋の感傷的な景色の中で、紫色の実はいっそうよく目立つのである。私はこの実を見ていると、思わずシャンソンの「枯れ葉」を口ずさんでしまうのである。
「風情」は確かにいいのだが、私はこの名前の付け方に「ある種の嫌み」を感じている。物の本によると「その実の美しさを源氏物語の作者、紫式部に例えたもの」とされているが、「紫式部はこの実が持っているほどの優雅で美しい女性だった」という証明はどこにもない。
おそらく、名付けられたのは「紫式部」が生きていた時代ではあるまい。彼女の死後、数世紀を経てから「源氏物語」などに親しむ「文化人」と呼ばれる人たちが「いにしえの大宮人の優雅な世界をイメージさせる」ことで、自分たちのステータス的な「文化程度」を誇るために付けたものであろう。まさに眉唾ものだ。
このように捉えると、この「美しい実と名前」が、とたんに軽薄なものになるから面白いのである。
名前の由来は、このように源氏物語の作者、紫式部を連想させて「紫式部」となったことによるということが一般的である。
だが、私は「紫色の実をびっしりつけることから、紫重実(ムラサキシゲミ)あるいは、紫敷き実(ムラサキシキミ)と呼ばれていた」ものが、「ムラサキシキブ」に転訛したという説を採りたい。草木の名前とは、本来、素朴で「見た目」で名付けられることが多いものだろう。
秋の花、「雁首草」はまさに、煙管(きせる)の「雁首」そのままであるし、マンサクだって「先ず咲く」のである。
「ムラサキシキブ」を世界的「女流文学者」の「紫式部」に擬えるには無理があり過ぎる。
「ジンヨウイチヤクソウ(腎葉一薬草)」というのがあるが、これは葉の形が腎臓に似ていることと葉脈が腎臓に浮き出た血管の模様に似ていることからの命名である。昔の人が「人体内の腎臓」など見ることはなかったであろう。これも後世、物知り連中が「知性」を誇って名付けたのではないだろうか。ここにも、私は「嫌み」を感ずるのだ。
ただし、ムラサキシキブの「学名」である「カリカルパ ジャポニカ」は文句なしに好きである。「カリカルパ」は、ギリシャ語の「callos(美しい)+carpos(果実)」が語源だ。「ジャポニカ」とは日本の特産種を意味する。「日本に特産する美しい果実」、ここまで誉められると誰だって悪い気はしないだろう。
私はこの「実」よりも「花」が好きだ。花については「カラーガイド 岩木山・花の山旅」162ページを参照されたい。
ムラサキシキブは北海道南部から南西諸島に分布する落葉低木で樹高は2~3m。山麓の林縁や道ばたの藪の中で、特に日当たりのいいところに多い。
●自己中心「子供のまま」のバカ親たち●
(承前)
世間も親も学校も「大学を受験する生徒」を特別扱いし過ぎてはいないか。その根底には「学歴社会」という格差が存在している。ピラミッドを構成するその頂点に「いるもの」あるいは、これから「いれるもの」として捉えていないか。
その頂点にいる生徒を教えることで、受験生を扱う高校も、そこの教員も、そして、その生徒の親も「いい気になっている」のではないか。そして、甘やかす。「甘やかし」は「いい気になっている」いることの背反として存在するものであるだろう。換言するとそれは、「受験生に対しての自信のなさ」を示すものでもある。
「受験勉強」をする時期というものは、その生徒の「人生の一過程」に過ぎない。「受験勉強」は辛い。だが、「学校にいる」以上は「教えてもらえる」のだから、楽であろう。それでも、やはり「受験勉強」は辛いものだ。
私は定時制高校を卒業しているので、ほぼ独学で「受験勉強」をした。そして、現役合格をして大学に入った。辛かったが、自力で問題を解いた時の「歓喜」は「感極まった」ものだった。
「受験勉強」の辛さは、その後の人生を豊にする糧である。辛くて苦しい方がいい。しかし、「受験生」を扱う高校も、そこの教員も、そして、その親ももすべてが「受験生」を甘やかす。おかしいだろう。
「欠席・遅刻・居眠り」を大目に見て許容するなどということは、まさに、この「甘やかし」の何ものでもない。
「授業と学習」には中断があってはいけない。それらは、すべて系統的につながっている。「欠席・遅刻・居眠り」はこの中断を意味し、生徒からすれば「学校に背を向けること」でもある。
私は「生徒が学校に背を向けないこと」を常に念頭に置き、その証として「学級全員が3年間無欠席」という学級担任も経験した。これは、主に勉強で分からないことを次の日に残さないためだ。
その間は私も年休を一日もとらなかった。また、12年間、毎日学級新聞を生徒の視点で発行し、家庭との連絡を取り合った。
このような経験している私にとって、「欠席・遅刻・居眠り」の許容は到底、出来ないことだった。(明日に続く)