岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

春を告げる水辺の白き貴婦人と地味な精霊、えんじ色の仏像

2007-05-02 06:36:39 | Weblog
 春を告げる水辺の白き貴婦人、それはミズバショウ。地味な精霊、えんじ色の仏像、それはザゼンソウ。

 今年もまた木道から眺められる春告げ花、ミズバショウは清楚で美しかった。花が終わると芭蕉に似た葉を出すのでミズバショウと呼ばれるだが、白い仏炎苞を立てて花を咲かせながら、ここミズバショウ沼のものは葉が異様に大きいのである。
 群生地の上部はトウモロコシ畑だ。そこで使われた「肥料」分が流れ出して、沼を「潤し」、その過栄養がミズバショウを育てているのだ。
 貴婦人には汚れのない水源が必要だろう。水源の回復が急がれるのだが、残念ながら行政にその意思があるようには思えない。
 ミズバショウは元来「過栄養」地には適さない植物のようである。逆に、同じ岩木山でも「貧栄養」の高地に咲くものは10cmにも満たないし、その上、雄花だけで雌花のないものもあるが「立派」に育つのである。
 ミズバショウの花言葉は「美しい思い出・変わらぬ美しさ」である。この花言葉を実あるものにするには、やはり、一刻も早い「水源の確保」が必要なのである。


 この公園のミズバショウとひっそり「共存」している花がある。座禅草(ザゼンソウ・別名ダルマソウ)である。
「ザゼンソウ」はサトイモ科ザゼンソウ属の低地~山地の湿地に生える多年草で、花期は三月の下旬から四~五月である。高さは20~40cm程度で、葉は2~7枚が根元から出る。
 黒紫色の背の丸まった仏炎苞をつける。仏炎苞の内には多数の花をつけた肉穂花序が収まっている。

 この仲間は世界に3種類しかないが、そのうちのヒメザゼンソウを含んだ2種類が日本に自生している。この意味では、大変な「貴重種」といえるだろう。
 私たちはその大変な「貴重種」に簡単に会えるのである。幸せを十分感じようではないか。
 図鑑によっては「本州中部以北日本海側に見られる。」とあるがこれは間違いのようだ。朝日新聞、03年2月8日の記事では「滋賀県今津町」の例を挙げている。

 ザゼンソウは大変な「貴重種」である上に、非常に特異な「性質」を持っているのである。
 それは、ほ乳類ではないのに花穂が発熱して、20度に「体温」を保ちながら、回りの雪をも溶かすというものである。まさに、驚きだ。
 是非、座禅草に出会ったら、じっくりと観察をして、ほ乳類に近い「珍奇」な植物を身近に感じてほしいものだ。

 ザゼンソウの名前の由来は…
 「仏像の光背に似た形の花弁(仏炎苞)の重なりが僧侶が座禅を組む姿に見えること、色も形も達磨大師が座禅を組む姿に似ていること」である。
 花名の由来ではないが、私はこの花の印象を「小さな小さなお堂の中に座禅を組んでるお坊さん一人」ととらえてみるのだが、どうだろう。

 次に、「湿地の地味な精霊、えんじ色の仏像」という印象を取り入れて、ザゼンソウとの出会いを書いた文章があるので紹介しよう。

『左右を見回したら、湿地の色と同化しそうになりながらも屹然と自己主張している花がある。
 春の湿地の地味な精霊、えんじ色の仏さま、仏像の光背に似た仏炎苞に包まれて咲くザゼンソウだ。
 命名は達磨大師が坐禅を組む姿からの連想だと言われているが、なんという情緒的で思い入れの強さであろうか。
 英語では、ザゼンソウのことを「スカンクキャベツ」という。実際、花が盛りの時は悪臭を放つのである。しかし、それは人の嗅覚で「異臭・悪臭」であるが「虫たちには芳香」なのだ。
 匂いと形状からの命名で即物的である。西洋人と日本人の民族性や文化の違いがよく解っておもしろい。』

 ザゼンソウを歌題とした短歌は少ない。
「梅雨空のもとに広がる座禅草悟りし僧は里にあるらむ」という庄内拓明の短歌には「詳しい生態的な観察」と「名前の由来」がすべて込められている。この短歌を解釈出来ると、ザゼンソウに関してほぼ理解が可能ということになるだろう。

「梅雨空の下では、渓流に沿って大きなザゼンソウの葉がびっしりと生えている。珍しい景色だ。雪解けの頃は、こんな大きな葉はなく、ちょうと法衣をまとった僧が座禅を組んでいるように見える花が咲いていたものだ。
 梅雨時になり、葉が大きくなってしまうと、座禅を組んでいた僧はすっかり消えてしまった。きっと悟りを得て、衆生救済のために里に下ったのだろう。」
 …と私は解釈した。

短歌は少ないが俳句は結構多い。その中から、小串歌枝の「座禅草眠り落つ児に母衣(ほろ)揚げよ」という秀句を紹介する。
 非常に難しい主題だ。擬人法的な手法でのとらえかたである。作者の優しい願いが、観察から生まれ、座禅草に語りかけている。眠り落ちた児とは花穂であろう。母衣(ほろ)とは花穂を包んでいる仏炎苞をたとえたものだろう。すやすやと眠る子供に、母親よ優しく衣をはおりかけてほしいという願いである。座禅草の風情が作者の感性をこれほどまでに高め、深めたのである。
 女性の俳人特有の優しさ、慈母の心情がひしひしと伝わってくる秀句だ。


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