今日から7月、夏山シーズン真っ盛りの時季になる。岩木山も登山客が増える時季になる。それと併行して登山者も増えるが、これは「岩木山にやって来る人たち」全体の、多めに見ても2~3%に過ぎない。
私は自分なりに次のように「登山客」と「登山者」を区別している。
「登山客」とは「他力本願が主体で、自分の足を殆ど使わないで山頂に行く人」であり、「自動車道路を自動車」で登り、「リフトやゴンドラ」を利用して、登山道の行程中、「10%」も歩かない人たちである。そんな中には、「ガイド」に連れられて「ぞろぞろと」という集団もある。
「服装や装備および外見・格好」から、「登山客」なのか「登山者」なのかを判断することは容易な場合が多いが、最近は難しい場合もある。
近頃、登山の服装や装備は格段に進歩した。お金を出すと、まるで「着せ替え人形」のように「登山者」に変貌することが可能となっている。
本人たちは、それを着て、それをつけて「登山者然たる」我が身に満足なのだろうが、これは単に「登山者風」に「変装」したに過ぎない。一見して「登山者」として非の打ち所がないだけで「登山者」と見てはいけない。どこかに「登山者」が見せない「隙のようなもの」や「異質」がある。
こんなことがあった。ある登山道を…私とすれ違いながら「コンニチワ」を口々に「呪文」のように唱えて降りて行く集団がいた。服装や装備は最新ですばらしい物ばかりを着けた女性ばかりの集団である。外見は立派な「登山者」である。ところが降りる時の「靴の扱い方とその置き場や置き方」を見ると、それは「登山者」とはいえないものだった。二者の違いは「登りよりも下り」によく出る。
山における「集団」を一般的には「パーテイ」というが、「パーテイ」とはその集団における構成員各自の役割が明確に決まっており、個々が自助責任のもとに登山をしているものを指す。これを基準に、この集団を見るとやはり「集団」にしか見えなかった。
その「集団」も間もなく通り過ぎるであろう最後の2人になった時に、その「2人」が私に話しかけてきた。何と、「この人たち(集団)は、どこに降りるのでしょうか。」とである。「えっ!」一瞬絶句である。
私はこの2人はこの「集団」の最後尾の者たちだろうと思っていた。まさに「服装、いでたち、格好、装備」と「間隔的距離」が同質だったのだ。しかし、よく見ると「不安気」という雰囲気がこの2人にはあった。
「あなた方はどこに降りるのですか。」「リフト乗り場です。」と言う。その登山道を降りるとリフト乗り場には行かない。まったく方向違いの反対側に降りてしまう。
「どうして、こんなことになったんですか。」
「リフトに乗った時から山頂まで、あの人たちとずっと一緒だったんです。初めての山だし、分からないので、あの人たちと一緒の行動していると間違いがないと思い、下山も一緒について来たんです。」と言う。
「もう一度頂上に登らないと、リフト乗り場には行けませんよ。私も頂上に行きますから一緒に行きましょう。」
登りながら、確認したら案の定、2人は「地図も磁石」も持っていない。「標識」に地図の代わりをさせて、「踏み跡」と「他人の後」を頼りに「山を彷徨(うろつ)いている」だけなのだった。まさに、「登山客」の典型である。
そして、このような「登山客」は「登山ブーム」の中でどんどん増えている。
★「登山」ブームは仕掛けられている
特に最近は中高年者の登山ブームだ。どんなブームでも「ブームの渦中にいる者」は気づかないだろうが、ブームを作り出す「仕掛け人」が存在する。
ブームに乗っているかぎり、それは結局その仕掛け人に「させられている」のである。つまり、一つのパタ~ンに一般化されてしまうわけだ。たとえば、山に行くには、山に登るにはこんな格好、こんな服装、こんな靴、こんな道具を身に着けなければいけない。などなどと情報消費社会の営業資本がテレビ、写真、図解、話しで迫る訳だ。そして、それを全部身に着けたところできわめて一般的な登山者という「外形」だけは整うことになる。だが、所詮「中身や生身」は「登山客」でしかない。
この「登山者」をコンピュータになぞらえると、まさに「市販されている世間一般に共通する頭脳(ソフト)が数多く組み込まれている」コンピュータとなるわけである。
ブーム的な思考形態で、「形」から入る登山は一般性を必然的に求めるから、カスタマイズされているとは言えない。それは真似であるから基本形態は同じであり、同じような人や格好はどんどん増え、ブームはブームを呼んでいく。
仕掛け人に「させられている」ことを、あえてしない人でも、「真似(まね)」することから入るならば、自分を他のコピー化するわけだから、つまりは一般化していくことになる。「見た目の真似から入る危険性」に気づかない「登山客」が多いほど「登山グッズ」の店は儲けることになる。
多くの「登山客」という存在は「登山グッツ業界」や「ツアー業界」それに「ガイド業界」を永遠に保証する。まさに、これらの業界にとって「登山客」は神様なのである。
今年の夏も、これら多数の「神様」に占拠されて、岩木山の神様たちの国常立命(クニトコタチノミコト)や顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)の出番はないかも知れない。夏山シーズンが終わって「お山参詣」の時に奥宮に祀られるのが顕国魂神だが、その時に出番が与えられてもさぞかし、喧噪で頭が痛いだろう。
私は自分なりに次のように「登山客」と「登山者」を区別している。
「登山客」とは「他力本願が主体で、自分の足を殆ど使わないで山頂に行く人」であり、「自動車道路を自動車」で登り、「リフトやゴンドラ」を利用して、登山道の行程中、「10%」も歩かない人たちである。そんな中には、「ガイド」に連れられて「ぞろぞろと」という集団もある。
「服装や装備および外見・格好」から、「登山客」なのか「登山者」なのかを判断することは容易な場合が多いが、最近は難しい場合もある。
近頃、登山の服装や装備は格段に進歩した。お金を出すと、まるで「着せ替え人形」のように「登山者」に変貌することが可能となっている。
本人たちは、それを着て、それをつけて「登山者然たる」我が身に満足なのだろうが、これは単に「登山者風」に「変装」したに過ぎない。一見して「登山者」として非の打ち所がないだけで「登山者」と見てはいけない。どこかに「登山者」が見せない「隙のようなもの」や「異質」がある。
こんなことがあった。ある登山道を…私とすれ違いながら「コンニチワ」を口々に「呪文」のように唱えて降りて行く集団がいた。服装や装備は最新ですばらしい物ばかりを着けた女性ばかりの集団である。外見は立派な「登山者」である。ところが降りる時の「靴の扱い方とその置き場や置き方」を見ると、それは「登山者」とはいえないものだった。二者の違いは「登りよりも下り」によく出る。
山における「集団」を一般的には「パーテイ」というが、「パーテイ」とはその集団における構成員各自の役割が明確に決まっており、個々が自助責任のもとに登山をしているものを指す。これを基準に、この集団を見るとやはり「集団」にしか見えなかった。
その「集団」も間もなく通り過ぎるであろう最後の2人になった時に、その「2人」が私に話しかけてきた。何と、「この人たち(集団)は、どこに降りるのでしょうか。」とである。「えっ!」一瞬絶句である。
私はこの2人はこの「集団」の最後尾の者たちだろうと思っていた。まさに「服装、いでたち、格好、装備」と「間隔的距離」が同質だったのだ。しかし、よく見ると「不安気」という雰囲気がこの2人にはあった。
「あなた方はどこに降りるのですか。」「リフト乗り場です。」と言う。その登山道を降りるとリフト乗り場には行かない。まったく方向違いの反対側に降りてしまう。
「どうして、こんなことになったんですか。」
「リフトに乗った時から山頂まで、あの人たちとずっと一緒だったんです。初めての山だし、分からないので、あの人たちと一緒の行動していると間違いがないと思い、下山も一緒について来たんです。」と言う。
「もう一度頂上に登らないと、リフト乗り場には行けませんよ。私も頂上に行きますから一緒に行きましょう。」
登りながら、確認したら案の定、2人は「地図も磁石」も持っていない。「標識」に地図の代わりをさせて、「踏み跡」と「他人の後」を頼りに「山を彷徨(うろつ)いている」だけなのだった。まさに、「登山客」の典型である。
そして、このような「登山客」は「登山ブーム」の中でどんどん増えている。
★「登山」ブームは仕掛けられている
特に最近は中高年者の登山ブームだ。どんなブームでも「ブームの渦中にいる者」は気づかないだろうが、ブームを作り出す「仕掛け人」が存在する。
ブームに乗っているかぎり、それは結局その仕掛け人に「させられている」のである。つまり、一つのパタ~ンに一般化されてしまうわけだ。たとえば、山に行くには、山に登るにはこんな格好、こんな服装、こんな靴、こんな道具を身に着けなければいけない。などなどと情報消費社会の営業資本がテレビ、写真、図解、話しで迫る訳だ。そして、それを全部身に着けたところできわめて一般的な登山者という「外形」だけは整うことになる。だが、所詮「中身や生身」は「登山客」でしかない。
この「登山者」をコンピュータになぞらえると、まさに「市販されている世間一般に共通する頭脳(ソフト)が数多く組み込まれている」コンピュータとなるわけである。
ブーム的な思考形態で、「形」から入る登山は一般性を必然的に求めるから、カスタマイズされているとは言えない。それは真似であるから基本形態は同じであり、同じような人や格好はどんどん増え、ブームはブームを呼んでいく。
仕掛け人に「させられている」ことを、あえてしない人でも、「真似(まね)」することから入るならば、自分を他のコピー化するわけだから、つまりは一般化していくことになる。「見た目の真似から入る危険性」に気づかない「登山客」が多いほど「登山グッズ」の店は儲けることになる。
多くの「登山客」という存在は「登山グッツ業界」や「ツアー業界」それに「ガイド業界」を永遠に保証する。まさに、これらの業界にとって「登山客」は神様なのである。
今年の夏も、これら多数の「神様」に占拠されて、岩木山の神様たちの国常立命(クニトコタチノミコト)や顕国魂神(ウツシクニタマノカミ)の出番はないかも知れない。夏山シーズンが終わって「お山参詣」の時に奥宮に祀られるのが顕国魂神だが、その時に出番が与えられてもさぞかし、喧噪で頭が痛いだろう。